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大塚信一『顔を考える』/馬場悠男『「顔」の進化』/鷲田清一『顔の現象学』/熊野純彦『レヴィナス』

☆mediopos3406  2024.3.15

わたしたちはじぶんを
どのようにイメージしているのだろうか

主にイメージされるのは
多くの場合「顔」だろう

「顔」は「面」ともあらわされるように
「顔」には目・鼻・口・耳といった
主要な感覚器官が集中していることもあり
その意味でも「顔」はそのひとの「面」
つまり「表」としてとらえられているのだろうが

鏡にうつったじぶんの顔を見るときにせよ
それは直接見えているわけではない

撮影された映像として
じぶんの顔を見ることはできるだろうが
ひとが直接わたしを見るように見ることはできない

つまりわたしたちがじぶんの「顔」をもつのは
「他者の他者」としての「顔」である

またわたしたちがだれかのことを思い起こすとき
名前や声や顔などをイメージするだろうが
そのときにも主にイメージされるのは「顔」だろう

そしてそのひとをそのひとであるとイメージするように
じぶんをじぶんだとイメージする

しかしリルケがかつて
「人間の数より顔の方が多い、
なぜなら人はいくつもの顔を持つから」
といったように
わたしたちの「顔」はひとつではない

状況による刻々の変化だけではなく
いうまでもなく年を取れば「顔」は大きく変化する
そしてときにそのひとであるはずの「顔」が
かつてのイメージをとどめていないことも多い

それでもわたしはわたしであり
そのひとはそのひとであり
そこには「顔」がある

しかしその「顔」とはいったいなんだろう
「顔」は見えているのだろうか
そもそも見えるものなのだろうか

鷲田清一は『顔の現象学』のなかで
「顔がつねにだれかの顔であるというとき、
そうした顔へのわたしの密着=所属は、
じつは他者としての顔との対面のなかでこそ起こる。
他者の顔の前で、わたしには見えない「わたしの顔」が
わたしの存在を侵食してくるのだ」という

つまり「わたしが自分の顔を「もつ」」ということは
「わたしはいつもだれか(他者の他者)で
あり続けなければならない」ということである

レヴィナスが示唆するように
わたしは顔をもつことで他者によって召還され
そうすることで
「おまえはだれか」という問いがつきつけられる
つまり「わたしはだれか」という問いから
逃れることができなくなる

ある意味で「顔」は「仮面」(ペルソナ)であり
それが人格を表すことがあるが
わたしはわたしであるという
同語反復的なアイデンティティの確認は
どこで可能となるのだろう

わたしがわたしである
としてイメージしているわたしの
「顔」(仮面)の下にはなにがあるのだろう
それともそこにはぽっかりと
深淵が覗いているのだろうか

■大塚信一『顔を考える/生命形態学からアートまで』(集英社新書 2013/10)
■馬場悠男『「顔」の進化/あなたの顔はどこからきたのか』(ブルーバックス 講談社 2021/1)
■鷲田清一『顔の現象学』(講談社学術文庫 1998/11)
■熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波書店 2012/10)

*(大塚信一『顔を考える』〜「はじめに」より)

「顔には人が外の世界を認識するための主要な感覚器官が集中している。目、鼻、口、耳である。食物や水分をとるのも口を通してであり、呼吸するのも鼻によってである。それだけでなく、他の動物と違って、人間の場合には、これらの感覚器官は顔の前面に集中している。とすれば、顔が人間にとってもっとも大切な存在であることが、よく納得できるはずだ。
 このようにさまざまな重要な機能をはたす存在であるとすれば、過去はそれをもつ人の性質や特徴を表すに違いない。このように考えるのは、ある意味で当然といってよいだろう。」

「自画像には必ず顔が描かれる(肖像画の場合もそうだ)。顔の部分が空白だったり塗りつぶされている場合もあるが、それはそれで特別の意味を帯びてくる。自画像を見れば、顔が人間にとって人格を表すもっとも重要な存在であることがわかる。
 ところで文化史的に見ると、日本人は横顔を好まなかったようだ。肖像画や似絵にしてもほとんどが正面顔である。横顔という言葉自体、好ましくない意味合いを含んでいる。横という言葉の用法を考えれば————例えば、横恋慕、横やりを入れるなど————それはよく理解できるだろう。
 これに比して西欧やエジプトなどでは、古来、横顔が権威と気品を表すものとして、数多く描かれてきた。」

「素顔をさまざまな方法でより美しく見せようとするのが化粧である。しかし一方で、興味深いことに、わが国は独特の〝顔隠し〟の文化を持っていた。マユをそり落としたりオハグロをつけたり、化粧は顔隠しのためのものでもあった。(・・・)
 今日では化粧のカテゴリーをはるかに超えた、つまり顔そのものをつくり変えてしまう整形美容が流行している。
(・・・)
 文化人類学や民俗学は、素顔を隠すもう一つの手段である仮面についても、われわれに興味深い事例を数多くの与えてくれる。」

「二十一世紀に入った今日、ケイタイ電話やインターネットは社会の隅々にまで普及している。こうした新しい社会では、人々は対面せずにコミュニケーションを行うことができるようになった、
(・・・)
 その反面、例えば〝出会い系サイト〟などはさまざまな問題を惹き起こしている。かつて共同体のなかでは、顔を知ることから他人の交流が始まった。というより始めざるをえなかった。顔は相手の性質や人柄を知る手がかりだったからこそ、ある年齢に達したら、自分の顔に責任を持て、と言われたのだろう。
 しかし共同体の崩壊に伴って、顔の重要性は低下しているように思える。
(・・・)
 顔を見分けることができなくなる〝相貌失認症〟という病気がある。その原因は、完全に解明されたわけではないが、脳のある部分の欠損や機能不全に関係する、と言われている。(・・・)
 顔がわれわれにとってどんなに大切なものであるか、顔の地位が低下しつつあるように見える今日でも、本質的には変わりはない。」

*(大塚信一『顔を考える』〜「おわりに————顔の哲学」より)

「リルケは、人間の数より顔の方が多い、なぜなら人はいくつもの顔を持つから、と言った。確かに人は時々にいろいろな顔を持つ。それらのうちどれが本当の顔かと問われれば、人為的につくったものでない限り、すべてがそうだと答えなければならないだろう。しかしそれは、逆に言えば、すべてが本当の顔ではないということでもある。」

「熊野純彦も言う。過去は不断に姿を変え、「かたち」を解体する。「顔は〈かたち〉を超えたところに〈あらわれ〉る(『レヴィナス』)
 このような顔が持っている不思議な本性について、鷲田清一は、「〈顔〉はつねのこのように意味と非意味の境界に位置する」と言う(『顔の現象学』)。そして続けて次のように言っている。「〈顔〉が意味の内と外をたえず越境するものであるかぎり、意味の内部に拘束された過去、同一なものとして解読可能な顔はすでに盗まれた顔なのである」
 ところで、顔を「意味の内と外をたえず越境するもの」として捉えるならば、その前提として意味を成りたたせる場がなければならない。ここで思い出したいのは、人は自分の顔を見ることができないという事実である。自分の顔がどのような状態にあるかは、私の顔を見る他人の表情を通してしか推測できない。つまり他人は、まさに私の鏡なのだ。
 それを鷲田は「〈わたし〉の可視性のアンバランスな構造」(同)と呼ぶ。そしてそのアンバランスな構造を支えているのが、私と他者が、例えばある表情が同じ意味を持つと解釈する共同の場にいるという認識である。つまり、「解釈の共同的な構造」(同)である。
 それは(・・・)赤ちゃんが自分と世界を理解するために母親の表情を読むことがいかに重要か、ということでもある。またラカンの有名な〝鏡像段階〟という考えもこの点に由来するといえるだろう。」

「ここでさらにもう一人、(・・・)ユダヤ系の哲学者エマニュエル・レヴィナスの意見を聞くことにしたい。「私はいつも隣人の顔をある命令の担い手として描いています。他人に対する無償の————そして、あたかも私が選ばれた者。唯一者であるかのように譲渡不能な————責任を私に課する命令の担い手として」(『他性と超越』
 われわれの文脈に引きつけて、このレヴィナスの言葉を解釈するなら、顔は(解釈の共同性を前提としているだけでなく、)根源的な倫理の成立根拠でもある、ということであろう。
 それをさらに、港道隆は次のように言い換える。「顔は〈私〉に呼びかけ、『汝殺すなかれ』と命じる。顔の呼びかけと命令とは暴力に関わるがゆえに、〈私〉の意味付与の自由がすでに権力であり、暴力であることを暴き、自他の対面を本質的に倫理的なものにする。好むと好まざるとにかかわらず、顔の呼びかけに捉えられた〈私〉には、二つの可能性しかない。暴力によって関係を断ち切るか、他者を迎え入れるか、である」(『レヴィナス』)

*(馬場悠男『「顔」の進化』〜「はじめに」より)

「あなたが鏡を見ると、あなたの顔が見える。それはあなたが他人に見せている、あなた自身の姿にほかならない。では、あなたの顔はどこからやってきたのだろう。そしてこれから、どこへ行くのだろう。
 そもそも動物の顔は、食べるためにできあがった。やがて、外界のさまざまな刺激を感知するようになり、さらには情報を発信するように進化してきた。顔には、さまざまな動物がそれぞれの環境に適応するために努力してきた工夫が満載されている。
 だからあなたの顔は、動物進化が長い時間をかけて生み出した、究極の傑作なのだ。」

*(馬場悠男『「顔」の進化』〜「序章 顔とは何か」より)

「顔は、静的な肉体の一部ではない。いつも変化し、エネルギーや情報が出入りする生きた存在である。とくに重要なのは、お互いに相手の顔がどのように見えるか、見られるかである。足が足のように見えなくても、当事者(自分)も他者(相手)もかまわないが、顔にとっては、顔が顔に見えるかどうかは大問題なのだ。それは、意識するとしないとにかかわらず、顔がコミュニケーション情報を交換する場所だからである。人間の場合はまた、顔は年をとるにつれて、人格を代表する存在にもなる。
 顔とは、身体の部品(器官)のうち眼、鼻、口、耳などが集まっている領域である。しかし、なぜこれらが1カ所に集まっているのか、そしてその領域を我々がなぜ顔とみなすのかはわからない。」

*(馬場悠男『「顔」の進化』〜「第3章 ヒトの顔はなぜ違うのか」より)

「あなたはさまざまな動物の顔を、正面から見た顔で認識しているだろうか。それとも横顔で認識しているだろうか。と尋ねられても、そんなことはふだん考えたこともないだろう。
 ネコ、サル、フクロウなどは、正面顔として認識されることが多い。それは二つの眼が正面を向いているからだ。一方でサカナ、ウマ、ハトなどは、眼が横についているので、横顔として認識されることが多い。微妙なのは犬である。漫画に描かれたものや、自分の飼い犬はおそらく正面顔で認識しているが、一般的なイヌを認識するのは横顔という人が多いかもしれない。」

「ヒトは、一般には正面顔で認識され、パスポートの写真も正面顔である。では、我々は、横顔で他人を識別できるのだろうか。
 ヨーロッパ人は鼻が高く隆起し、頬が引っ込んでいるので、横顔でも個体識別することが可能である。ところがアジア人は、稀な例外はあるが、一般には横顔では個体識別ができない。
 紙幣に印刷された偉人の顔は、斜め正面のことが多いが、コインに刻まれる顔は、必ず横顔である。それは、コインに顔を刻みはじめたのはヨーロッパ人(西アジア人も含む)だったからだ。

*(鷲田清一『顔の現象学』〜「学術文庫版まえがき」より)

「「顔が見えない」という言い方がよくなされる。顔は本来見えるものだという前提がここにはある。」

*(鷲田清一『顔の現象学』〜「Ⅰ〈顔〉」より)

「〈顔〉はつねにだれかの顔である。そうだとすると、「だれ」という問題をぬきにして、あるいは「だれ」という契機を外して、だれの過去でもない顔一般について語ることに意味があるだろうか、という疑問にまずとらわれる。われわれは他人の顔を思い描くことなしに、そのひとについて思いをめぐらすことはできないが、そうだとすると、この問いのなかにすでに、人称(だれ)と顔の関係という、〈顔〉をめぐるもっとも基本的な問題の一つが現れでている。」

「わたしは自分の顔から遠く隔てられている。あるいはそこへといたる直接的な通路を欠いている。言いかえると、わたしは自分の顔に、(自分でも気づかない)その微妙な変化に、他人の顔をまなざすことによって、間接的にしか近づくことができない。わたしがそれであるところのものに他者を経由してしか近づけないということ、このことは、〈わたし〉というものがけっして閉じた存在ではないこと、〈わたし〉というものは穴やすきまだらけのイメージのようなものとしてしか存在しえないことを示している。顔の存在は、〈わたし〉を包む被膜であるどころか、逆に〈わたし〉の存在を深く走る亀裂そのものであると言ってよい。あるいは、それに関しては〈わたし〉の所有権がはじめから剥奪されているという意味で、顔は文字どおり〈わたし〉の外部であると言うこともできるだろう。」

*(鷲田清一『顔の現象学』〜「Ⅻ 見られることの権利」より)

「顔がつねにだれかの顔であるというとき、そうした顔へのわたしの密着=所属は、じつは他者としての顔との対面のなかでこそ起こる。他者の顔の前で、わたしには見えない「わたしの顔」がわたしの存在を侵食してくるのだ。」

「わたしが自分の顔を「もつ」というのは、わたしが差し向けられるべき他者をもち、他者と接触するという悦びであるとともに、逃げること、場を外すことを許さないという苦痛でもある。つまり、わたしはいつもだれか(他者の他者)であり続けなければならないという苦痛である。「わたしたち」のうちのひとりとしての「わたし」がわたしに貼りついて離れないのである。わたしは孤絶できない、そういう苦痛である。そのとき、おそらく、わたしは自分の顔に所有されている。意のままにならないこと、不随意であること、それは何かに所有されていることである。しかし、この苦痛は、わたしがそれを所有してこその反照としてある。
 わたしは自己のうちに閉じこもることができない。レヴィナスのいう、「他人に対してわたしが無関心でいることの不可能性」、つまり他者によるわたしのたえざる「召還」、そのなかで、わたしが他者によって引きずり出される。まさに他者に指さされることによって。「おまえはだれか」という問いを突きつけられることによって。このとき、わたしは「わたしは何か」ではなく、「わたしはだれか」という問いに向き合わされるのである。
 名をもった「だれか」として呼びかけられることで、つまり他者によるわたしの「召還」のなかで、わたしはわたしになる。わたしの固有性とは、したがって、わたしがその内部に見いだすものであるというよりはむしろ、他者によるわたしの「召還」のことである。」

「人びとはみずからの存在の傷つきやすさを繕おうとして「顔」を求めるのであるが、僕はそれが、傷としての〈顔〉をあらわにするためのようにおもわれる————。(・・・)
 傷としての顔、見られることへの呼びかけとしての顔。それがいま見えにくくなっている。」

*(鷲田清一『顔の現象学』〜「原本あとがき」より)

「顔は見えるものなのか。顔は面なのか。そもそもここにある(はずの)この顔、これはわたしなのか。もしそうでないとすれば、それはだれに向けられているのか。それへと向けられている(はずの)他人の顔も他人その人でないとなれば、あるいは、わたしの表、他人の表? では表って何だろう・・・。」

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