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G.K.チェスタトン『聖トマス・アクィナス』/山本芳久『トマス・アクィナス――理性と神秘』/『トマス・アクィナス』(責任編集 山田晶)(中公バックス)

☆mediopos3235  2023.9.26

トマス・アクィナスは四十八歳のとき
それまで書き続けてきた
『神学大全』の完成を前にして
沈黙を選び翌年死去する

「ミサのなかで一つの深い宗教的洞察を獲得し」
「私が見、私に示されたことに比べると、
私が書いたすべてのことは
藁屑のように見えるのだ」と語ったという

またチェスタトンの
『聖トマス・アクィナス』によれば
「彼につき添っていた聴罪神父」は
「彼の告解は五歳の子供の告解だったとささやいた」

山本芳久の視点では
「『神学大全』の執筆に成功していたからこそ、
沈黙に至ったのだ」という

そして
「その宗教体験によって与えられた洞察が、
『神学大全』に書かれてあるトマスの立場を
根本的に否定するようなものであったならば、
トマスは決して筆を折らなかったのではない」かと・・・

その真実は明らかではないが
その言葉どおりの知の巨人である
トマス・アクィナスにとって
『神学大全』において表現された「知」は
宗教的洞察によって得られたものと比べ
「藁屑のように見え」たというのだ

それはひょっとすれば
パウロの「回心」にも比するような
深い「体験」であったのかもしれないし
ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で
「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」
と記したような
表現を絶したものだったのかもしれない

いうまでもなく『神学大全』に見られるような
トマスの営為が意味をもたないはずはない

そこには当時「最先端の知」であった
アリストテレスの哲学を取り入れ
マニ教的なあり方を排そうとしたように

そしてチェスタトン曰く
「カトリックの第一義的にして基本的な部分は、
実は生の讃美、存在の讃美、世界の創造主としての
神の讃美であることを理解しない人は、
誰も最初からトマス哲学、言いかえれば、
カトリック哲学を理解することはできない」
というように

トマスはたとえ
「ただ理性によって得られる「神の知」は、
人間を救済にみちびくために不十分」
であったとしても
それを「一つの「神の知」としての
「聖なる教」のなかに包含される」ものとしてとらえ

この地上における知的営為としての「思考」によって
「神の知」へと近づこうとした
そしてその成果が『神学大全』であったのだ

しかしそれが「藁屑のように見え」たというのだから
山本芳久の視点のように
「『神学大全』の執筆に成功していたからこそ、
沈黙に至ったのだ」ということには無理がある

しかし同じく山本氏の述べているように
その「「饒舌」と「沈黙」の大きな振れ幅」のなかで
それを「単なる「藁屑」としてしまうか否かは、
ひとえに我々自身の読解力にかかっている」
というのはたしかだろう

さらにいえば
そこで重要なのは
トマスにかぎらず
「知性」「理性」をどのようにとらえるか
その可能性と限界
あるいはそれを超えるために
どんな認識が求められるか
ということを問いかけることだと思われる

現代ではトマスとは比べものにならない
そして「反知性」と見分けがつかないような
アカデミックな「知性」さえ横行している

そうした「知性」「反知性」から離れることで
それらが「藁屑」のように見えてしまうような
「沈黙」のはてにこそ見えてくるだろうもの

それを「神秘」と安易に呼ぶのではなく
あらたな認識へのプロセスとし得るような
そんな「光」や「ことば」へと
向かうことができますように

■『トマス・アクィナス』(責任編集 山田晶)(中公バックス 中央公論社 1980/6)
■G.K.チェスタトン(生地竹郎訳)『聖トマス・アクィナス』(ちくま学芸文庫 2023/8)
■山本芳久『トマス・アクィナス――理性と神秘』(岩波新書 2017/12)

(『トマス・アクィナス』(中公バックス)〜山田晶「聖トマス・アクィナスと『神学大全』より)

「トマスの「神の知」は二段の構造を有している。第一段は、自然理性によって知られうるかぎりにおける「神の知」であり、のちに自然神学と呼ばれるものである。第二段は、啓示によって与えられ信仰によって受け容れられる「神の知」であって、これはのちの啓示神学といわれるものである。
 しかしトマス自身においては、この二つの「神の知」は、それが得られる認識源に関して区別されるとしても、あたかも二階建ての家のように、截然と上下に区別されているわけではない。信仰が理性を前提することは既に述べたが、信仰によって理性が否定されることも、トマスにおいてはありえない、信仰によって受け取られる「神の知」は、たしかに理性を超えるものではあるが、理性に反するものではなく、却って理性の及び得ない高所から理性を照らすのである。それゆえ信仰によって「神の知」を受け容れた人は、上位の「神の知」に照らされて、下位の「神の知」に関しても、いっそう明るく知るようになるはずである。」

「トマスにとって、理性にもとづく「神の知」と啓示された「神の知」とは、いずれも神から与えられた広い意味でも恩恵である以上、けっして敵対するものではなくて、一つの「神の知」としての「聖なる教」のなかに包含されるのである。ただ理性によって得られる「神の知」は、人間を救済にみちびくために不十分であり、それは啓示による「神の知」によって完成されなければならない。かくて「聖なる教」はトマスにとって、人間救済のための学となるのである。」

「一二七三年十二月六日、聖ニコラウス聖堂においてミサをささげていたとき、突然心境の大変化が彼のうちに起こった。以後、彼は、それまで寸暇を惜しんでつづけてきた著作の筆を投げ、いっさい筆をとらなくなった。友人が彼に著作の続行をすすめると、彼はただ、「私はもうできない」と繰り返すばかりであった。更にすすめると、「兄弟よ、私はもうできない。たいへんなものを見てしまった。それに比べれば、これまでやってきた仕事はわらくずのように思われる。私は自分の仕事をおえて、ただ終わりの日を待つばかりだ」と答えたという。
 以後、彼は放心状態におちいった。」

(G.K.チェスタトン『聖トマス・アクィナス』より)

「アリストテレスはアクィナスに洗礼を授けえなかったが、アクィナスはアリストテレスに洗礼を授けたのである。偉大な異教徒を死者の国から甦らせたのは純粋にキリスト教的な奇跡であった。」

「彼(トマス・アクィナス)の神学的、理論的な定義はさておき、彼が世界のためにのぞんだところ、そして歴史上における彼の事業であったところのものを、絵のような単純化した仕方で述べたいとわれわれがのぞむならば、それは現実に一撃を加えて、マニ教徒を片づけてしまうことであったと言って差し支えあるまい。」

「カトリックの第一義的にして基本的な部分は、実は生の讃美、存在の讃美、世界の創造主としての神の讃美であることを理解しない人は、誰も最初からトマス哲学、言いかえれば、カトリック哲学を理解することはできない。その他のことはずっとそのあとからやって来るのである。」

「彼の友人のレギナルドゥスは彼にむかって、前と同じような読書と著作の規則的な習慣に戻り、時代の論争をつづけるよう頼んだ。ところが彼は非常に強い調子で言った。「私にはもうこれ以上書くことはできない。」しばらく沈黙がつづいたあとで、レギナルドゥスは勇気をふるってその問題に再度ふれた。トマスは彼にさらに力強い調子で答えた。「私にはもうこれ以上書くことはできない。自分の全著作を藁のようにしてしまうものを私は見たのだ。」

「その思想の巨大な石臼が突然止まったのを人々がしった瞬間があったにちがいない。その静寂のショックのあとで、その車輪は世界をもはやゆるがさなかった。その空虚な家の中には小山のような土くれしかなかった。そして奥まった部屋で彼につき添っていた聴罪神父は恐怖にとらわれたように走り出してきて、彼の告解は五歳の子供の告解だったとささやいた。」

(山本芳久『トマス・アクィナス――理性と神秘』より)

「キリスト教以前の時代を生きたアリストテレスにおいては、観想的生活とは、この世界・宇宙の全体を、実践的な目的のためにではなく、純粋にそれ自体としてありのままに眺め、認識することであった。それに対して、キリスト教の神学者であるトマスにとっては、この世界・宇宙の創造者である神をありのままに認識する————聖書の表現で言えば「顔と顔を合わせて神を見る」————ことであった。「理性」によって世界のありのままの姿を観想しようとするアリストテレスの深い影響を受けたトマスが、ありのままに知り愛することに生涯をかけたのは、人間の「理性」を超えた「神秘」そのものである神だったのである。」

「新しい修道会としてのドミニコ会の特徴は、遍歴的な説教活動というキリスト教の原点回帰的な運動にのみあったのではない。ドミニコ会は、当時の最先端の知を取り入れることにも極めて熱心であった。ここで言う「最先端の知」とは、ある意味奇妙なことではあるが、キリスト教の誕生を溯ること数世紀に活躍した古代ギリシアの哲学者アリストテレスであった。」

「主著となるはずの『神学大全』の完成が間際に迫っていた一二七三年一二月六日、トマスはミサのなかで一つの深い宗教的洞察を獲得し、以後、すべての著作活動を放棄した。療友のレギナルドゥスから著作の続行を迫られたトマスは、このように語り、以後二度と筆を執ることはなかった。キリスト教神学の歴史のなかで最も著名な作品の一つである『神学大全』は、こうして永遠に未完の書物となった。

 『神学大全』は、邦訳では四十五巻にも及ぶ大著であり、他のすべてのことをなげうって一週間で一冊を読むほどの速さで読み続けるにしても、読了まで一年近くかかるほどの分量である。多大な労力を費やして読み通しても、トマスが得た最終的な洞察がその中に含まれていないのだとすれば、結局は徒労ではないだろうか。そもそも、途中で著作を放棄せざるをえなくなるということは、トマスの構想自体に問題があったということを意味しているのではないだろうか。きちんと完結した神学書を読んだ方が、キリスト教神学の全体像についての適切な知見を得ることができるのでないだろうか。そんなふうに感じる読者もいるかもしれない。

 だがここで視点を百八十度転換することはできないだろうか。トマスは『神学大全』の執筆に成功していたからこそ、沈黙に至ったのだと。くだんの神秘体験のなかでトマスに何が示されたのか、それは我々にはわからない。だが、その宗教体験によって与えられた洞察が、『神学大全』に書かれてあるトマスの立場を根本的に否定するようなものであったならば、トマスは決して筆を折らなかったのではないだろうか。それまで書いてきた構想のとおりに書き進めるのでは書き尽くせないほどの新たなヴィジョンを、トマスは晩年の宗教体験のなかで獲得したのだが、それほどまでの深い宗教体験を得ることができたこと自体が、トマスのそれまでの神学探究の成果なのではないだろうか。世界の根源である神をふさわしい仕方で知り愛することができなくなるような決定的に新たな神的ビジョンを受容するための準備態勢が、トマスの心のなかで着々と整えられていたのだ。」

「トマスという人物の魅力の一つは、「饒舌」と「沈黙」の大きな振れ幅を持っているところに見出される。トマスが残してくれた膨大なテクスト群を単なる「藁屑」としてしまうか否かは、ひとえに我々自身の読解力にかかっている。」

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