見出し画像

エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』

☆mediopos2909  2022.11.4

本書はこんな言葉からはじまる

「はじめに、わたしたちはみな
同じ一つの生きものであった」

深く根源的な意味で説得力のある
メタモルフォーゼの形而上学の思考である

地球のすべての存在は
「ただ一つの同じ生」であり
それがメタモルフォーゼすることで
多様な形態をつくりだしている

「わたし」もまた
「同じ一つの生きもの」の
ひとつのメタモルフォーゼである

「同じ一つの生きもの」であるにもかかわらず
「わたし」が「わたし」として生まれてくるためには
そのことを「わたしは忘れなければならなかった」
すべてを忘れることで
「わたし」は「わたし」になれた

「誕生とは絶対的な始まりではない」
「わたしたちの前にはすでに何かが存在し、
わたしたちは生まれる前にすでに何かであり、
わたしの前にわたしが存在したのだ」

それではそうした「わたし」をふくむ
さまざまなメタモルフォーゼした存在たちの
真の主体とはいったい何なのだろうか

それは「わたしたちの惑星である」という

「地球という惑星はメタモルフォーゼの生、
生きとし生けるものの漂流にほかならない」

このメタモルフォーゼの哲学を
地球上の存在だけではなく
それを超えた世界に拡げてとらえることもできるだろう

「わたし」は「ただ一つの同じ霊」の
ひとつのメタモルフォーゼとして存在している

そしてその「わたし」という意識において
世界を反映=反省している

「ただ一つの同じ霊」の
さまざまなメタモルフォーゼは
みずからを映し出す「鏡」なのだといえる

「ただ一つの同じ霊」は
そうした無数の「鏡」を通じ
みずからを見ようとしているのだ

■エマヌエーレ・コッチャ(松葉類・宇佐美達朗訳)
 『メタモルフォーゼの哲学』
 (勁草書房 2022/11)

(「はじめに」〜「生の連続性」より)

「はじめに、わたしたちはみな同じ一つの生きものであった。わたしたちは同じ身体と同じ経験を共有してきた。それ以来、事はさほど変わっていない。生存する形態や方法は多様化した。しかしなお、わたしたちは同じ一つの生であり続けている。何百万年も前より、身体から身体へ、個から個へ、種から種へ、界から界へとこの生は受け継がれている。たしかに生は移動し、形を変えてきた。しかし、あらゆる生きものの生はそれ自身の誕生とともに始まるのではない————生はさらにずっと古いのである。」

「生物全体にも同じ考察があてはまる。生物と無生物の間にはいかなる対立もない。あらゆる生物は無生物との連続性において存在するのみならず、無生物が延長されたものであり、無生物のメタモルフォーゼ、その最も極端な表現なのである。
 生はつねに無生物の再受肉であり、無機物の組み合わせであり、一つの惑星————ガイア、地球————の大地的実体の謝肉祭である。この惑星は、ちぐはぐで不統一なみずからの体の最小の粒子においてさえ、その相貌と存在様態を増殖させて止まない。どの自己も地球のための乗り物であり、惑星が自分で移動せずに旅をするための船なのだ。」

(「はじめに」〜「わたしたちのうちにあるさまざまな形態」より)

「わたしたちは次のような二重の自明の事柄をメタモルフォーゼと呼ぶ。すなわち、あらゆる生きものはそれ事態が複数の形態である————それら形態は同時的に現前し継起する————が、これらの形態のそれぞれはまた、その前後に無限にある別の形態との直接的な連続性によって決定されるのであるから、実際には自立した仕方で別箇に存在してはいない。メタモルフォーゼとは、あらゆる生きものが複数の携帯へと同時的・継起的に広がってゆくことを可能にする力であるとともに、形態が相互に結びつき、ある形態から別の形態へと移行してゆくことを可能にする息吹でもある。」

(「Ⅰ 誕生=出産」〜「あらゆる自分は忘却である」より)

「みなと同じく、わたしは忘れてしまった。(・・・)わたしは忘れなければならなかったのだ、そのすべてを。残りのもの————未来のもの。すぐに過去にあるであろうもの、世界全体————のためのスペースを空けるためには頭をからっぽにしなければならない。あらゆる経験を可能にするためにからっぽにするのだ。自分自身を知覚しうるために、わたしはすべてを忘れなければならなかった。
 誕生とは認識の絶対的限界である。つまり「わたし」と言うことが、他者との混同を意味するような閾である。(・・・)誕生とは、すべての記憶を否定する覚悟をもってのみ「わたし」と言えるようにする力でしかない。どこから来たのかを忘却し、あれほど長くわたしたちを住まわせてくれた他者の身体を忘却し、その身体と自分とを非同一化しなければならないのだ。」

「みなと同じく、わたしは忘れてしまった。そうするほかなかった。わたしになるために、わたしはすべてを忘れなければならなかった。生まれることは、以前わたしたちであったものを忘れること、他者がわたしのなかに生き続けているのを忘れることを意味する。わたしたちはかつて存在していたが、別様であった。誕生とは絶対的な始まりではない。わたしたちの前にはすでに何かが存在し、わたしたちは生まれる前にすでに何かであり、わたしの前にわたしが存在したのだ。誕生とはそうしたものでしかない。つまり、わたしたちの自己と他者の自己のあいだ、人間の生とノンヒューマンの生のあいだ、生と世界の物質のあいだにある連続性の関係から外れることは不可能であるということだ。
 わたしは生まれた。わたしは自分とは異なるものにつねに乗っている。自己とは、他所から来てわたしよりも遠くに行くよう定められた異質な物質の乗り物にほかならない。それが、言葉、香り、視覚、分子のどれにかかわるかはさほど重要ではない。」

「わたしは生まれた、というのはほとんど同語反復だ。わたしになるということは生まれるということであり、生まれるとうことはあらゆる自我に固有の活力である。「わたし」は生まれながら他の存在に対してのみ存在しているのであり、翻って、わたしとは乗り物にすぎない————「わたし」はつねに自分とは異なるものを運ぶ何かなのだ。」

(「Ⅰ 誕生=出産」〜「地球の言葉(パロール)」より)

「わたしたちはみな先行する生の反復である。誕生を通して構成されねばならないから、生とはつねに反復である。可能な起源は存在しない。生とはそれに先立つものの新たなヴァージョンである。だからこそ生きものの起源についてのすべての問いはアポリア的であり、逆説的である。反復として、どの生も過去との両義的関係にある。どの生も過去の象徴であり、指標である。どの生も過去を含んでおり、その受肉した表現である。にもかかわらず、この表現においては、過去はたんに記憶や想起として意味をもつのみならず、再整備され、恣意的に再構成され、変容させられる。同じ理由で、あらゆる生は象徴的な本性を有している。わたしたちは言葉としての言語が現れるのを待つ必要はなかった。あらゆる生はすでにその身体において言語である。誕生こそが解剖学的・生理学的な形態から記号に位置づけられるものを作り出すのである。」

(「Ⅰ 誕生=出産」〜「世界の鏡」より)

「生はたんに世界の変様ではない。それは世界がその部分の一つに映し出される瞬間であり、世界はその部分の一つのうちで保存されるイメージとなる。わたしたちが意識と呼ぶものは地球の自己反射=反省、そしてどの生きものも必然的に世界の意識ということになる。解剖学的構造ではなく鏡としての世界のイメージである。知覚し始めることだえ必要でない。あらゆる生きものは、自分の行動のすべてにおいて世界全体を反映する能力、惑星全体のイメージとなり、それを保持する能力にほかならない。わたしたちが全体を見出すために、グローバリゼーションは必要ない。それぞれの生きものの中心には、全事物を見る視野がある。そしてこの視野、この全体性は、事物のそれではなく、可能な生のそれである。それは世界が自分の家を再発見できるようにする仕方なのだ。」

(「Ⅳ 移住」〜「惑星規模の移住」より)

「あらゆるメタモルフォーゼの真の主体はわたしたちの惑星である。あらゆる生きものはその身体のリサイクル、先祖以前の物質から作り出されたパッチワークにほかならない。惑星が「わたし」と言いうるのはわたしたちのおかげであり、わたしたちのそれぞれにおいてである。惑星の生は巨大で中断不可能なメタモルフォーゼである。私たちがそのメタモルフォーゼの力を近くするのは、なによりもまず、惑星がその住民のそれぞれに課す移住によってである。」

(「Ⅳ 移住」〜「侵入」より)

「地球という惑星はメタモルフォーゼの生、生きとし生けるものの漂流にほかならない。その本性は万物が場所を変え、それぞれの空間が内容を変えねばならないというものだ。万物は同じ場所に留まることができないのだから、生態学は不可能である。存在はけっして自宅を持たないのであり、場所はけっして唯一の所有者のための家になることがない。」

(「おわりに」〜「未来」より)

「未来とはメタモルフォーゼの純然たる力である。この力は一つの個別的身体がもつ傾向としてだけでなく、空中を舞う花粉のような自立した身体としても存在することができる。それは限りなく我が物とされた資源なのだ。将来というのは、生とその力がいたるところにあり、個体としても個体群としても種としても、わたしたちのうちのいずれにも属しえないということである。将来とは、変態することを個体や生物群に強いる病である。つまり、わたしたちが自分たちの同一性(アイデンティティ)を何か安定したもの、決定的なもの、リアルなものとして考えることを妨げる病なのだ。
 要するに、将来とは永遠の病である。単独で存在する腫瘍である。どちらかといえば良性のものであるが。それはわたしたちを幸福にするような唯一の腫瘍なのだ。
 わたしたちがこの病から身を守る必要はない。時間というウイルスに対するワクチンを接種する必要はないのだ。それは無駄である。わたしたちの肉は変化することをけっしてやめないだろう。病まねばならない、よく病まねばならないのだ。それも死の恐怖を抱くことなく。わたしたちとは将来である。わたしたちは短い生を果たす。わたしたちは次々と死んでいかなければならない。」

【目次】

はじめに

生の連続性
わたしたちのうちにあるさまざまな形態

I 誕生=出産
 あらゆる自分は忘却である
 ただ一つの同じ生
 誕生と自然
 宇宙規模の双児出生
 出産あるいは生の移住
 神々の謝肉祭
 地球の言葉(パロール)
 運命としてのメタモルフォーゼ
 世界の鏡

II 繭
 変様(トランスフォーメーション)
 昆虫
 あらゆる生きものはキメラである
 生まれたあとの卵
 若返り
 技術についての新たな考え
 植物のメタモルフォーゼ
 世界の繭

III 再受肉
 食事とメタモルフォーゼ
 食べられること
 自己の転生と再受肉
 遺伝学と再受肉
 種の影

IV 移住
 惑星規模の移住
 乗り物の理論
 大いなる方舟
 みんな家にいる
 家庭内でのノンヒューマンの生
 侵入

V 連関(アソシエーションズ)
 多種(マルチスピーシーズ)の都市
 種をまたいだ(インタースペシフィック)建築
 わたしたちの精神はつねに他の種の身体のうちにある
 現代の自然

おわりに
 惑星規模の知
 未来

参考文献案内
謝辞
訳者あとがき
人名索引

○エマヌエーレ・コッチャ(Emanuele Coccia)
1976年イタリア生まれ。フィレンツェ大学博士(中世哲学)。フランスの社会科学高等研究院(EHESS)准教授。著書に La trasparenza delle immagini. Averroe e l'averroismo(Mondadori, Milan, 2005), La Vie sensible(tr. de M. Rueff, Payot et Rivages, Paris, 2010), Le Bien dans les choses(tr. de M.Rueff, Payot et Rivages, Paris, 2013), Philosophie de la maison. L'espace domestique et le bonheur(tr. de Leo Texier, Bibliotheque Rivages, Paris, 2022)など。邦訳書に2017年のモナコ哲学祭賞を受賞した『植物の生の哲学――混合の形而上学』(勁草書房、2019年)がある。

○松葉 類(まつば るい)
1988年生まれ。京都大学文学研究科博士課程研究指導認定退学。博士(文学)。現在、同志社大学ほか非常勤講師。専門はフランス現代思想、ユダヤ思想。論文に「レヴィナスにおけるデモクラシー論―― 国家における国家の彼方」(『宗教哲学研究』第38号、2021年)など。共訳書にフロランス・ビュルガ『猫たち』(法政大学出版局、2019年)、ミゲル・アバンスール『国家に抗するデモクラシー』(法政大学出版局、2019年)。

○宇佐美 達朗(うさみ たつろう)
1988年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、日本学術振興会特別研究員(PD)。著書に『シモンドン哲学研究――関係の実在論の射程』(法政大学出版局、2021年)、論文に「シモンドン哲学における技術性の概念と人間主義の顛倒」(『フランス哲学・思想研究』第27号、2022年)など。共訳書にティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ――線の生態人類学』(フィルムアート社、2018年)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?