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奥野克巳『はじめての人類学』

☆mediopos3217  2023.9.8

人類学は
「人間とは何か」を問う学問である

本書は現代の人類学がその問いに対して
どのように取り組んでいるかを知るための
格好の「入門書」となっている

主にとりあげられているのは
マリノフリキ・レヴィ=ストロース
ボアズ・インゴルドの4人

著者の奥野氏によれば
「マリノフリキは「生の全体」を、
レヴィ=ストロースは「生の構造」を、
ボアズは「生のあり方」を、
インゴルドは「生の流転」を
突き詰めた人類学者」である

「15世紀以降、西洋文化が「外部」の世界と
接触することで、少しずつ人類学が生まれる
土壌が形成されて」いったが
新時代の人類学が切り開かれていったのは
「人の「生」をありのまま捉えるには、
書斎を飛び出して現地の研究に
飛び込まなければいけない」と
西太平洋でのフィールドワークに乗り出した
マリノフリキが大きなエポックとなっている

人類学といえばそのように
いわゆる「未開の地」に出かけていって
フィールドワークをし
「外部」からの視点
あるいはそこで見いだされた「視点」を紹介する
そんなイメージでとらえられているところがあるが

とくにインゴルド以降
人類学は「参与観察に基づくフィールドワークをもとに
民族誌を書いて異文化理解を目指す学問ではない」

しかも「人類学の存在論的転回」以降
「マルチスピーシーズ民族誌」においては
「人間中心主義」ではなく
「人間以外の存在(動物や植物、菌類など)の意識や
感覚をより深く知」ろうとする視点も含めた
「生」を問う学問となっている

重要なのは
本書でも繰り返し示唆されている
「外部」である

かつて「外部」とは
西洋文化の「外部」であったが
やがて「外部」と「内部」の境界は
なくなりつつある

そんななかで重要なのは
「内部」から「外部」を対象化して
そこから知識を得るという
二項対立的なあり方ではなく

「人類学者自身が世界の真っ只中に入っていき、
人々「とともに」する哲学」(インゴルド)
としての人類学である

「について」ではなく「とともに」

そうした人類学的な思考は
「私たちをふだんの思考の「外部」へと
連れ出してくれ」る

「人間とは何か」を問うということは
「自分自身の生の問いを
よりいっそう深め」ることであり
「自己を変容させていくこと」であり
そのことで
「世界をめぐる思索を深めていくこと」
にほかならない

本書の示唆する人類学の
枠組みからは大きく外れるだろうが
「マルチスピーシーズ」はこれから(おそらくだが)
霊的な意味での「スピーシーズ」や
地球外からの存在である「スピーシーズ」などの
「外部」へも向かうことにもなるのではないか

「人間とは何か」を問うということは
その生を超えたところや
地上を越えたところにおいても
それを問うということでもあるだろうから

■奥野克巳『はじめての人類学』
 (講談社現代新書 2023/8)

(「はじめに 人類学とは何か」より)

「人類学が誕生して以来、この学問が問い続けてきた本質は何も変わりません。それは「人間とは何か」という問いです。
 人間とは何か。その根源的な問題を追い続けて、人類学者たちは悩み、悪戦苦闘してきたのです。そして彼らが見つけ出してきた答えは、今を生きている私たちのものの見方や生き方を変え、現実を生き抜くための「武器」にもなり得るのです。
 記念碑的な著作が出版された1922年に近代人類学が誕生してから100余年、これまでに数々の人類学者たちが世界中を駆け回り、幾多の学説を唱えてきました。」

「誤解を怖れずに言えば、人類学には「絶対にこの4人は外せない」という最重要人物がいます。ブロニスワフ・マリノフリキ(1884−1942)、クロード・レヴィ=ストロース(1908−2009)、フランツ・ボアズ(1858−1942)、ティム・インゴルド(1948−)です。彼らは19世紀後半から現代に至るまで、それぞれの時代を生きながら人類学において重要な概念を打ち出しました。
 (・・・)マリノフリキは「生の全体」を、。レヴィ=ストロースは「生の構造」を、ボアズは「生のあり方」を、インゴルドは「生の流転」を突き詰めた人類学者と捉えることができます。」

(「1章 近代人類学が誕生するまで」より)

「15世紀以降、西洋文化が「外部」の世界と接触することで、少しずつ人類学が生まれる土壌が形成されていきました。17世紀から18世紀に入るとホッブズやルソー、モンテスキューが、人間存在とは何か、人間社会とは何かを深く考察しました。そして19世紀に入るとダーウィンの生物進化論と軌を一にして、モーガンやタイラー、フレイザーが進化論的な人類学を発展させていったのです。
 ですが、19世紀の人類学者たちの仕事場はあくまで書斎であり、安楽椅子に坐ったままの研究に過ぎませんでした。人の「生」をありのまま捉えるには、書斎を飛び出して現地の研究に飛び込まなければいけない。そう考えて西太平洋でのフィールドワークに乗り出したのがマリノフリキだったのです。そしてそれは、人類学にとっての新たな挑戦を意味していました。マリノフリキは、デュルケームの機能主義を携えて、新時代の人類学を切り開いていったのです。」

(「終章 これからの人類学」より)

「インゴルド以前とインゴルドの間には、今日では一般に「再帰人類学」と呼ばれる、人類学の猛省の時代が挟まれます(・・・)。
 それはとりわけアメリカの人類学で勢いを持ち、日本の人類学にも大きな影響を与えた、人類学そのものの理論的検討とでも言うべき運動です。勢いを持つと言いましたが、うつむいて自らのことを省みている点で、とてもネガティブなものを含んでいました。」

「2022年刊行の拙著『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』(辰巳出版)に鯛知る『週刊読書人』の書評(2022年8月26日号)の中で、社会学から人類学に転向した若手人類学者の橋爪太作が示した見方が、今日の人類学に至るまでの日本における人類学の趨勢を包括的に捉えようとしている点で、示唆に富んでいます。(・・・)
 その書評の中で橋爪は、いったいなぜいま人類学なのかを探っています。まず彼は、戦後日本では1960年代から1980年代にかけて、これまで二度の人類学ブームが起きたと見ています。
 一度目は、政治革命の挫折と高度経済成長という時代を背景として、西洋近代やマルクス主義に代わる「外部」として異文化が探求された時期です。二度目は、その後、西洋がもはや模範となり得ない不安が漂うポストモダンの時代です。その時期、人類学が思想や芸術の新たな参照点となったのだと言います。
 それから30年を経たいま、橋爪は、遠いエキゾチックな「外部」を生きる人たちは、今や私たちの「隣人」であると言います。(・・・)
 「外部」と「内部」があいまいになり、もはやその境界がなくなりつつある現在、人類学はこれまでとは違った人間の生き方を探ろうとしているのです。その点において、人類学は、社会・文化批評をリードする学問となえり得ているのではなないかと橋爪は言います。」

「この状況は人類社会にもはや「外部」への抜け道がなくなりつつあるのだと言い換えることもできるでしょう。だからこそ、人類学はまた新たな「外部」を見つけ出そうとしているのかもしれません。人類の「内部」の差異に目を向けるのではなく、人類の「外部」に目を向ける人類学の登場です。」

「人間社会の「外部」と「内部」との関係という点で言えば、これまでにも、生態人類学や環境人類学などの研究がありました。しかし今日、それらとは異なるルートで、「人間以上の人類学」ないしは「人間的なるものを超えた人類学」と呼ばれる流れが形成されつつあります。それは、人類学の中に新たな「外部」を招き入れる試みだと言えるでしょう。
 人類学者・箭内匡は、自然という「外部」をめぐる文雅・社会人類学の流れを、1990年前後に起原を持つ「存在論的」人類学という第一波と、その流れを汲んで、2010年以降に広がった「マルチスピーシーズ民族誌」という第二波に分けています。第一波は、いわゆる「人類学の存在論的転回」にあたります。存在論的人類学以前には、人類学の前提は、自然と人間や、物質と精神という二項対立に基づいた西洋の認識論でした。ところが存在論的人類学以降、人類学は人間以外の動物や植物や機械までをも含め、それぞれがアクターとして活動する世界に目を向けるようになったのです。
 第二波の「マルチスピーシーズ民族誌」には、人類が地球の地質や生態環境に影響を与えたことを明らかにしつつある「人新世」というテーマに対して、人類学からの応答として立ち上がってきました。その背景には、人間以外の存在(動物や植物、菌類など)の意識や感覚をより深く知りたいという感性を持つ人たちが現れたことがあります。」

「こうした「人間以上の人類学」の動きは、「自民族(文化)中心主義」や「ヨーロッパ中心主義」の次に来る、新たな知の運動だと見ることができます。「人間以上の人類学」は、「人間中心主義」を問題視し、乗り越えていくためのアカデミックな努力なのです。人類学は今、人類を超えた「外部」から人間を眺め、探求を進める学知へと変容しつつあります。
 この「外部」というのが、人類学にとって重要です。「外部」がなくなったら、その時、人類学はもはや人類学ではなくなってしまうと言っても過言ではありません。その意味で人類学とは、私たちにつねに「外部」を見せ、「外部」への想像力を掻き立てながら、人間について考えてきた学知だったのです。
 逆に言えば、人間社会「内部」の断片に執拗なまでにこだわって、閉じこもってしまうような人類学は「死」です。」

「4人の人類学者はいずれも、そのような20世紀の初頭以降に人類学を推し進め、人類学を牽引するようになった研究者たちです。彼らは、もっぱら「外部」を手がかりに人類学を推し進めてきたのです。」

「20世紀になると、生まれ育ったヨーロッパ世界において何かしら「生きにくさ」を感じる若者たちが現れました。彼、彼女らは、自分とは異なる生を生きている人たちがいるに違いないと考え、自らの慣れ親しんだ世界の「外部」へと出かけ、そこに滞在し、私たち人類がいかに生きるべきかという問いの答えを探り始めたのです。その出発点となったのが、マリノフリキでした。
 (・・・)
 マリノフリキは後世に残してくれたもののいち最も重要なのが、フィールドワークの精神と実践です。(・・・)
 「外部」を知るために出かけて行って、その「外部」をくまなく知るという手法を編みだしたマリノフリキのやり方は、必ずしも厳密な科学的手法ではありません。ですが、今後も私たち人類学者はそれをけっして手放しません。後にインゴルドが述べたように、自身の「内側から」知るのでないと、ほんとうに分かったことにはならないのです。」

「(レヴィ=ストロース)はヨーロッパ精神の危機が叫ばれた20世紀の2つの世界戦争の戦間期に社会主義運動に参加していました。レヴィ=ストロースは哲学教師として暮らしていくことだけでは飽き足らず、サンパウロ大学に赴任し、先住民の暮らす知に出かけました。その後、大学からの任期延長の提案を断って、ブラジル奥地に長期調査の旅行にも出かけています。彼もまた、「外部」へと吸い込まれるように言辞経験に惹かれていった人類学者でした。
 レヴィ=ストロースは、1941年にアメリカに亡命します。そこで、ブラジルのフィールドワークで着想を得ていた「親族」を論じるための理論的な枠組みに辿り着きました。生が知らず知らずのうちに秩序だって構造化されているさまを描き出す手立てを手に入れたのです。
 彼はその後、人間の中に意識されないまま潜んでいる「構造」だけではなく、人間を超えて自然の中にある「構造」にまで踏み込んでいます。「自然」と「社会」に関して思索を深めたレヴィ=ストロースは、今日の「人間以上の人類学」の祖だったとも言えるでしょう。
 彼もまた、ヨーロッパから遠く離れた「外部」から着想した人類学者だったのです。」

「19世紀後半、ネイティブ・アメリカンと呼ばれる先住民の調査研究を進めていたアメリカの人類学を、ボアズとその弟子たちが大きく発展させました。(・・・)
 アメリカの人類学はつねに、その「内部」に混在する多様な文化と、そこから遠く離れた「外部」の文化を比較する中で、文化の概念を練り上げて、「文化相対主義」という考えを全面に打ち出すようになりました。」

「インゴルドは「再帰人類学」にはほとんど目もくれず、独自の観点から人類学を進めてきました。20世紀末に、「生きている」を主題化しました。
 インゴルドの目線で20世紀の人類学全体を捉えて見れば、これまでの人類学が同じように、人が生きていること、生に関わる学問だったということが見えてきました。(・・・)
 インゴルドは、人類学とは、参与観察に基づくフィールドワークをもとに民族誌を書いて異文化理解を目指す学問ではないと言い切っています。(・・・)
 インゴルドは、人類学者がフィールドでするべきなのは、彼らの語りをデータとして集めて人々「について」語ることではないと言います。そうではなく、現地の人々「とともに」人間の生について学ぶべきなのです。インゴルドは「人類学とは、世界に入っていき、人々とともにする哲学である」と言います。
 人類学は未開社会や非西洋社会の人々「について」の学問でも、異文化理解のための学問でもありません。人類学者自身が世界の真っ只中に入っていき、人々「とともに」する哲学なのです。」

「人類学は、それを真剣に学ぶならば、私たちをふだんの思考の「外部」へと連れ出してくれます。」

「そして「外部」というのは、知らない町や県、これまで行ったことがなかった國や地方、身近にありながら触れることのなかった集会や店、新たに興味を持った昆虫や土ちゃ山塊の世界だけでなく、風や宇宙など森羅万象にまで開かれています。
 実際に出かけてみて体験してみると、当の「外部」は、訪れる前に思い描いていたのとは違っていることに気づくでしょう。そしてそのことを手がかりとして、自分自身の生の問いをよりいっそう深められるでしょうし、自己を変容させていくこともできるでしょう。そこから、あれこれ世界をめぐる思索を深めていくことさえできるのです。
 出かけていくための手がかりや考えてみるためのアイデアは、マリノフリキ、レヴィ=ストロース、ボアズ、インゴルドなど、人類学の先人たちがすでに示してくれているのです。」

○奥野 克巳
1962年、滋賀県生まれ。立教大学異文化コミュニケーション学部教授。大学在学中にメキシコ先住民を単独訪問し、東南・南アジアを旅し、バングラデシュで仏僧になり、トルコ・クルディスタンを旅し、大卒後、商社勤務を経てインドネシアを一年間放浪後に文化人類学を専攻。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。著書に『「精霊の仕業」と「人の仕業」』『帝国医療と人類学』『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』『マンガ人類学講義』(MOSAとの共著)『絡まり合う生命』『一億年の森の思考法』『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』『人類学者K』など

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