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永井陽右 『共感という病』

☆mediopos-2456  2021.8.7

共感が病になるのは
それが無自覚に生まれるときである

感情はその多くが対極的に働く

共感と反感
快と不快
好きと嫌い
良いと悪い

それらの対極的な感情を
無自覚に働かせるとき
片方の極の力が大きければ大きいほど
もう片方の極も大きくなる

国家戦略的なかたちで使われもした
「絆」「ワンチーム」「団結」といった言葉も
それぞれの内にいる者にとっては
心地よい共感になるけれど
同時にその外部である反感を強力に生みだしてしまう
「仲間」が「それ以外」である
「敵」をつくりだしてしまように

共感は「認知的共感」と「情動的共感」という
2つに機能的に分けられる
「認知的共感」は他者理解へと向かう意識的な働きだが
「情動的共感」は他者へ感情的に同期する
無意識的な情動的な働きだといえる

そして感情の対極性が
「情動的共感」だけを暴走させてしまうとき
「仲間(味方)」と「それ以外(敵)」が
強力に生みだされてしまう

広報やマーケティング
そして被害感情を活用した民族紛争は
そうした共感と反感の働きを活用しようとする
社会貢献といった領域でも同様である

「共感の時代」とされている現代であるからこそ
こうしたことに意識的になる必要がある

感情の両極を克服することは
神秘学的な修行においても基本となっている
批判的であることは
いかなる場合でも魂を損なってしまうことになる
批判的であることで
無自覚な感情の極をつくりだしてしまうからだ
重要なのは意識的であることであって
批判的であることではない

共感はたいせつな感情の働きであるのだが
それを魂を成長させる力として育てていくためにも
反感との対極において働かせてはならない
太極図が示しているように
それはその全体として
自覚的に働かせていく必要がある

■永井陽右
 『共感という病
  いきすぎた同調圧力とどう向き合うべきか?』
 (かんき出版 2021/7)

「共感はこの社会において、人々を繋げ、連帯を生み出し、時には社会や世界を良くしていくものとして、基本的にポジティブに語られています。
 そしてそれのみならず、日々の人間関係においても共感の重要性は語られますし、ビジネスの領域においてもマーケティングからプレゼンテーションまで、一つの鍵となっています。TwitterやFacebook、InstagramなどのSNSも、共感という面で覗いてみれば、まさに共感し合う空間になっていたりします。
 2010年に動物行動学者のフランス・ヴァールが「共感の時代」と打ち出しましたが、まさに私たちは共感の時代を生きているのです。

 しかし同時に、私たちは共感といったものの胡散臭さも感じてきました。東日本大震災に対する「絆」に始まり、ラグビーワールドカップでの「ワンチーム」、東京オリンピック・パラリンピック開催に向けた「団結」など、それ字体は素晴らしいアイデアではありますが、どこかそうした美しい概念が本来の目的を超えた何かに対して恣意的に使われてきた節もありました。
 たしかに「絆」や「ワンチーム」「団結」の内部は、最高に気持ちが良くて恍惚すらできるものですが、よく見てみると、その中にいない人がたくさん存在してることに気が付きます。むしろ外側にいる人に対して排他的であることも珍しくありません。「共感し合おう」「繋がっていこう」と言うと、なんとなく無条件に良いものである気がしますが、繋がっているからこそ分断していくとも言えるわけです。

 私はテロと紛争の解決というミッションの下に、テロリストと呼ばれる人々の更生支援やテロ組織と呼ばれる組織との交渉などを仕事としていますが、こうした仕事の中で、いかに共感の射程が狭いかということを嫌と言うほど味わってきました。簡単な例でいうなら、子どもや女の子、難民といった人々には一般的に多くの共感や好意が寄せられる傾向がありますが、大人で、男で、加害者というときは、基本的に共感や好意は寄せられにくいわけです。

 そんな問題意識の中、共感について考え始めました。私は共感の研究者ではないのですが、紛争解決や平和構築の実務者として紛争地の最前線で仕事をしています。そうした立場として、言えることはないだろうかと考えました。
 共感に関する研究は、脳科学的な研究をはじめにさまざまありますが、共感に向き合う実践から生まれる見解や、より実践的な意見というものもあるはずだとも思いました。
 そんな想いで共感に関する本や論文を読んだり、識者の方々と対談をさせていただいたりして、自分の考えを踏まれ上いきました。その結果、今回このような書籍となりました。

 書籍名が『共感という病』とあるとおり、本書は一般的に良いものとされる共感の負の面を明らかにしていくことを目的としています

 とはいえ、はじめに断っておきたいのですが、私は共感が全て悪いとは思っていませんし、そんなことを言うつもりも毛頭ありません。むしろ社会と世界を良くするために間違いなく重要な要素だと思うからこそ、共感が持つ負の面を理解し、自覚し、うまくつき合っていく必要があると思うのです。」

「最近の心理学と脳科学の研究から、私たちは無意識に、他者を「仲間」と「それ以外」に判断していることが明らかになっています。
 例えば、同じ主義主張を持ったコミュニティからランダムに100人を集め、クジを使って4グループに分けると、個々人の脳は、瞬時にグループを「仲間」とし、他のグループの人々を「それ以外」ひいては「敵」と識別します。私たち人間が持つ社会的存在としての本能はここまで高性能なのです。
 つまり、共感とは誰かの困難に対してではなく。困難に陥っている自分側の誰かに作用しているといえます。まさに共感は差別主義者なのです。」

「共感は他者を傷つけることを抑え、他者に対して良いことを行う動機を付けるものとされ、大小さまざまな社会集団において究めて重要な機能とされています。
 そんな共感は、一般的に「認知的共感」と「情動的共感」の2つに、機能的に分けられています。大まかに言うと、認知的共感は、他者の心理状態を推論するなどして理性的に正確に理解しようとするものであり、情動的共感は、他者の心理状態を感情的に共有し、同期しようとするものとされています。
 前者は他者の背景や状況を踏まえた理性的なプロセスをたどるものであり、ある程度オン・オフを切り替えることができます。しかし後者はやっかいなことに、無意識的にそれこそ情動的に、湧き出てしまうものであり、オン・オフの切り替えがなかなか難しいものとなっています。
 どちらが良い悪いではなく、この2つの機能がお互いに補完し合っており、単独で動くこともあれば同時に動くこともあり、そうして私たちは他者や社会と共存しています。」

「(共感は)大きな力を持つからこそ、そうした共感を人の目的の下にうまく引き出そうと、多くの人々が良くも悪くも試行錯誤している現状があります。」
「そして、そこに潜む意図がどこに向いているかによっては、さまざまな問題が発生します。一概に良い悪いではなく、共感が大きな力を秘めている以上、私たちはこの現代の社会において、常にその共感を「使いたい」という誰かの意図にさらされているのです。
 第一に、語弊を恐れずに言えば、共感はお金になります。
 私は紛争解決などの領域から共感とどう向き合うべきかと考え始めましたが、昨今このキーワードを一番見かけるのはビジネスの領域です。(・・・)「共感マーケティング」という用語も存在するように、マーケティングにおける共感の重要性を説く本や記事が非常に多く存在しています。」
「また、紛争や虐殺といった究めて深刻な暴力の場においても、共感はうまく活用されるケースが多数存在しています。
 わかりやすい例で言えば、ナチスドイツによるホロコーストや、カンボジアのジェノサイド(大虐殺)がありますし、ソマリア内戦やシリア内戦などの複雑な紛争でも説明ができます。そこでは敵対する他者、集団への憎悪や恐怖、そして嫌悪のような負の感情を、政治的恣意性をもって大衆に喚起し、人々が殺戮への道に走って進んでいったという事実が存在します。
 おそらく一番多いのは、自分を含む自集団が、他者に攻撃されたときの被害感情を活用することです。」
「共感を目指す競い合いは、社会貢献の活動などへの寄付においても同じです。街頭募金、ホームページでの寄付、クラウドファンディングのキャンペーン、ファン獲得のための広報など、その闘いの舞台は多岐にわたります。そしてその一つひとつに闘いを勝つための工夫が凝らされています。」
「このように、広報面においてどう人々の興味関心を引くことができるかという点において、例えば社会貢献団体にとって最も重宝されるのは、問題解決のプロよりも広報やマーケティングのプロだったりもします。とある世界的な社会貢献NPOの有給職員の半数以上が広報・マーケティング担当である事実は非常に示唆的な現実と言えます。」

「共感されたいし、共感したい。
 それ自体にはなんら問題はありません。社会的な生き物である以上、誰だっれそういう面はあるでしょう。そしてそうしたことを実現してくれる場所や映画、本などが人気になるのもわかります。
 しかし、それはその用法用量が適切であれば、の話です。オーバードーズしてしまうと、それこそ共感中毒のような状態になり、いろいろな問題が生まれます。」

「声をあげることが当たり前に大切ですが、気に入らない相手をひたすら叩いたりして連帯していくことは、何かしらの課題を解決することができたとしても、ほぼ間違いなく対立や分断を招きます。
 そして、それが新たな課題だったりより深刻な課題を生みだしたりもしているのです。」
「社会課題の解決を少しでも目指している人は、声のあげ方、連帯の仕方などへの丁寧な意識は何よりも大切だと思います。なぜなら社会課題の社会というのは、自分にとってさっぱり話が通じない人も参加しているのですから。」

「私が日々思うことは、たとえ共感されなくても、誰とも繋がっていなくても、基本的には全く問題ないということです。
 自分は自分であり、それ以上でも以下でもありません。自分と他者しかないのです。つぶさに見れば、究極的には自分しかいないとも言えさえできます。そんな自分の存在は、誰かに肯定されなければ存在しないといったものではないのだ。」
「そうして、社会や世界の諸課題と向き合いながら、文字どおり試行錯誤していく。問題を解決し社会を少しでも良くしていくという話であれば、思想の検討などではなく、実践的姿勢の中で生まれるものもあるはずです。
 それは何も紛争地の前線で、ということではなくて、日本国内ももちろんそうですし、究極的には自分だけでない場においては全てそうかもしれません。わからなすぎるし、わかりあえない他者とどう向き合うか、他者の言葉に乗っかるのではなく、地に足をつけて自分を通して考えてみる。
 そして、唯一わかりうるであろう自分とは何者なのか、正面から向き合ってみる。その理性的かつ真摯な思考こそが、共感と共に世界を良くする鍵なのではないでしょうか。」

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