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TVOD「白旗を抱きしめて 〈敗北〉サブカル考」 (「生きのびるブックス」)/TVOD「白旗を抱きしめて/早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』

☆mediopos3421  2024.3.30

TVODの往復書簡「白旗を抱きしめて/〈敗北〉サブカル考」が
「生きのびるブックス」で連載されている
(現在のところ第7回(2024.3.15)まで)

TVODはコメカ(早春書店店主 @comecaML)と
パンス(@panparth)による批評ユニット

二人ともゼロ年代に青年期をすごした
1984年生まれということなので現在ほぼ40歳

その視点から
「「サブカルチャーと社会・政治を同時に語る」活動を、
様々な媒体にて展開」しているとのことだが

この連載では
「勝ち組」「負け組」という言葉に表されているような
格差社会における挫折や敗北について考察されている

「勝ち組・負け組」という言葉は
2000年代に入る頃からよく聞くようになったという

その言葉はもともと
「第二次世界大戦終結時、海外在住日系人のなかで
日本の敗戦を信じない人を「勝ち組」、
信じる人を「負け組」と呼称したこと」
からきているとのことだが

「2000年代当時は単純に、
格差社会化が進行するなかでの経済的強者が「勝ち組」、
弱者が「負け組」と呼ばれてい」た

当時高校生だったTVODのひとり「コメカ」は
「「勝つ」ということに重要性を感じることができない、
正直そこに興味を持てていなかった」

サブカルチャーに興味をもったのは
「「勝つ」こととは違う世界の
可能性を開いてくれるものだった」からだという

現在は「一定の多様化が進んだ」ことで
「勝ち組・負け組」という表現がなされることは
少なくなってきているようだが

その背後で
「「勝ち組・負け組」的な世界観・世界像というものが
実は再強化され続けているのではないか、という疑問」
があるという

それは格差社会が当たり前のようになっていて
「モノを「買う」力や恋愛市場における資本力を持たない
「負け組」であることを、変えようのない所与のものとして
受け入れざるを得ない層が、増え続けている」から
なのではないかと

そんななかで「コメカ」は
「サブカルチャーには「勝ち負け」の構造そのものを
解体するような思考を広く届けたり、
「敗北」することそのものを深く捉えていくような力が
あったのではないか、そのことをもう一度理解することで」
「現状での思考とは異なる、何か別の形での
捉え直し作業ができるのではないか」と問いかけている

かつての早川義夫のソロアルバムのタイトルである
「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」
という言葉を引いたもうひとりのTVOD「パンス」の手紙を受け

「コメカ」は
「近代的な「かっこいい」主体性を確立しようとすることが、
逆に「かっこ悪い」悲惨な抑圧を社会に招き得る、みたいな
警句として読むことだってできる気がする」という

しかし早川義夫は上記のアルバムを発表した後
音楽業界から離れ本屋のおやじさんになり
「2011年にTwitter(現・X)上で、
「『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』
と思ったのは、42年ほど前のこと。
今は、『かっこいいことはかっこ良くて、
かっこ悪いことはかっこ悪い」と思っていますよ』
と投稿してい」たという

そしてその早川の投稿について
「アイロニカルな視線ではなく、
まっすぐな視線を今は大切にしている」ととらえる

早川義夫が「再び歌い始めてから発表した
最初のアルバムのタイトル曲
「この世で一番キレイなもの」には

「キレイなものは どこかにあるのではなくて
あなたの中に 眠ってるものなんだ
いい人はいいね 素直でいいね
キレイと思う 心がキレイなのさ」
というフレーズがあるという

「「ふつうであること」を一生懸命目指すことには、
やはり重要な何かがある気がする」というのである

「負け」を「勝ち」にひっくり返し
漫才の世界で勝ち続けてきた松本人志が
早川義夫と対照されているが

「はたして松本もわたしたちも、そこまで「勝ち」を
追い求め続ける必要があったのでしょうか?
まっすぐに素直であろうとすることは、どうして
こんなに難しいことになってしまったのでしょうか?」
と問いかけられている

ぼく個人のことをいえば
物心ついてから「勝ち負け」の世界から
できるだけ捻れの位置にじぶんを置いてきたので
「勝ち」を追い求めること
つまり「承認欲求」を充たそうとすることは
ぼくのなかではずいぶん「かっこわるい」ことだ
という感覚が強くある

そうした少しばかり屈折したような感覚ではなく
そのまま自然体であるようなあり方ができる
そんな世の中であればいいのにと思っているのだが

世の中をみれば
その言葉そのものが使われないとしても
管理社会化がますます進み
「勝ち組」「負け組」の固定化された格差社会が
現実のものになってきている今
たしかに「まっすぐに素直であろうとすること」は
ますます難しくなってきている

この世界は数多くの制約のなかで
さまざまな課題をもって生きていく場所ではあるが
そうした管理社会・格差社会化を前にすると
ずいぶんと気持ちが萎えてしまう

「白旗を抱きしめて」
というような「白旗」どころか
どんな「旗」も持っていたくはないけれど
そんなななかでどう「生きのびる」ことができるのか
これからもその問いは続いていきそうだ

■TVOD「白旗を抱きしめて/〈敗北〉サブカル考」
 (webマガジン「生きのびるブックス」)
■早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』(ちくま文庫 2013/12)

**(TVOD「白旗を抱きしめて/〈敗北〉サブカル考」より)

*TVODはコメカ(早春書店店主 @comecaML)とパンス(@panparth)による批評ユニット。

**「格差社会が当たり前のものとなって久しい。「勝ち組」「負け組」という言葉は、社会背景によってその内実をかえながら、亡霊のように私たちにまとわりついているかのようだ。 音楽、映画、小説、漫画……。サブカルチャーにおいて、挫折や敗北はどのように描かれてきたのか。私たちはそこに何を見出そうとしてきたのか。 ともに1984年に生まれ、ゼロ年代に青年期をすごしたTVODの二人が、往復書簡をとおして自在に語りながら考察する。」

**(TVOD「白旗を抱きしめて」連載第1回「「敗北」について──コメカより」から)

*「今回は「白旗を抱きしめて」と銘打って、サブカルチャーと「敗北」という問題について、ぼくたちなりに考えようとしています。何故いま現在2023年において、わざわざ「敗北」というテーマについて、それもサブカルチャーを通して考えるのか。そしてそもそもぼくとパンスくんふたりの間で、「敗北」というものの捉え方や考え方について、恐らくかなりの距離・違いがあるでしょう。これからこうして手紙をやりとりするような形でこのテーマを話していければと思うのですが、まずはぼくが「敗北」について考えていることを、書いてみます。
 2000年代に入る頃から、「勝ち組・負け組」という言葉をよく聞くようになった記憶があります。ぼくもパンス君も同じ1984年生まれですが、ぼくらが大学生になった2000年代中頃には既に、この言葉は世間に溢れかえっていたように思います。もともとは第二次世界大戦終結時、海外在住日系人のなかで日本の敗戦を信じない人を「勝ち組」、信じる人を「負け組」と呼称したことがこの言葉の起源だそうですが、2000年代当時は単純に、格差社会化が進行するなかでの経済的強者が「勝ち組」、弱者が「負け組」と呼ばれていました。」

*「当時の自分が「勝ち負け」についてどう考えていたかを思い返すと、「勝つ」ということに重要性を感じることができない、正直そこに興味を持てていなかったような気がします。高校生の頃、友人が「とりあえずどこか有名企業に入社できれば、人生安泰なのにな」と言っているのを聞いたとき、「そういう『勝ち組』的な人生を目指すのは、つまらないから嫌だな……」と思ったことをよく憶えています。そしてそれをその友人に直接言えなかったことも、よく憶えています。黙ってなんとなくやり過ごしてしまいました。」

*「とりあえず、2000年代に入る頃の自分にとってサブカルチャーは、「勝つ」こととは違う世界の可能性を開いてくれるものだったわけです。」

*「いま現在2023年の状況を考えてみると、少なくとも文化的には、2000年代のころよりは(あくまで、そのころよりは)一定の多様化が進んだようには感じます。恋愛市場・結婚市場で「勝ち組」になれない/ならないのを恥ずかしいこととするような社会的プレッシャーは、相対的には減じている。「誰もが必ず異性間恋愛に基づいた人生設計をしなければならない」というようなロマンティック・ラブ・イデオロギーの専制機能は、かつてよりは恐らく一応衰弱している。サブカルチャーにおいても80年代的な消費主義=差異やブランドに価値を持たせるカタログ文化的な構造は、過去のものになりました。ネットの発展によって中央集権的な情報環境はどんどん分散化され、例えば音楽ひとつとっても、かつては中古レコード屋が密集する都市部に住んでいなければ難しかったような視聴体験が、ウェブを通して多くの人に、安価かつ手軽な形で開かれました。コミュニケーションや文化体験の水位では、自分が勝っているのか負けているのかを意識させるようなメッセージやプレッシャーが、表面的には減っているかもしれません。2000年代当時よりも、「勝ち組・負け組」という表現を聞く機会そのものが少なくなったような気もします。」

*「ただ自分には、そうした状況の後ろ側で、「勝ち組・負け組」的な世界観・世界像というものが実は再強化され続けているのではないか、という疑問があります。格差社会というものが当たり前の前提となって久しく、消費やコミュニケーションに対する考え方の多様化自体は少しずつ進む一方で、自分が生まれ持った経済環境や制限・事情をひっくり返すような自由の可能性を信じることは、この社会では以前よりもむしろ難しくなっているように思います。モノを「買う」力や恋愛市場における資本力を持たない「負け組」であることを、変えようのない所与のものとして受け入れざるを得ない層が、増え続けているように感じます。サブカルチャーにおけるカタログ主義の消失にも、情報環境や生産体制の変化と同じぐらいに、ユーザー側の経済力の衰弱というものもそれなりに大きく作用しているはずです。

 ただ、ぼくは今ここで、「だから『勝つ』ことを改めて意識するべきだ」という話をしたいわけではありません。そういうレベルの問題においては、自分だけが金やコミュニケーションにおける強者になることを目指すより、格差社会構造そのものを変えられるよう、社会や政治に対するコミットを自分なりに少しずつ続けて行くしかないように思います。ぼくがいま考えたいのは、サブカルチャーには「勝ち負け」の構造そのものを解体するような思考を広く届けたり、「敗北」することそのものを深く捉えていくような力があったのではないか、そのことをもう一度理解することで、変えようの無い格差構造の上で消費選択肢やエスケープ先ばかりが増えていく現状での思考とは異なる、何か別の形での捉え直し作業ができるのではないか、ということです。「負ける」ことを甘美に捉えたり、勝ち目がなくともともかくファイティング・ポーズをとっていればいいんだ、というような敗北主義的な思考を称揚したりしたいわけではなく、人生や社会には「負ける」場面というのはやはりあり、そしてそもそも「勝ち負け」という基準そのものを取っ払うような思考が必要な場面というものもやはりあるという当たり前のことを、「多様化」という言葉の水面下から引っ張り出して考え直してみたい、という気持ちが、自分にはあります。」

**(TVOD「白旗を抱きしめて」連載第6回(2024.2.29)「ちいさなラディカリズムーーパンスより」から)

*「個人的には、21世紀に入ってから「これからは政治的なものが盛り上がるな」とボンヤリ熱い思いを抱いていたんですが、これは世間一般からするとだいぶズレた感覚だったと思います。ただ2001年に同時多発テロがあるなど、自分の生活とは離れた場所で世界が大きく動いているような状況を見てると、なんとなくそう思えたのです。活動家みたいになれるタマではないのは自分でもよくわかっていたので、きちんと理論を学びたいと図書館に行って思想書みたいなのも読むぞとはり切っていました。もちろんはり切っているだけでちゃんと読めてない。高校時代の友人は、教室の机にドゥルーズ、ガタリの『アンチ・オイディプス』(当時は文庫ではなく、河出書房新社の単行本)などを置いて本の壁を作っていた僕の姿を覚えているはずです(置くだけで読めてない)。

 インターネットが家にやってきたタイミングでもあったので、もちろん楽しんでいたし、通常のメディアでは知り得ないような情報が見られる点では重宝していました。ただ、自分の中でずっと違和感のようなものがあり、それについて以前「平準化」と書きましたが、もう少し焦点を絞って言い換えると、要は「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」(早川義夫)的な思考の全面化です。」

*「「勝ち負け」の話にスライドさせると、競争ゲームから降りること自体が「ゲーム内の敗者」として回収されるだけ、という感覚は、割と『反逆の神話』でカウンターカルチャーについて言われていたようなことと通じますね。反逆しているつもりが資本主義の中に取り込まれて、何なら「カッコいい」商品として流通するだけみたいな結果になってしまう。これは認めるか認めないかというより単なる事実として存在している。暴走族だってそうだったかもしれないし(そもそも大人になったら更生して社会の構成員になるパターンも多いし)、その他有象無象の文化もそうだし、「X」内で資本主義社会を叩いてもX社に貢献しているだけとも言えるし、などと列挙していくと結果的にシニカルにならざるを得ないところを何とか持ちこたえたいような気もする。ただまあこういった全体が管理社会の強化なんだと僕は結論付けてしまうんです。」

**(TVOD「白旗を抱きしめて」連載第7回(2024.3.15)「「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」を再検討するーーコメカより」から)

「前回のパンス君の手紙を読んで、「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」という言葉について久々にいろいろ考えました。早川義夫のソロアルバムタイトルであるこのフレーズ自体は、いろいろな解釈ができるものだと思います。例えば、人間が近代的な「かっこいい」主体性を確立しようとすることが、逆に「かっこ悪い」悲惨な抑圧を社会に招き得る、みたいな警句として読むことだってできる気がする。

 ただ、サブカルチャー的な文化圏ではこの言葉はやはり、かっこよくあろうとすることのなかにある寒々しさをナナメから批判的に眺める、というような意味合いで理解されることが多かったはずです。」

*「ところで、「寒い」という揶揄的表現を世間に広く浸透させたのは、ダウンタウン・松本人志でした。若い頃の松本を思い出そうとすると、彼がブラウン管のなかで「サブーッ!」と叫んでいる姿が、自分の脳内に浮かんできます。ナンセンス・コメディ感覚と尼崎で育った記憶・体験とを混ぜ合わせたようなダウンタウンの笑いは90年代に大きな成功を収め、松本は時代のカリスマになりました。カリスマ化して以降の松本が「寒い」とジャッジしたものには、「つまらない」「キツい」と否定的なレッテルを貼られる状況があったと思います。松本と早川義夫の間にはもちろん何の繋がりもありませんが、しかし松本も早川もそれぞれの時代のある時期において、「負けている」側からの想像力を提示していたのではないかと、ぼくは考えています。

 売れないバンドを解散させたシンガーとしてソロ作を発表した早川、漫才ブームがとっくに終わった後に漫才師としてデビューした松本はどちらも、その時点では「勝ち組」的に華々しく自らの表現を展開したわけではなかったはずです。極めて下品な言い方をしますが、売れないミュージシャンもブーム終焉後の漫才師も、世間は「負け組」として見做してきます。「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」という言葉や、「寒い」という揶揄的ツッコミには、そうした「負け組」の側からの世を拗ねたような感覚、ルサンチマン込みで世界を斜めから見るような想像力が上手く表現されていたように思います。そしてそうした感覚・想像力は、ある時期以降の日本のサブカルチャーに深く根差していったのではないでしょうか。」

*「しかし早川は『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』を発表した後、音楽業界から離れ本屋のおやじさんになります。対して松本は先述したように、こうした「負け組」的感性をフル活用することで、90年代以降の日本最大のポップスターのひとりとなっていきます。(・・・)ブーム後の漫才師という「負け組」的な場所から松本はその表現を始めたわけですが、しかし彼は「勝負そのものから降りる」思考=ドロップアウト的な思考は、基本的に持っていなかったのではないかと思います。当時の著作等で表明されていた松本の考え方は、ネクラだったり貧乏だったり、「負け組」である奴こそ面白くあり得るという趣旨のものでした。そして面白いことこそが松本にとっての至上価値であり、彼にとって「負け」を「勝ち」にひっくり返せるのが、お笑いだったはずです。「勝負そのものから降りる」のではなく、勝負において「負け」を「勝ち」にひっくり返すことが重要だったからこそ、松本は世間に対して被害者意識を抱えたり、攻撃的な言動を繰り返していたのではないか。自分は勝負に勝っているんだと、世間に向けて主張し続けたかったのではないか。」

*「松本について比較対象としてよく持ち出されてきたビートたけしは、全共闘の時代を通過したことで得た「勝負そのものから降りる」感覚、ドロップアウトの思想から出発しています。勝つとか負けるとかいった土俵そのものから降りる。そのドロップアウトを物語化・ロマン化させる方法として浅草芸人になる道を彼は選択し(・・・)、しかしロマンに留まり続けるのではなく、売れて広い世界に向かうこと=もう一度勝ちに行くことを結果的に目指したわけです(・・・)。一度降りた勝ち負けという土俵に、浅草を経由してもう一度帰還する。そうして実際にビートたけしは世間に勝っていくわけですが、しかしやはり当初のドロップアウトの思想が至る所で顔を出し、それは死への欲動として初期の映画作品のなかに頻繁に顔を出すことになったとぼくは考えています。異様な負けず嫌いの裏側に、勝ったからって何なんだ? 一度ドロップアウトして芸人になったあとの人生で、勝つことに本質的に意味なんてあるのか? というようなニヒリズムが、ビートたけしの軌跡において張り付き続けていたと思います。
(・・・)
 狂騒的に勝つことを志向し続ける人間の滑稽さそのものを、ニヒリスティックな笑いにしてしまっている。}

 対して松本人志はやはり、「勝ち」に意味やロマンを見出そうとしていたのではないでしょうか。」

*「自分の才能が世間から理解されないという被害者意識も、自分の才能を理解できない世間はバカであるという攻撃的物言いも、そもそも理解されたり認められたりする=「勝つ」ことそのものが本質的には無意味であるというニヒリスティックな視座を、(その不条理で荒涼とした笑いのセンスとは裏腹に)松本が持ち合わせていなかったことに起因していたのだとしたら。勝ちたがっている自分自身をも笑ってしまうことが笑いの本質的な強さ・恐ろしさであるのに、そういうニヒリズムには実は傾倒できない、小市民的な感覚が松本の活動にはつきまとい続けていたように思います。カリスマティックなアウトローのように扱われながら、実際には彼は極めて戦後日本的な市民感覚のなかを生きた芸人だったのではないか。お笑いも、「『勝つ』こととは違う世界の可能性を開いてくれるもの」ではなくなってしまったのでしょうか。」

*「しかし、芸人・松本人志が生きてしまったのかもしれない小市民性、外部を想像できず勝ちに固執し、そこに意味やロマンを見出そうとしてしまう在り方そのものが、現代世界を生きるわたしたち自身の問題として、ぼくには感じられます。実際、こういう問題と無縁に生きていられる人間は、いま現在ほとんどいないのではないでしょうか。
「ふつうであること」は素晴らしい(だろうか?)

 早川義夫は2011年にTwitter(現・X)上で、「『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』と思ったのは、42年ほど前のこと。今は、『かっこいいことはかっこ良くて、かっこ悪いことはかっこ悪い」と思っていますよ』と投稿していました(・・・)。この投稿もまたいろいろな読み方ができると思いますが、アイロニカルな視線ではなく、まっすぐな視線を今は大切にしている、というような読み方ができる気がする。(・・・)

 82年に刊行された早川の著作『ぼくは本屋のおやじさん』は「就職しないで生きるには」という晶文社のシリーズの一作として出版されたわけですが、前回の手紙でパンス君が書いていた「小さな行動だけど、積み重ねて徐々に社会の大きな問題を変えていく方向に持っていくのは可能だろうか」というような思考が、「就職しないで生きるには」という言葉にも託されていたように思います(生きのびるブックス、という名前も、そうかもしれないですね)。『ぼくは本屋のおやじさん』はしかし決して甘い内容ではなく、書店経営の大変さが極めて具体的に書き連ねられている本だったわけですが、そのなかで、「気弱なものが遠慮して、図々しいものだけが得するような、そんな世界は、できることなら、つくりたくない」(早川義夫『ぼくは本屋のおやじさん』(晶文社)p.101)という記述があります。

*「気弱なものが踏みにじられることなく、気弱なままでもしっかり生きていける世界。それはネクラな「負け」をカリスマティックな「勝ち」にひっくり返してしまうような、お笑いの悪魔的な魅力とは違う感覚で志向されるものだと思います。早川は同書で「十代のころは、人より変わったこと、人と同じじゃいやだという生意気な気持ちがあったが、二十を越してから、この世で一番素晴らしいことは、ふつうであること、と思うようになった」(p.68)とも書いていますが、まさにそういう「ふつうであること」に向かって一生懸命努力するような志向が、「気弱なものが遠慮して、図々しいものだけが得するような、そんな世界」を拒否する彼の態度をつくっていったのではないでしょうか。「ふつう」なんて存在しない、「ふつう」を決めてしまうことは暴力であり抑圧である、という見方もまったく正しいのですが、しかし「ふつうであること」を一生懸命目指すことには、やはり重要な何かがある気がするのです。(・・・)

 「就職しないで生きる」にしたって、商売するなら、しかも自営業をやろうとするなら、ドロップアウト気分ではとてもやっていけません。むしろ、シビアな現実の過酷さに、勤め人と同じか、ときにはそれ以上に晒され続けることになります。ただ、そのシビアな現実のなかで「勝つ」ことにだけ意味やロマンを求めるやり方とは、何か違う生き方ができないか。「勝つ」ことの無意味さまで知ったうえで、ニヒリスティックな強度を追及するようなやり方とも、何か違う方法はないだろうか。そういう模索をたくさんの人々が試みていくことで、「徐々に社会の大きな問題を変えていく方向に持っていく」ことができたりしないだろうか。

 早川が再び歌い始めてから発表した最初のアルバムのタイトル曲「この世で一番キレイなもの」には、こんなフレーズがあります。「キレイなものは どこかにあるのではなくて あなたの中に 眠ってるものなんだ いい人はいいね 素直でいいね キレイと思う 心がキレイなのさ」。「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」というアイロニカルな言葉を掲げていたシンガーが、その25年後に、こういう言葉を歌っていた。松本人志は「負け」を「勝ち」にひっくり返し、芸能界の権威として君臨したわけですが、はたして松本もわたしたちも、そこまで「勝ち」を追い求め続ける必要があったのでしょうか? まっすぐに素直であろうとすることは、どうしてこんなに難しいことになってしまったのでしょうか?」

□TVOD(TVOD)
コメカ(早春書店店主 @comecaML)とパンス(@panparth)による批評ユニット。「サブカルチャーと社会・政治を同時に語る」活動を、様々な媒体にて展開中。著書に『ポスト・サブカル焼け跡派』(百万年書房)、『政治家失言クロニクル』(Pヴァイン)がある。

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