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今 和次郎『ジャンパーを着て四十年』

☆mediopos2798  2022.7.16

「正装」「礼儀」「エチケット」
「装う」ことについての
今和次郎による「考現学」

昭和四十二年に刊行されたものだが
そこに書かれてあることは
現在でも基本的には変わらないようだ

今和次郎は結婚式でも大使の前でも
いつでもジャンパーを着ていたとのことだが
それは果たして「礼儀」や「エチケット」に
反したことだったのかといえばそうではない

今和次郎は一般的にふさわしいとされている装いを
知らず無頓着にそうした装いをしているわけではなく
摩擦が起こりえることを前提に
意識的にそうしたスタイルを貫いたわけで
そこに今和次郎の「装う」ということについての
いわば哲学があるということができる

それぞれの場には
それぞれの場に応じた
もしくは相応しい「装い」や「礼儀」
そして「エチケット」があるとされ
それに従っておくことで
要らぬ摩擦を回避することもできる
いわばみんなで渡れば怖くないである

しかしわたしたちはそれらについて
「そういうことになっている」ということで
その意味を知らずに従っていることがほとんどで
それらのほとんどはただ慣習化されているだけである

しかもほとんど意味もわからぬ慣習を
さももっともらしく教える先生などもいたりする
いってみれば要らぬおせっかいの処世術指南にすぎない

「日本人は、世間で行われている慣習というものに弱い。
ああするものよ、こうするものよと、
家庭科の先生あたりが教えることを
盲目的にうけとるだけで、
なぜそうしなければならないのかという批判力は弱い」のだ
 
なぜそうなのかを問いかけても
ほとんどのばあい
「だってこういうことになっているんだから」
以上のものはでてこない
せいぜいが権威的なものを持ち出してくるに留まるが
権威に弱い人にはそれで十二分な根拠になってしまう

個人的にいえば
ふつう仕事をしているときには
それなりのスタイルをしている必要があるのはたしかで
(ある種の場所では「マスク」をせざるをえないように)
ひとからの過剰な視線を浴びないためには
仕方のないところはある

とはいえそうしたことに無意識のまま
「そういうものだ」「そうすべきだ」と
思いこんでいるのはいわば「精神における自由」を
放棄した状態にほかならない

しかし注意深くなければならないのは
どうしてそうなっているのかに
常に意識的になるということは
それらを否定するということではないことだ

とくに「儀式」的なものや
継承されてきた「型」や「技」など
今は意味がわからなくなってしまっているもののなかに
隠された重要なものがある可能性があるということだ
説明はし難いけれどそれを体現することによって
可能になる叡智がたしかに存在することもある

とはいえ多くの「そういうものだ」は
できれば笑いとばしてしまうに越したことはない

■今 和次郎『ジャンパーを着て四十年』
  (ちくま文庫 筑摩書房 2022/7)

「礼儀作法という言葉そのものについて考えておく。礼とは何か、儀とは何か、作法とは何か、そしてさいきん片仮名で書かれているエチケットとは何か(…)ということについて。
 礼といえば心にかかわること、儀とか作法とかいえば形にかかわること、そして儀とは公にかかわることで、作法とは日常的な場合とされているようだ。
 そして礼儀作法といえば、心も形もしっくりと融合したものを指すことになり、また文字を入れかえて、儀礼と書くと、冠婚葬祭などの式典のときに、参列者たちに式典そのものの印象を明確にキャッチさせようとする目的でなされるもの、つまり劇的効果をねらう意図のものといえよう。
 さらに片仮名で書くエチケットとは、西洋の宮廷中心に、ルネサンス以降に用いられた言葉で作法ということに当たるといっていいようだ。
 もともと礼とは、古代中国から伝承した言葉で、神対人間、つまり比較できないほど両者の力の格差が大きい場合に、人間は神に対して礼の精神で向かわなければならない、それを王と臣下とのあいだにも用いだしたことからはじまっているといえる。そしてそれがわが国にそのまま移し植えられたのだ。
 キリスト教国である西洋では、絶対王権の時代にも、王と臣下とは人間対人間という考えでやっていた。何故なれば、王の上に更に神がおかれていたからだ。神はあくまでも聖界のもので、王は俗界のものとされていたからである。だからヨーロッパの宮廷において行われたのは作法であって、礼法ではない。つまりエチケットとはそれだったのだ。」

「ケネデーは大統領の就任式には、しっぽの垂れた礼服を装うたけれど、ジョンソンは背広服で就任式にのぞんだと報ぜられている。このことの理由は明確で、ケネデーはカトリック信者で、そしてジョンソンはプロテスタントだから、それぞれ当然なことだったのだ。同じ国の中でも、信仰する宗派のちがいで、エチケットが並存することとなるのが、西洋、特にアメリカ合衆国では常識とされている。
 それにくらべると、日本は、日本人は、作法にかかわる服装といえば、だれもかれも、右へならえ式でなけえれば、「それではいけない」とか「そんなカッコでは失礼だよ」という風に全く独自性をゆるそうとしない。マッカーサーの残していった言葉ではないが。日本人は信仰とか信念とかいうものにかけては、正に十二歳的な国民よ、といいたくなる。
 日本人は、世間で行われている慣習というものに弱い。ああするものよ、こうするものよと、家庭科の先生あたりが教えることを盲目的にうけとるだけで、なぜそうしなければならないのかという批判力は弱い。
 生活の歴史、衣食住、交際ごとなどの歴史を探ってみておると、国と国、時代と時代。また同じ国で同じ時代でも、そのなかに生きている人たちの主義主張などのちがいで、作法のスタイルが、がらりとちがっている場合があることが学ばしめられるのに。」

(武田砂鉄「解説 TPOをわきまえない」より)

「「TPOをわきまえろ」という教え、というか、注意・説教がある。Time(時間)、Place(場所)、Ocasion(場合)をわきまえろ、だそうだ。カンタンに納得するつもりはない。なぜって、わきまえる対象が明示されていないからだ。その都度、誰が出てくるかわからないのに、とにかくわきまえろと言ってくる。「時と場合による」という見事な牽制方法があるが、言葉の構成要素は概ね同じなのに、「TPOをわきまえろ」の返答としても、「時と場合による」は有効である。こちらは「時と場合による」と言っている主体がはっきりしている。私だ。でも、「TPOをわきまえろ」にはそれが見えない。誰なのだ。曖昧なものに屈するのはよろしくない。
 今和次郎はとにかくジャンパーを着続けた。妻や子供たちは「みっともないとか、失礼だとかいう世の中の通念をふりまわした」ものの、「慣れてしまうと小言も消えるだろうと待ったのである」。そもそもそれは、妻や子供たちの意見ではなく、「世の中の通念」なのだ。なぜ、自分が身に着けるものについて、一般論なるものを優先しなければいけないのか。冠婚葬祭にもジャンパーで出かけていった彼は、「婚儀屋や葬儀屋できめている形式的な装いをしなければならないという法はない筈だと考えているからだ。心のもち方からしぜんに湧く表情と言葉だけで済む筈のものだと決めているからだ」と言い切る。結婚式や葬式にはなんだかんだでそれなりの格好で出かけてしまう自分は、まだまだ自分の「心のもち方」を信じられていないようだ。情けない。
「日本人は、世間で行われている慣習というものに弱い。ああするものよ、こうするものよと、家庭科の先生あたりが教えることを盲目的にうけとるだけで、なぜそうしなければならないのかという批判力は弱い。」
 まったくだ。ずっと変わらない。なぜそうなっているかを問わずに、そういうことになっているかた、と納得してしまう。同調圧力という言葉は「同調」と「圧力」と分割して考えたほうがいいのかもしれない。なぜって、同調は圧力ではなく、同調はむしろ安心を与えてくれるものだと考える人が多い。

(…)

「物事を改良するということは、習慣との戦いだと私は考えている」とある。習慣は法規ではない。それなのに、。あたかも法規のように振りかざしてくる人や組織ってものがある。

(…)

本書は、服装の歴史を紐解きながら、そこに残る「こうすべき」「ああすべき」の前に立つ。立たれたほうは弱い。なぜって、理論なんてないからだ。だってこういうことになっているんだから、という反論はいつだって幼稚である。どこへでもジャンパーで出かける人もいれば、Tシャツで出かける人もいる。「みんなそうしている」をじっくり疑問視し、解体していく。半世紀以上前の分析がそのままに現在にも通用してしまうというのが、今和次郎の指摘の鋭さを立証している。今日も銭湯帰りのような格好であちこちへ出かけていく。TPO をわきまえるよりも、自分を信じたい。これでよかったのだ。」

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