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森博嗣『静かに生きて考える』

☆mediopos3350  2024.1.19

世の中はなにかと騒々しく喧しい

いつの時代もおそらくそうなのだろうが
もともと社会的指向の希薄なぼくのような人間でも
さすがに昨今の状況のなかでは
ある程度世の中のことに
目を向けないわけにはいかなくなっている

そんななかで読む
「静かに生きて考える」ことについての
森博嗣の最新エッセイ(全四〇回)である

一貫して語られているのは
ひとことでいえば「誰とも戦わない」こと
ひとと競わず争わず
孤独と自由を楽しむということである

世の中で「不正」に対し
正義感をもって抗議しようとするときなど
「声を挙げなければならない」という言葉がよく使われる

もちろん「戦争を止める、平和を実現するには
必要かもしれない」のだが
「その戦争も、大勢の声を集めて始ま」り
「そんなふうに集められた「欲望」から、
多くの争いは始まる」

さまざまな社会的な営為は
「他人に働きかけるようなこと」からはじまる
そしてそれは多くの場合
実質的になんらかの「戦い」という形をとることになる

それは「社会に貢献する、人のためになる、
平和を訴える、後世のために尽力する」といった
良きこととされることを行う場合必要だとしても
「戦い」であることに変わりはない

さらにいえば
スポーツやゲームそして各種優劣を競う競技にしても
基本的に代理戦争として機能している

森博嗣によれば
「「戦おう!」という叫びの根源には、
他者を巻き込もうとする気持ちがあって、
「みんなで一緒にしたい」という、
いわば「共感」や「絆」への欲望が窺える。
そして、それらは「ひとりぼっちは嫌だ」
「孤独は最悪だ」という思いに根ざしている」という

共感からであれ反感からであれ
そうした共感−反感のベクトル上にあるかぎり
「戦い」から離れていることは難しく
そのとき「静かに生きて考える」ことはできない
そしてそこでは孤独も自由も存在できなくなる

いうまでもなく
昨今の世の中の状況は
予断を許さないほど実質的に戦時下の様相を呈し
そこでなんらかの態度が求められるのは確かで
そのなかで知見を高めておくことも
なんらかの態度を示すことも求められはするが

森氏と同様
「ただ、「それだけじゃないでしょう?」
という気持ちを抱いてしまう」

森氏はこう語る
「無駄だ、贅沢だ、というのなら。
生きていること自体が
無駄で贅沢な状況といえるだろう。
人間は何故生きているのか、と問われれば、
僕は「生きるのが趣味です」と
答えるのが適切だと考えている。」

生きるということが
常に「戦い」の渦中にあるときでも
「静かに生きて考える」ことこそ
幸福を見出すために大切なことではないだろうか

SF的な宇宙観の話ではあるが
ある宇宙存在は人間のネガティブな波動をもつ感情を
エネルギー源として必要とするために
共感−反感のベクトル上の「争い」を
絶えず起こさせようとしているのだという

競わず争わず孤独と自由を楽しむために
「静かに生きて考える」人間から
エネルギーを得ることはできないからである

そうした宇宙存在は
いわゆる黒魔術的な秘儀を受けた人間と
同質だといえるのかもしれない
ある意味でジェノサイド的な指向をもつのも
そのひとつだろう

昨今は政治家をはじめ
そのよう傾向を持っているとしか見えない人間が
表舞台で傀儡のようにあからさまに活躍している感もある

騒々しく喧しい世の中だからこそ
そうした存在たちへの単なる「アンチ(反)」の
ベクトルから自由でいるためにも
でき得る限り「静かに生きて考え」られますように

■森博嗣『静かに生きて考える』(ベストセラーズ 2024/1)

(「第1回 やかましい世の中でも静かに生きたい」より)

「ネットでニュースを見ていると「声を挙げなければならない」と結ばれている記事が多い。問題がある対象に抗議の声を集めよう、という意味だ。民主主義だから、大勢の意見が一致しなければ行動を改められない、ということだろう。戦争を止める、平和を実現するには必要かもしれない。
 けれど、その戦争も、大勢の声を集めて始まるものだ。また、そもそも自分だけでは満足できない人たちが、周囲の人々を巻き込んで自分の夢を実現しようとする。そんなふうに集められた「欲望」から、多くの争いは始まる。他人に働きかけるためには。声を大きくしなければならない。叫び訴える。だから、やかましくなる。」

「他人に働きかけるようなことをしたくない。なにも訴えたくない。それなのに、僕はこうして文章を書く仕事をしている。大勢の人に送り届けている。僕の信念と行動には矛盾がある。それは、やりたくないことでも多少は社会に奉仕し、その見返りとして社会の庇護を受ける、というシステムが存在するためだ。社会への奉仕とは、すなわち「仕事」のことである。」

「矛盾だらけの人生を誰もが生きているはずで。「私はこの方針で生きている」などと簡単にいえる人は滅諦にいない、と思う。誰もがきっと悩んでいるし、不安を抱いているし、後悔もしているだろう。希望や期待ばかりで生きられるものはない。
 なにかもやもやするときに、深呼吸をして、身近にある自然に目を向けてほしい。植物でも動物でも良い。風景でも星空でも良い。あなたは、静かに生きることができるはず。すべての人間は自然に生まれ、自然に死んでいく。生きている間だけ、ちょっとやかましいけれど、無理に騒ぐようなことでもない。怒ったり、嘆いたり、笑ったりするよりも、黙って周囲を眺めている方が、ずっと人間らしい。」

(「第5回 五月が一番夏らしい季節」より)

「無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものだから、辻褄が合っている。
 それを、なにか社会にとって有意義な目的にしよう、と無理にいろいろ率句を捻り出すから、難しい問題になってしまう。それら多くの理屈は、結局は言葉を飾っているだけ、つまり綺麗事である。社会に貢献する、人のためになる、平和を訴える、後世のために尽力する、といった方向へこじつける理屈だ。悪くはない。非難しているわけではない。ただ、「それだけじゃないでしょう?」という気持ちを抱いてしまう。正直者なので、つい素朴に考えるだけのこと。」

「無駄で贅沢なものといえば、その筆頭は「戦い」ではないか、と思う。気合を入れて、人を鼓舞するとき、「えい、えい、おう!」と叫び、「戦おう!」と拳を振り上げる。非難するつもりはないけれど、客観的に診てエネルギィが無駄に消費されているな、とは感じる。もったいないし、贅沢だなあ、と思うくらいは許してもらいたい。
 世の中には、「殺合い」といえる「戦い」もある。本当に無駄だし、誰もが馬鹿げていると感じるはずなのに、何故か消えることがない。その理由は、戦いたい人たちが沢山いるからだ。これについては、僕は半ば諦めている。諦めるしかない、という結論に至って久しい。
 何故なら、平和を訴えるデモ行進だって、やっぱり拳を振り上げているのだ。選挙運動でも、みんなで「戦い抜こう!」と叫んでいるではないか。これが不思議だと思わない人が多数派なのが、僕は不思議だけれど、これが諦めた理由だ。
 おそらく、「戦おう!」という叫びの根源には、他者を巻き込もうとする気持ちがあって、「みんなで一緒にしたい」という、いわば「共感」や「絆」への欲望が窺える。そして、それらは「ひとりぼっちは嫌だ」「孤独は最悪だ」という思いに根ざしているようだ。」

「誰とも戦わない。不戦の契りも一人だけなら必要ない(・・・)。それもまた、最高に無駄で贅沢だといわれそうだけれど、一人でいるなら、誰でも比較的容易に実現できる。一人なら、周囲から非難される機会もない。自分を無駄だと思わないように動物はできているから、大丈夫。死ぬまでは、安心して生きられる。」

(「第22回 メリハリのないシンプルな生き方」より)

「勤めを辞めてもう十八年くらいになるけれど、毎日だいたい同じことをしている。決めたわけではなく。自然にそうなった。起きる時間、寝る時間、風呂に入る時間、もちろん食事なども時間が決まっていて、休日も平日も、大晦日でも元旦でもまったく変わらない。世間の人たちが楽しんでいるような「行事」は、僕には無縁だ。」

「機械というのは休まずに働くけれど、人間は同じ作業を長く持続できない。そこで、作業に対して「集中」するように教育し、そのかわりに、休日を与え、酒を与え、無礼講の時間を設置するようになった。これが「人間の使い方」というわけだ。
 物事に集中することは良いイメージで捉えられているけれど、つまりは人間らしくない。機械のような作業を強いられただけのこと。今後は、そういった労働から人間は解放されるはずだから、基本的に人間はだらだらと自分のペースで活動をするのがむしろ効率的と理解されるだろう。
 僕はそういう具合に仕事をしてきた。毎日だらだらと、コンスタントに、メリハリのない生き方をしてきた。そして、これが結果的に良かったのだな、と今では評価している。
 スポーツやゲームなどは、短時間に集中しなければならない。だが、そういった類の仕事は未来にはどんどん減っていく。その種の行為はすべて「趣味」になるだろう。」

(「第23回 知るとは、知らないことを増やすこと」より)

「社会とは、大勢の人間が分業し、それぞれの得意分野で仕事をする仕組みだ。このサークルにいると、自分のことなのに「誰かがやってくれる」生き方になる。自分はただ自分のノルマをこなすだけ。それ以外のことは、他者のノルマになる。
 そうするうちに。「やりたい」ことも、「誰かが考えてくれる」と頼るようになって、与えられたものを受け取るだけの「消費者」になる。それで、安心で安全な生活を持続できる。
 このルールを知らない子供だけが、「やりたい」と手を伸ばすのだ。大人になると。その手はもうどこへも向かわず。ポケットに入れたままになる。」

「なんでもそうだけれど、新しいことをやり始めたときが一番楽しい。知らないからこそ、知ることが楽しい。やったことがないからこそ、やってみると楽しい。子供が無邪気に遊ぶ様子を見ていれば、それがわかるし、大人になっても、「子供のように」と形容されるような楽しさを味わうことは可能である。それに必要なのは、無知と未体験であり、それはつまり。「馬鹿」な状態だといえる。」

「知らないことは馬鹿なのではない。知ろうとしないことが本当の馬鹿である。」

(「第26回 働くことは「偉い」のか?」より)

「最近は薄れているかもしれないけれど、僕が若い頃には、日本に特有の価値観が二つあった。まず、「若いことは良いことだ」というもの。そして、「働くことは良いことだ」というものである。」

「日本人は、老人がなかなか職を退かない。働いていないと偉くなくなってしまうためだろう。もう働く必要がない人まで、「一生現役」などと威張っている。自分が生活するのに必要な分だけを稼がせてもらう、という控え目な意識、働くことへの後ろめたさがない。

「仕事をすることが偉いという感覚には、仕事で出世をすることで、人を支配できる立場になれる、との羨望と期待が潜んできる。これは、天下を取ろうとした戦国大名と同じだろう。「偉い」立場とは、古来、人を支配できるポジション、役割なのである。「偉い」には逆らえない、とのルールがあるからだ。」

「日本で「若さ」がもてはやされるのも、まだ誰にも「支配」されていない、という純粋さに価値を見いだしたものだったから、この虚構も、いずれは崩れるだろう。なにしろ、「若さ」は、本来はリベンジを目指す好戦的な精神を宿していたが、それは今はもう存在しないからだ。」

「戦うことは貧しさの表れだ、と僕は考えているけれど、それも、戦うことの尊さに隠れてしまうようだ。理屈で説明しても理解は難しいだろう。(・・・)
 仕事をすることが偉い、という日本の価値観は、平和を全体としている。」

(「第27回 考えない人間は葦である」より)

「野生というのは、自分にとって不利益なもの、危険なものに対して、常に警戒し、自分がどう行動すれば安全かを考えることである。この能力を失っている人々が大勢いる。たぶん、都会にいるほど野生は失われる。つまり、考えない人になりやすいのではないか。」

(「第37回 簡単な方法に縋って失敗する」より)

「「できることから始めよう」というスローガンは多い。しかし、当たり前だ。できることしかできない。できないことは始められないからだ。しかし、できないことでできるようにしよう、という努力をすべきである。今はできなくても、それができるようになるための行動がある。そういった行動を伴うものは簡単ではない。時間と労力がかかるし、費用も必要だろう。しかし、その方法が最も問題解決に近づける確実な道である場合が少なくない。多くの人は、その道を避けているから、ますます悩ましい状況に陥る。」

「実のところ、少しずつ誠実に歩む道は、だいたい目の前にある。歩みにくそうに見えているけれど、歩けないわけではない。そこへ一歩、一歩、足を前に出して、ゆっくりと進むだけだ。それほど難しいものではない。」

○森博嗣(もり・ひろし)
1957年愛知県生まれ。工学博士。某国立大学工学部建築学科で研究をするかたわら、1996年に『すべてがFになる』で第1回「メフィスト賞」を受賞し、衝撃の作家デビュー。怜悧で知的な作風で人気を博する。「S&Mシリーズ」「Vシリーズ」(ともに講談社文庫)などのミステリィのほか、「Wシリーズ」(講談社タイガ)や『スカイ・クロラ』(中公文庫)などのSF作品、また『The cream of the notes』シリーズ(講談社文庫)、『小説家という職業』(集英社新書)、『科学的とはどういう意味か』(新潮新書)、『孤独の価値』(幻冬舎新書)、『道なき未知』(小社刊)などのエッセィを多数刊行している。

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