見出し画像

赤坂憲雄『奴隷と家畜 物語を食べる』/寺田寅彦「詩と官能」/椹木野依「音を食って物がなくなる」

☆mediopos-3178  2023.7.31

「食べる」のは
口から摂取する「食べもの」だけではない

宮沢賢治がじぶんの童話が
読む人の「すきとほつたほんたうのたべもの」
になることを願ったように
物語も食べものになる

「食べる」ということは
私たちの感官や心を充たす
あらゆる「欲望」や「願い」を
「食べる」ということでもある

赤坂憲雄は現在『ユリイカ』で
「物語を食べる」を連載している
(『奴隷と家畜』という本になっている)

それは「食べることをめぐる膨大なテクスト」を
読み解いていくエッセイだが
その最初に寺田寅彦の随筆「詩と官能」から
「食べることと詩とが複雑、精妙にして、
官能的な交歓の関係を底に沈めている」こと
についてふれている

寺田寅彦は「食べることに特異な関心を寄せ、
できごとの記憶と食とは密接に絡んでいたらしい」

そしてそれはその「詩」とも深く関係しているようで
「どうも自分の詩の世界は
自分のからだの生理的機能と密接にからみ合っていて
直接な感官の刺激によってのみ
活動しているのではないかという気がする」のだという

ちょうど美術評論家・椹木野依のエッセイ
「音を食って物がなくなる」(新潮2023年08月号)にも
「食べる」ことについての興味深い示唆がある

椹木氏(1962年生まれ)はそれまで
音楽に魂を取られたようになっていたのが
「なにを聴いても心に染み渡ることがなく」なり
「自分でも驚くほど新しい音楽を求めなくなった」
のだという

「耐用年数」を超えたからなのだろうか
そう自問しながら
どうしてそうなったのかを

洲之内徹が「いい絵かどうかは盗んでも
自分のものにしたいと感じるかどうか」
つまり「鑑賞というよりも摂取したい、
つまりは食ってしまいたい」
ということだったことから

自身のその変化を
「わたしの中でかつて音楽が果たしていた役割を、
今度は食が果たすようになった」のだろうと思いあたり

いまは「よい食に恵まれたとき」
「かつて音楽から得ていた感覚に極めて近いものを
享受している」という気がするのだという

洲之内徹も最晩年になって
音楽に耽溺しはじめたのだそうだが
椹木氏は「聴く」ことから
「食べる」ことのほうに変化したというのである

ひとはあらゆるものを「食べ」て生きているが
椹木氏の変化は
寺田寅彦の「食べること」への関心のように
もっとも直接的な「食べる」という体験を
求めはじめたということなのかもしれない

それが欲望の底なし沼ではなく
やがて「すきとほつたほんたうのたべもの」へと
向かう道でありますように

■赤坂憲雄『奴隷と家畜/物語を食べる』(青土社 2023/4)
■寺田寅彦「詩と官能」
 『寺田寅彦随筆集 5』(岩波書店; 改版 1963/6)
■椹木野依「音を食って物がなくなる」(新潮2023年08月号)

(赤坂憲雄『奴隷と家畜/物語を食べる』〜「第一章/胃の腑と官能のあいだ」より)

「食べることについて、わたしたちは多くを知らないのかもしれない。『性食考』(岩波書店)のなかで、食べちゃいたいほど可愛いという愛の囁きを起点にして、食べること/交わること/殺すことが交錯する妖しい精神史的な景観に、眼を凝らしてみた。思いがけず、食べるという行為やできごとについてかぎりなく無知であることに気づかされた。まるでパンドラの箱をなんの準備もなく空けてしまったように、うろたえている。

 食べることの不思議を、あくまで文字や映像の織物を仲立ちにして追いかけてみたい。食べることをめぐる膨大なテクストの群れに取り巻かれながら、そこに埋めこまれた小さな物語を掘り起こし、つれづれにその読み解きを重ねてゆく。体系的な思考はもとより不可能であり、だから、これはなんなるエッセイである。

 物語を食べる、マンガを食べる、映像を食べる、なんでも食べる。いつだって、味わい深いテクストを探している。テクストの森のなかを、まるでお菓子の家を探すように徘徊している。さりげない随筆がときに、食べることへの迷宮の入口となる。エッセイという形式には、油断と隙間がつきものだ。それは無意識がつかの間顕れる採掘現場である。

 あるとき、寺田寅彦は帰朝したばかりの夏目漱石を訪ねた。寿司をごちそうになった。寺田自身は気づいていなかったが、あとでこんなことを聞かされた。師匠の漱石が海苔巻きに箸をつけると、弟子の寺田も海苔巻きを喰う。漱石が卵を喰うと、寺田も卵を取りあげる。漱石が海老を残したら、寺田も海老を残した。漱石の死後に出てきたノートのなかに、「Tのすしの食い方」という覚書が残されてあった、とか(「夏目漱石先生の追憶」」(『寺田寅彦随筆集』第三巻、岩波文庫)。漱石はじっと観察していたにちがいない。共食の場面では、とりわけ大切な人とのあいだでこうした共振れが起きやすいことは、経験的にもわからないではない。わずかな時間のズレを抱いて、あの人と同じものを口のなかに放りこみ、噛みしだき、呑みくだす。どこまでも無意識に、その薄暗い朱(あけ)色の劇場では、あの人と見えないドラマが共有されている。漱石はたぶん、それが師匠と弟子のあいだのホモソーシャルなまぐわいであることに気づいていたにちがいない。

 漱石は草色の羊羹が好きだった。レストランにいっしょに行くと、青豆のスープはあるかと聞いた、という。寺田の別のエッセイにも、自身の日記には喰い物の記事が多く。そうした漱石先生とどこでなにを喰ったというようなことが、やたらに特筆大書されている、と見える。どうやら、寺田にはできごとを、その時に食べた食物との連想で記憶するという嗜癖があったらしい。このエッセイは「詩と官能」(『寺田寅彦随筆集』第五巻)と題されていた。

 はじまりには、まるで錬金術の呟きのように、こんな捉えどころのないことが語られていた。あるとき、小さな炎が明るい部屋の陽光のした、鈍く透明にともると、その薄明のなかに細かい星屑のような点々が燦爛として青白く輝くが、その瞬間にはもう消えている。そうして突然、不思議な幻覚に襲われるころはしばしばある、という。言葉で表すことがむずかしい夢のようなものだ、ともいう。

 もしかすると、それは偏頭痛の先駆けのように、不意にやって来る極彩色の光の散乱なのかもしれないと、偏頭痛持ちのわたしは想像する。一瞬にして視野が狭まり、眩暈に襲われる、ぐにゃりと空間がゆがむ。どんな幻覚であったのかは語られていない。たしかなこよは知らない。それでも、すぐあとに、こんなことが語られていた。詩的な、官能的でもある幻覚であったはずだ。

   胃の腑の適当な充血と消化液の分泌、それかが眼底網膜に映ずる適当な光像の刺激の系列、そんなものの複合作用から生じた一種特別な刺激が大脳に伝わって、そこでこうした特殊の幻覚を起こすのではないかと想像される。「胃の腑」と「詩」の間にはまだだれも知らないような複雑微妙の多様な関係がかくされているのではないかと思われる。

 寺田寅彦は物理学者にして、随筆家・俳人として知られる。わたしなどは東日本大震災のあとに、その地震や天災をめぐる秀逸なエッセイを通してはじめて、この人との邂逅を果たしている。いかにも自然系の学者らしい語彙が重ねられて、あの幻覚の意味が説き明かされているが。なにやらあやしげではある。そして、胃の腑つまり食べることにと、詩のあいだには。いまだ知られていない「複雑微妙の多様な関係」が隠されているのではないか、というところに、唐突に着地している。食べることに特異な関心を寄せ、できごとの記憶と食とは密接に絡んでいたらしい。このマルチな奇才の文人学者にとって、食べることと詩とが複雑、精妙にして、官能的な交歓の関係を底に沈めていることの気づきは、避けがたい必然の帰結ではなかったか。」

(寺田寅彦「詩と官能」より)

「どうも自分の詩の世界は自分のからだの生理的機能と密接にからみ合っていて直接な感官の刺激によってのみ活動しているのではないかという気がするのである。これはあまり自慢にならない話のようである。しかし詩人の中にもいろいろの種類があって。抽象的精神的な要素の多い詩を作る人がある一方ではまた具象的官能的な要素に富んだ詩に長じた人もあるようである。自分の見るところでは、俳人芭蕉などはどちらかと言えば後者に属するのではないかという気がする。もしそうだとすると、官能的であるということ自身がそれほどいけない事でもなさそうである。

 科学的にもやはり抽象型と具象型、解析型と直観型があるが、これがやなり詩人の二つの型に対応されるべき各自に共通な因子をもっているように見える。

 詩人にも科学者にもそれぞれの型について無限に多様な優劣の段階がある。要は型の問題ではなくて、段階の問題だけであるらしい。(昭和十年二月、渋柿)」

(椹木野依「音を食って物がなくなる」より)

「あるときから、なにを聴いても心に染み渡ることがなくなった。音楽の話だ、と言って済ませられればよいのだが、わたしはおおよそ中学に入った頃から音楽に魂を取られたようになった身なので、かんたんではない。

(・・・)

 なぜそんなことになったのか。それはわからない。わからないのだけれども、その時々に自分の心に染み入る音楽が流れてくるとわたしはなにか陶然としたような気持ちになり、その世界に時間を忘れて没入した。だが、その感覚は同時に速乾性のものでもあって、自分のなかで次々と新しい音源を求める動機にもなっていた。ところが、30歳を過ぎた頃からだろうか。20歳代までとは打って変わって、自分でも驚くほど新しい音楽を求めなくなった。音楽から得られる刺激を貪欲に更新してきた自分も歳を重ね、「懐メロ」として心の底に居所を見つけたのだろうか。いや、それは違う。なぜなら、わたしは20歳代までに自分の心に植え付けた音楽を今度は繰り返し聴くことで、今度はそれに懐メロとなる余裕を与えなかった。かつての音楽はいつも今の音楽であり、今の景色とともにあり、回顧的な懐かしさを伴ういとまがなかった。

 思うに、音楽は小説や映画に比べて繰り返し体験するのが比較的しやすい。ある程度まとまった量の小説を読み切るには一日では足りないし、映画にして最低で1時間半はかかる。美術を観るには美術館まで行かなければならないし、演劇はもっと面倒だ。(ちなみにわたしは音楽のライヴにはめったに行かない)。美術も複製で良いと言うなら画集で済ませることもできなくはないが、しかし音楽のように聴きながらほかのことをすることができない。逆に言えば音楽は(事実、いまわたしが音楽をかけながらこの原稿を書いているように)なにかほかのことをしながらでも聴けてしまうので————たとえば小説を読みながら料理を作るのは極めて難し————人生そのものでわたしが音楽に費やしてきた時間を考えると、驚くほどの総量となるはずだ。

 と言うことは、かつてわたしがあれほどまでに好きだったそれらの音楽が、なにを聴いても心に染み入らないということは、同じ音楽をあまりにも繰り返し聴き続けたことで、とうとう心のなかの耐用年数を超えたのだろうか。分野を問わず、名作は味わえば味わうほど深みが増すというけれども、そのようなもの言いが、たとえば小説を何百回も読むことを前提にしているとは思えない。でも音楽ならそれができてしまう。
(・・・)
音楽はすでに「摂取」と呼んだほうがふさわしいものにかなり前からなっている。そうして、もし同じ音楽が頭の中で何百回でも再現=摂取可能になれば、それが持つ習慣性が擦り切れてしまって不思議はない。実際にわたしは、音楽をめぐる技術革新のおかげで、かつてなら寿命が何百歳にでも届けば可能になったはずのことを、せいぜいが還暦を迎えたくらいで達成してしまっている。

 だけれど、(・・・)実は単にそういうことでもないのではないか、と最近思うようになった。というのは、いま還暦をひとつの区切りに出したように、そして先ほど音楽を繰り返し聴くようになったのが30歳に差し掛かったあたりだったと書いたように、どうやら、どこには30年ほどを目安とする、耐用年数とはまた別の節目があるようなのだ。わたしが思い出すのは、頭抜けた絵の目利きで知られ、絶大な人気を誇った連作エッセイ「気まぐれ美術館」を残した画商、洲之内徹が、最晩年は音楽に耽溺し、余裕さえあればレコードを買って何時間でも聴き続けていたということだ。洲之内の絵の見方は評論家とは根本的に違っていて、いい絵かどうかは盗んでも自分のものにしたいと感じるかどうかであったが、それはようするに鑑賞というよりも摂取したい、つまりは食ってしまいたい、ということだ。

 そこで思い当たるのは。わたし自身、還暦に差し掛かってなにを聴いても心が動かなくなるのと相前後して、自分でもちょっと前とはっきり違うな、と思うくらい食に惹かれるようになったことだ。それをグルメと呼びたくはないし、呼ばない。というのは。わたしの中でかつて音楽が果たしていた役割を、今度は食が果たすようになったようなのだ。このような変化が、いったいどういうメカニズムによるものなのか、それは判然としないのだけれども、よい食に恵まれたとき、少なくともわたしは、かつて音楽から得ていた感覚に極めて近いものを享受しているという気がまちがいなくする。

 音楽も盗めなければ食も盗めない。それはどこまでいっても体験でしかない。絵が盗めるのは、それが物だからだ。わたしは洲之内に聞いてみたい。盗んでも自分のものにしたいのがよい絵だとしたら、あなたにとってよい音楽とはいったいどのようなものでしたか、と。そんなことを聞いて見たいのは。音楽に耽溺するようになるに従い、おそらくは洲之内の中でも、絵の持つ意味が大きく変化していたはずだからだ。もしも洲之内が、それは聴くだけではなく食ってしまいたいと感じるかどうかだ、と答えるとしたら、このエッセイももう終わりに近い。というのも、たとえ相手が絵であっても、盗んでも自分のものにしたいかどうかは、突き詰めれば、それを食ってしまいたいかどうか————そうすれば物は物でなくなる————であったはずだからだ。」

◎赤坂憲雄(あかさか のりお)
民俗学・日本文化論。学習院大学教授。福島県立博物館館長。東京大学文学部卒業。東北芸術工科大学教授として東北文化研究センターを設立し、『東北学』を創刊。2007年『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)でドゥマゴ文学賞受賞、同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞.『異人論序説』『排除の現象学』(ちくま学芸文庫)、『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫)、『東西/南北考』(岩波新書)など著書多数。

◎椹木野衣(さわらぎ のい)
1962年埼玉県生まれ。故郷の秩父で音楽と出会い、京都の同志社で哲学を学んだ盆地主義者。美術批評家として会田誠、村上隆、ヤノベケンジら現在のアート界を牽引する才能をいち早く見抜き、発掘してきた。既存のジャンルを破壊する批評スタイルで知られ、蓄積なしに悪しき反復を繰り返す戦後日本を評した「悪い場所」(『日本・現代・美術』新潮社)という概念は、日本の批評界に大きな波紋を投げかけた。ほかにも読売新聞(2010-2011)、朝日新聞(2017-)の書評委員としてあらゆる分野にわたる書評多数。多摩美術大学教授にして岡本太郎「芸術は爆発だ! 」の精神的継承者。芸術人類学研究所所員も務める。1児の父。
おもな著書に、『シミュレーショニズム』(増補版はちくま学芸文庫)、『反アート入門』『アウトサイダー・アート入門』(ともに幻冬舎)、『太郎と爆発』(河出書房新社)、『後美術論』(美術出版社、第25回吉田秀和賞)、『震美術論』(美術出版社、平成29年度芸術選奨文部科学大臣賞)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?