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若菜晃子『旅の彼方』『途上の旅』『旅の断片』

☆mediopos3353  2024.1.22

若菜晃子の旅の随筆第三集
『旅の彼方』が先日刊行されている

第一集『旅の断片』が四年前
第二集『途上の旅』が二年前

第一集の二年ほど前に
『街と山のあいだ』という
山にまつわるエピソードを集めた
同じくシンプルな装幀の随筆集もでているが
その随筆集を書店の旅のコーナーで見つけて以来
刊行されるごとに楽しく読むようになっている

著者の若菜晃子は山と溪谷社を経て独立
「街と山のあいだ」をテーマにした小冊子
『mürren』を編集・発行している

以下で引用しているのは
旅のシリーズ三冊それぞれの冒頭で
なぜ旅をするのかについて
詩のように見開きで収められている言葉

『旅の断片』〜「もうひとつの人生」では
「どの国のどの街の片隅でも、人々は日々を生きている。
 もうひとつの人生がここにはあるのではないだろうか」

『途上の旅』〜「機上より」では
上空から見える「人間がつくり得ない深遠な空間」は
じつは「ふだんの生活を取り巻いているものであって、
それに気づいていないだけのことなのだ。
それに気づいていないだけのことなのだ。
否、気づかないようにしているともいえる。」

『旅の彼方』〜「白い岬にて」では
「雲ひとつない空と裾野を引く山々と
海岸線と青い海が広が」っている浜に大の字に寝転んで
「その感覚は今のこの旅上にかぎってのことだけれども、
 実は人生そのものはそうなのではないだろうか。」

・・・と
日々の生そのものが
旅を通じあらためて実感される
ということが語られている

おそらく著者にとって重要なのは
日々のルーティーンのなかで失くしがちな生を
旅することで常に新たな目で見直すことなのだろう

四書五経の一つ『大学』という書物のなかにある
「日に新たに、日々新たに、また日に新たなり」
という言葉が思い出されるが
旅はそのためのひとつの機会ともなっているのだろう

日々を新たにすること
そのための視点としていえば
外的なものを変化させることで
それによって内的なものを新たにとらえなおすか
内的なものを変化させることで
それによって外的なもののとらえ方を新たにするか
という二つの方向性がある

ふと思いだしたのは須賀敦子の
『ユルスナールの靴』の冒頭にあるこんな言葉

「きっちり足にあった靴さえあれば、
じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。
そう心のどこかで思いつづけ、
完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、
私はこれまで生きてきたような気がする。
行きたいところ、行くべきところぜんぶに
じぶんが行っていないのは、
あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、
じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。」

それであらためて
じぶんの行きたいところ
行くべきところはどこか
そしてじぶんは足にぴったりな靴をもっているか
そんな問いをじぶんに投げかけてもみるのだが・・・

■若菜晃子『旅の彼方』(アノニマ・スタジオ 2023/12)
■若菜晃子『途上の旅』(アノニマ・スタジオ 2021/10)
■若菜晃子『旅の断片』(アノニマ・スタジオ 2019/12)

(若菜晃子『旅の断片』〜「もうひとつの人生」より)

「見知らぬ町を歩いていると、ちょっといいかなと思う家がある。
 玄関前のテラスに古びた椅子が二脚、道に面して置いてある。
 椅子の背後の壁には小窓がふたつ、ついている。
 玄関のドアを開けるとそのまま居間になって、
 台所を抜けた裏には庭があって、
 明るい色の草花が花盛りだったりする。
 表のテラスの横には、やわらかな緑の葉をつけた、
 感じのいい木が立っていたりする。
 あの家に住んだら、どんな気持ちがするだろう。
 あの家に住んで、毎日テラスの椅子に座って、
 道行く人を眺めるのはどんな気分だろう。
 今の暮らしから遠く離れて、この町で暮らしてみたらどうだろうか。
 一生だと難しいかもしれないが、数ヶ月、
 いや数年ならできるのではないだろうか。
 それがいつの日か一生になるかもしれないけれども。
 どの国のどの街の片隅でも、人々は日々を生きている。
 もうひとつの人生がここにはあるのではないだろうかと心の隅で思いながら、
 私は貸家の札の下がった、花咲く庭をもつ小さな家の前を通り過ぎ、
 旅を続ける。」

(若菜晃子『途上の旅』〜「機上より」より)

「今日もまた、いつものように千葉沖から
 海上の船の白い軌跡を見下ろしながら飛ぶ。
 飛行機ならではのものだと思う。
 海外へ行くときは、なにかエアポケットのようなものに入り込んで、
 あるいは白いキン斗雲のようなものに包まれて移動して、
 別の地上に到達する感覚がある。
 その現実離れした時間と空間の止まった感覚は、
 なにか宇宙的なもの、はかりしれないものを感じさせる。
 けれどもそれは決してこわいという感覚ではない。
 機上からの景色も美しいなあと思って見入っている、
 そこには人間がつくり得ない深遠な空間があって、
 それをいきなり大きく目の前に見せてくれる。
 しかしこのことは、飛行機に乗って上空から見なくても、
 ふだんの生活を取り巻いているものであって、
 それに気づいていないだけのことなのだ。
 否、気づかないようにしているともいえる。
 それは有り体にいえば自然そのものであって、
 人間は常に自然のただなかにいる。
 そしてそのことをいつも忘れてしまう。
 私はそれを全身で感じるために、旅にでているのかもしれない。」

(若菜晃子『旅の彼方』〜「白い岬にて」より)

「道はゆるやかな丘を越え、海に向かって下りていくようになった。
 雲ひとつない空と裾野を引く山々と海岸線と青い海が広がっている。
 車がカーブを曲がるたびに小さな砂丘が現れ、
 花々が淡い美しさで咲いているのを見ていると、岬が見えてきた。
 道を終点まで行き車を止めると、その先は石の海岸だった。
 白や青や灰色の石が打ち寄せられた浜は入り江になっていて、
 太平洋の白波が大きく寄せては引いていった。
 私は固い石の浜の上で大の字に寝転んだ。
 寝転んだまま手探りで石をつかみ、仰向けの顔まで持ってきて、それを見た。
 地層の変容と時間の堆積を凝縮したその石をしばらく眺めて、
 また手を伸ばして石を浜に転がした。
 すると知覚に座っていた夫がふと、こう言った。
 「ここでこうして遊んでいると、ずっとこうしている気がするよね。
 明日はどこへ行こうか、みたいな」。
 日本での仕事も生活も家も人も過去もなにもかも、
 現実だったはずのものはどこかへいってしまって、
 ただもうずっとここでこうしているような感覚になる。
 その感覚は今のこの旅上にかぎってのことだけれども、
 実は人生そのものはそうなのではないだろうか。
 人は生まれたときからずっとこの地上で生きている気がしていて、
 明日はどうしようかと思いながら、一日一日を過ごし、
 ある日どこかで去っていくんではないだろうか。」

□若菜晃子(わかなあきこ)1968年兵庫県神戸市生まれ。編集者、文筆家。
学習院大学文学部国文学科卒業後、山と溪谷社入社。『wandel』編集長、『山と溪谷』副編集長を経て独立。山や自然、旅に関する雑誌、書籍を編集、執筆。「街と山のあいだ」をテーマにした小冊子『mürren』編集・発行人。
著書に『東京近郊ミニハイク』(小学館)、『東京周辺ヒルトップ散歩』(河出書房新社)、『徒歩旅行』(暮しの手帖社)、『地元菓子』、『石井桃子のことば』(新潮社)、『東京甘味食堂』(講談社文庫)、『岩波少年文庫のあゆみ』(岩波書店)、『街と山のあいだ』(アノニマ・スタジオ)など多数。旅の随筆集第一集『旅の断片』は2020年に第5回斎藤茂太賞を受賞。

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