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塚本邦雄『新古今の惑星群』

☆mediopos-3005  2023.2.8

塚本邦雄の優れた解説者である島内景二は
『新古今の惑星群』の解説を
一九七〇年から刊行されていた
『日本詩人選』(筑摩書房)のことから語り始めている

古典に目が向くようになって以来
かつて刊行されていたこのシリーズを
ここ十年来古書店で求めながら読み始めているが素晴らしい
今後こうした充実したシリーズが刊行されることは
おそらく望めないのではないかと思われる
(シリーズの何冊かはその後文庫化されて刊行されている)

今回主にとりあげた塚本邦雄『新古今の惑星群』は
そんなシリーズのなかの一冊『藤原俊成・藤原良経』が
改題のうえ講談社文芸文庫として刊行されたものである

「新古今の惑星群」とは
『新古今和歌集』という太陽系で
惑星である歌人たちがめぐっているということ

「太陽系の中心には、不動の恒星である太陽が存在する。
その太陽の引力に捉えられ、
いくつもの惑星が軌道を描いて回り続け」ている

島内景二は「文学の太陽とは何か。詩歌の太陽とは何か」と問い
「「恒星としての太陽」が、時代と共に変容してきた」という

「近代日本における文学の太陽は、
「自然主義」と「写生」であろう。
ところが、『新古今和歌集』の時代には、そうではなかった」

『新古今和歌集』という太陽系においては
その誕生時には「この勅撰和歌集を主導した後鳥羽院が太陽であり、
藤原俊成という巨大な惑星があり、
突如として光を放ち始めた藤原定家や藤原良経という新惑星が出現した。
家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円というマイナーな惑星もあった。
また、西行という、惑星とは呼べない不思議な妖星も、
この太陽系の内部に入り込み、人々の記憶に刻印された。」

けれども後鳥羽院が一二二一年の承久の乱で敗れ
「太陽自体が脱出するという異常事態が起きた」

その後は「藤原定家が、いちはやく軌道を修正して、
惑星から新たな太陽の位置に座」り
「平明・平淡を理念とする『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』という
新惑星を加えて、この太陽系を変質させてしまう。」

この路線は中世における「古今伝授」の伝統となり
「中世文化を開花させ、結実させた」が
時代を降り明治時代になって正岡子規がこの「太陽系を否定」し
「『新古今和歌集』と藤原定家を太陽の位置から追放
その代わりに『万葉集』を太陽の位置に据え
「写生」という太陽系を作り上げ現代にまで影響を及ぼしている

それに対して塚本邦雄は
「「戦後日本文化」を再建し強化するに当たって、
文化の太陽、文学の太陽、詩歌の太陽を、
一挙に刷新しようとした」のだという

そのために自らが「太陽」の位置に座り
文化の理念を『万葉集』から『新古今和歌集』へと引き戻し
新たな太陽系を「創世」するために
後鳥羽院に次ぐ「二番目の太陽だった藤原定家をも、
塚本は総括する必要に迫られた」のだという

塚本邦雄には第二の太陽であった定家に関して
さまざまな著作があるが
その「惑星群」である
藤原俊成・藤原良経を中心として
藤原家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円について
論じられたのが本書となっている

そのなかから俊成論のなかでの
「幽玄」をめぐる視点が興味深いので最後に少しだけ

本書では俊成論に半数ほどの八章を費やしているが
その結論というのは
「「幽玄」という詩歌の理念」は
「実体のない幻に過ぎなかった」というものだった

「幽玄とは作品の中にあるなにものかではなく
享受者の心の翳に過ぎぬ」
故に「刻薄厳正な歴史の眼」こそが
その「幻」を「幽玄」と見せているのだと

それは俊成の「幽玄」だけにかぎらず
定家の「有心」・子規の「写生」・島木赤彦の「鍛練道」
斎藤茂吉の「実相観入」・そして塚本自身の「幻視」もまた
同様の「実体のない幻」である

しかしながら「幻」であるがゆえにこそ
「歌とはなにか」が論じられ歌われなければならない

「「相容れない文学理念を持つ者同士は、互いへの不信感と
憎悪をぶつけ合って激論を交わす。
そのうち論敵を批判する言葉が、自分自身の文学観をも切る
「諸刃の剣」であったことに気づく。
毛嫌いしていた相手の歌にも、自分が求めていた
理念が含まれていることも知る。
そして、そこから、第三の新しい道が姿を現してくる。」

そうした「諸刃の剣」を経た彼方にこそ
「俊成や定家の求めた「歌」があり、
未来のあるべき「歌」がある」ということなのだろう

果たしてその新たな道は姿を現してくるだろうか
その道を見つけられるようにするためにも
かつての「太陽」そして「惑星」を
みずからの内に見出せるようにする必要がありそうだ

ちなみに参考までに引用してあるが
『新古今和歌集』の仮名序は藤原良経が書いている

■塚本邦雄『新古今の惑星群』(講談社文芸文庫 2020.12)
■佐佐木 信綱校訂『新訂 新古今和歌集』 (岩波文庫 1959/2)
■渡邉裕美子『藤原俊成』(コレクション日本歌人選063 笠間書院 2018/12)
■村尾誠一『藤原定家』(コレクション日本歌人選011 笠間書院 2011/3)
■吉野朋美『後鳥羽院』 (コレクション日本歌人選028 笠間書院 2012/3)
■小山順子『藤原良経』 (コレクション日本歌人選027 笠間書院 2012/1)

(塚本邦雄『新古今の惑星群』〜「Ⅰ藤原俊成 1幽玄考現學・あはれ幽玄」より)

「俊成は歌學上の美的理念「幽玄」の名付親であつた。釋阿を語ることはすなはち幽玄を釋くことに盡きよう。そして幽玄を解くことは王朝末期の和歌の秘奥を探ることに他ならず、ひいては「八代集」は申すに及ばず『伊勢』、『源氏』、『狭衣』を初めとする諸物語を究めねばなるまい。」

(塚本邦雄『新古今の惑星群』〜「Ⅰ藤原俊成 3架空9番歌合」より)

「作品價値判定基準などつひにいづこにも存在しない。幽玄とは作品の中にあるなにものかではなく享受者の心の翳に過ぎぬ。是も非も優も劣も勝も負も持も決めるのはただ一つ刻薄厳正な歴史の眼であたう。その眼、それこそしたたかな衆議判に他ならずこれにはいかなる陳状も通じることはない。」

(塚本邦雄『新古今の惑星群』〜島内景二「解説/冥王塚本邦雄と『新古今和歌集』、そして現代日本」より)

「本書は、『藤原俊成・藤原良経』として、筑摩書房から一九七五年に刊行された『日本詩人選』の一冊である。シリーズ番号は23。
 この「日本詩人選」からは、大岡信『紀貫之』(一九七一年)。吉本隆明『源実朝』(一九七一年)、丸谷才一『後鳥羽院』(一九七三年)などの話題作・問題作が相次いで刊行され、読書界に「古典復興」が大きなうねりを起こしつつあった。古典和歌から現代文明を撃つことが可能であるどころか、閉塞した社会状況を打開する最も有効な手段であることを、「日本詩人選」は示した。」

「標題には俊成と良経の二人の名前を含んでいるが、実際には、藤原家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円も含まれている。
 今般、文芸文庫に収録するに際して、『新古今の惑星群』と改題され、塚本邦雄の信念である「正字正仮名」へと表記が一新された。これによって、「日本詩人選」の圏外に脱したと言える。本書は完全な意味での「塚本邦雄の本」となり、本書から、二十一世紀の詩歌のビッグバンが開始する。
 ビッグバンにふさわしく、新しいタイトルには「惑星」という天文学用語が含まれている、塚本には『されど遊星』という歌集があるように、天文に関心が深かった。
 太陽系の中心には、不動の恒星である太陽が存在する。その太陽の引力に捉えられ、いくつもの惑星が軌道を描いて回り続ける。惑星の引力によって捉えられた衛星もある。太陽系には時折、彗星も紛れ込み、逃れでてゆく。
 文学の太陽とは何か。詩歌の太陽とは何か。重要なのは、「恒星としての太陽」が、時代と共に変容してきた事実である。
 近代日本における文学の太陽は、「自然主義」と「写生」であろう。ところが、『新古今和歌集』の時代には、そうではなかった。
 一二〇五年に成立した『新古今和歌集』という太陽系に関して言えば、この太陽系が誕生した時には、この勅撰和歌集を主導した後鳥羽院が太陽であり、藤原俊成という巨大な惑星があり、突如として光を放ち始めた藤原定家や藤原良経という新惑星が出現した。良経は、すぐに詩歌の夜空から消滅した。家隆・俊成卿女・宮内卿・寂蓮・慈円というマイナーな惑星もあった。また、西行という、惑星とは呼べない不思議な妖星も、この太陽系の内部に入り込み、人々の記憶に刻印された。
 後鳥羽院は、一二二一年の承久の乱で敗れた後、流された隠岐にあって、『新古今和歌集』を選び直した。このため、『新古今和歌集』の太陽系を、太陽自体が脱出するという異常事態が起きた。
 だが、「中世日本文化の王」たらんとした藤原定家が、いちはやく軌道を修正して、惑星から新たな太陽の位置に座った。
 『新古今和歌集』という太陽系の新たな太陽となった定家は、平明・平淡を理念とする『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』という新惑星を加えて、この太陽系を変質させてしまう。この平板化路線は、中世の「古今伝授」の伝統となって、茶道や華道や建築などの諸分野で中世文化を開花させ、結実させた。
 近代の正岡子規は、この太陽系を否定して、『新古今和歌集』と藤原定家を太陽の位置から追放した。替わって『万葉集』を太陽として、「写生」という新しい日本文化の太陽系を作り上げ、現代に至っている。
 塚本邦雄は、「戦後日本文化」を再建し強化するに当たって、文化の太陽、文学の太陽、詩歌の太陽を、一挙に刷新しようとした。それには、『万葉集』から『新古今和歌集』へと、もう一度、文化の理念を引き戻すしかない。そして、「太陽」の位置には、自らが座るしかない。最初の太陽だった後鳥羽院をしのぐ「文学理論」で、戦後日本に最もふさわしい太陽系を「創世」しようとした。二番目の太陽だった藤原定家をも、塚本は総括する必要に迫られた。」

「塚本が本書で藤原俊成を見る目は、まことに辛辣である。なぜならば、俊成は「メジャー」であり、和歌史において一時代を築いたがゆえに、現代歌人として乗り越えねばならぬ古典歌人だからである。
 和歌史・短歌史には、明らかな事実がある。それは「歌聖」と呼ばれるほどのメジャー歌人は、和歌・短歌の実作に優れているだけでなく、「歌論」と呼ばれる短歌理論書を書き残している、ということである。紀貫之、藤原公任、藤原俊成、そして藤原定家は、いずれも創作と評論を連動させて、文学の世界を拡大させ、文学の宇宙を膨張させていった。しかも、俊成の場合には「幽玄」、定家の場合のは「有心(うしん)」という、彼らが詩歌に求めた究極の目標が、歌論の核心になっている。近代でも、正岡子規の「写生」、島木赤彦の「鍛錬道」、斎藤茂吉の「実相観入」、そして塚本自身の「幻視」などがある。
 歌とは何か。何を求めて歌人は歌わずにいられないのか。「歌を詠む」ことに自覚的であるかどうか、韻文である歌の価値を散文である歌論で表現できるかどうかが、メジャーとマイナーを分かつ。けれども。歌人の書いた「歌論」は、その歌人の「実作」を常に裏切り続ける。本書は、俊成の歌論と実作を精緻に分析しながら、詩歌の生命力の根源に迫ってゆく。」

「俊成論に八章を費やして、塚本が達したのは、「幽玄」という詩歌の理念が実体のない幻に過ぎなかったという結論である。ならば、有心も、写生も、実相観入も、幻であろう。「幻視」にあたっては、最初から幻そのものである。
 歌人塚本邦雄は、晩年、「歌」そのものをテーマとして歌うことが多かった。歌とは何かを歌い、歌論でも論じる。形而下の「言葉」を使って、形而上の「何か」を希求して歌い、かつ論じる。その彼方に、俊成や定家の求めた「歌」があり、未来のあるべき「歌」がある。」

(新古今和歌集序)

やまと歌は、むかし天地ひらけはじめて、人のしわざいまださだまらざりし時、葦原中つ國の言の葉として、稻田姬、素鵞[すが]の里よりぞ傳はりける。しかありしよりこのかた、その道さかりにおこり、そのながれいまに絕ゆることなくして、色にふけり心をのぶるなかだちとし、世を治め民を和らぐる道とせり。かかりければ、代々の帝もこれを捨てたまはず、撰びをかれたる集ども、家々のもてあそび物として、言葉の花、のこれる木のもとかたく、思の露、漏れたる草隱れもあるべからず。しかはあれども、伊勢の海淸き渚の玉は、拾ふとも盡くることなく、いづみの杣しげき宮木は、曳くとも絕ゆべからず。物みなかくの如し。歌の道またおなじかるべし。これによりて、右衞門督源朝臣通具、大藏卿藤原朝臣有家、左近中將藤原朝臣定家、前上總介藤原朝臣家隆、左近少將藤原朝臣雅經らにおほせて、昔今の時を分たず、髙き賤しき、人を嫌はず、目に見えぬ神佛の言の葉も、うばたまの夢に傳へたることまで、廣く求め、普く集めしむ。各撰び奉れるところ、夏引の絲の一筋ならず、夕べの雲のおもひ定めがたきゆゑに、綠の洞、花かうばしきあした、玉の砌、風凉しきゆふべ、難波津のながれを汲みて、澄み濁れるを定め、淺香山の跡をたづねて、深き淺きをわかてり。萬葉集に入れる歌は、これを除かず、古今よりこのかた、七代の集にいれる歌をば、これを載することなし。但、詞の園に遊び、筆の海を汲みても、空飛ぶ鳥の網を漏れ、水に住む魚の釣を脫れたるたぐひ、昔もなきにあらざれば、今もまた知らざるところなり。凡て集めたる歌、二ちぢ二十卷、名づけて新古今和歌集といふ。春霞立田の山に、初花を忍ぶより、夏は妻戀ひする神なびの時鳥、秋は風に散る葛城の紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮まで、みな折にふれたるなさけなるべし。しかのみならず、髙き屋に遠きを望みて、民の時を知り、末の露もとの雫によそへて人の世を悟り、玉鉾の道の邊にわかれを慕ひ、天ざかる鄙の長路に都を思ひ、髙間の山の雲居のよそなる人を戀ひ、長柄の橋の浪に朽ちぬる名を惜しみても、心うちに動き、言葉ほかにあらはれずといふ事なし。況んや住吉の神は片そぎの言の葉を殘し、傳敎大師はわがたつ杣のおもひをのべ給へり。かくの如き、知らぬ昔の人の心をもあらはし、行きて見ぬ境の外の事を知るは、ただ此の道ならし抑々昔は五たび讓りし跡をたづねて、天つ日嗣の位に備はり、今はやすみしる名をのがれて、はこやの山にすみかをしめたりといへども、すべらぎは怠る道をまもり、星の位は政をたすけし契を忘れずして、天の下しげき言わざ、雲の上のいにしへにも變らざりければ、萬の民、春日野の草の靡かぬかたなく、四方の海、秋津洲の月しづかに澄みて和歌の浦の跡を尋ね、敷島の道をもてあそびつゝ、この集を撰びて、永き世に傳へむとなり。彼の萬葉集は、歌の源なり。時移り事隔たりて今の人知る事かたし。延喜の聖の御代には、四人に勅して古今集を撰ばしめ、天曆のかしこき帝は、五人におほせて後撰集をあつめしめ給へり。その後、拾遺、後拾遺、金葉、詞華、千載等の集は、皆一人これをうけたまはれる故に、聞きもらし、見及ばざるところもあるべし。よりて、古今後撰のあとを改めず、五人の輩[ともがら]を定めて、しるし奉らしむるなり。そのうへ、みづから定め、てづからみがけることは、遠くもろこしの文の道をたづぬれば、濱千鳥跡ありといへども、我が國、やまと言の葉の始まりてのち、呉竹の世々にかかる例なんなかりける。このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首には過ぎざるべし。しかるを今かれこれ選べるところ、三十首にあまれり。これみな、人の目たつべき色もなく、心とどむべきふしもありがたきゆゑに、かへりていづれとわきがたければ、森の朽葉かずつもり、みぎはの藻屑かき捨てずなりぬることは、道にふけるおもひ深くして、後のあざけりを顧みざるなるべし。時に元久二年三月廿六日になんしるしをはりぬる。目をいやしみ、耳を尊ぶがあまり、いそのかみ古き跡をはづといへども、流れを汲みて源を尋ぬる故に、富の小川の絕えせぬ道を興しつれば、露霜は改まるとも松吹く風の散りうせず、春秋はめぐるとも、空ゆく月のくもりなくして、この時に逢へらむものは、これを喜び、この道を仰がむものは、今を忍ばざらめかも。

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