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伊藤潤一郎 連載「投壜通信10.「あなた」とともに」(最終回)」(「群像 2023年08月号」)

☆mediopos-3162  2023.7.15

『群像』で連載の
伊藤潤一郎「投壜通信」の最終回
今回は「10.「あなた」とともに」

最終回はいつにもまして
激しいまでの「投壜通信」となっている

最後の言葉は
「ほかならぬあなたとともに、
地獄の外へと向かいたい」である

直接具体的に語られているわけではないが
伊藤氏は現在の世界を
「地獄のような世界」として描いている
伊藤氏は現在の状況に
「カタストロフ」を見ているのだろう

震災やコロナ禍や戦争において
政治やメディアをはじめ
アイヒマンのような「悪の凡庸さ」は
いまやあからさまなまでに日常化している

これまでにもさまざまなカタストロフはあっただろうが
現代のカタストロフは
そしてとくにこの日本の現在の状況(見えない戦争)は
ほとんど戯画的なまでの洗脳状態をつくりだしている
嘘と欺瞞と開き直りと権力の行使の日常化に対して
それに無関心なのか無知なのか
NON!はいまだあまりにも小さい
AIの奴隷になることさえ厭わないでいる
AIは道具でありそれに命ぜられるものではない

そんな「地獄」が
常態化しているなかにいるにもかかわらず
その「地獄」をそれなりに受け入れて
生きていくことはできるだろうが

それに対して
「地獄のなかで地獄でないもの」を問い
「地獄に溶け込むのとは別の仕方で
地獄に苦しめられないようにする」ための
ひとつの答えが「投壜通信」なのだという

「カタストロフという悲劇のなかでは、
言葉とそれを受け取る「あなた」だけが
一縷の希望として残る」からだ

ぼくもまた未知の「あなた」に向けて
「一縷の希望」として
こうして「投壜通信」を送りつづけている
ということでもあるのかもしれない

■伊藤潤一郎 連載「投壜通信 10.「あなた」とともに」(最終回)」
 (「群像 2023年 08 月号」講談社)

「あらゆる個々別々の戦争が、「戦争」という一語によって一括りにされてしまうように、そもそも言葉と具体的な出来事のあいだには、いかにしても埋めえない隔たりがある。それは、言葉と感覚のあいだの隔たりでもあるだろう(「赤」という言葉によっては、私の色彩体験は十全に言い表しえないように)。しかし、たとえ同じ言葉であったとしても、その言葉には発話者によって異なる「厚み」が存在しているのもたしかだ。「地震」という同じ言葉を口にするとしても、地震が頻繁に起こる土地に住むひとと地震のない土地に住むひととでは、言葉に置き換ええないものが言葉に「厚み」をもたらしている。言葉と物とのあいだにはけっしてゼロにはできない距離がありながら、なおも言葉は「厚み」というかたちで、その言葉を発するひとの感覚や感情を表すことができる。」

「震災以来、その後のコロナ禍もあいまって、カタストロフは断続的に論じられてきた。ジャン=ピエール・デュピュイやジャン=リュック・ナンシー、ミカエル・フッセルらのカタストロフ論が日本語に翻訳され、私自身も訳者として多少なりともその議論に関わってきたが、本連載のテーマである投壜通信もかたカタストロフに忠実であるならば、投壜通信とはカタストロフをくぐりぬけて届く言葉なのである。長田弘は、「書くというのは、二人称をつくりだす試み」であり、「目の前にいない人を、じぶんにとって無くてはならなぬ存在に変えてゆくこと」だと述べているが、危機のなかで発される言葉は、書くという行為のなかでもとりわけ目の前にいない「あなた」をなくてはならない存在として切実に求め、その存在を信じるだろう。ツェランが語っていたように、カタストロフという悲劇のなかでは、言葉とそれを受け取る「あなた」だけが一縷の希望として残るのだ。

 しかし、悲劇的状況のなかで海へと投げ込まれる言葉には、さらなる悲劇が待ち受けている可能性があるのではないか。

(・・・)

 岸辺にやっと漂着した手紙も、それを拾い上げる者の一存によって葬り去られたり都合よく利用されたりしてしまう。たしかにこのような事態は悲劇的であり、悲劇のうえにさらなる悲劇が重ねられてしまっているように思える。(・・・)デリダのエクリチュール論を想起するまでもなく。言語から誤配や彷徨の可能性を完全に排することはできない(そうであるがゆえに、逆に歪みも誤りもないコミュニケーションが理想として想起されるのだろう)。言語とは、どこまでも悲劇的なものであり、そのような悲劇と表裏一体のかたちでしか希望は存在しえない。「危機のあるところ救いとなるものもまた育つ」というヘルダーリンの詩句を好んだのはハイデガーだが。横領や隠匿の危機にさらされていない言語はなく、そのような危機が影のようにはりついたところでのみ、「あなた」によって特異な厚みをもった言葉は救い出されうるのである。

 とはいえ、(・・・)投壜通信のさらなる悲劇を考えることはできるだろう。それは、差出人の名の消滅という悲劇である。投壜通信の豊かさ————危険と一体となった豊かさ————の源泉が、拾い上げた手紙をほかならぬ私に宛てられたものとして受け取ってしまえるという錯覚やバグにある以上、壜に詰めて投げ込まれた手紙に名宛人が具体的に記されているかはさほど大きな問題ではない。しかし、反対に差出人の具体的な名がそこに書かれていなかったとしたら、その名が水に滲んで消え去っていたとしたらどうだろうか。(・・・)カタストロフをくぐり脱けた言葉に、もうひとつの悲劇、もうひとつのカタストロフがふりかかるとしらら、それは固有名の喪失をおいてほかにない。」

「たとえば石内都が広島平和記念資料館に保管されている遺品を撮影した有名な〈ひろしま〉シリーズのなかには、名札の縫いつけられた学生服や名前の書かれた靴下などを写した写真があるが、これらは名の痕跡のない他の作品と比べて、かつてそれを身につけていた者の姿をひときわ想起させる。交換可能な名こそが、交換不可能な個をより感じさせるのである。石内の写真が写し出す名を見ていると、「人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ」と述べ、個々の死が「名もなき人々」と集約されてしまうことに断固として反対した石原吉郎の姿が思いうかぶ。

(・・・)

 ひとりひとり名をもっていたはずの兵士を「無名戦士」と一括りにしてしまうことに対する石原の反撥の裏には、交換不可能なひとりの人間を不特定多数の集団に吸い上げるとき、個々の名は容易に失われてしまうという痛切な認識が存在している。」

「あらゆる「として」から解放された「存在」を表しうるのは、そのひとの名だけなのだ。国民として死ぬ、兵士として死ぬ、親として死ぬといったような役割において死ぬのではなく、ほかならぬそのひと————そのひとという存在————が死んだということは、名によってしか表しえない。それゆえに、投壜通信には名が記されるのであり、名の消滅こそが最大の悲劇なのである。」

「この一〇〇年ほどの歴史をふりかえっても、単独者の名を破壊する出来事はいくたびも起きてきた。なかには人間の力ではどうにも防ぎようのない自然災害もあるが、原爆の投下やホロコーストや植民地支配など、単独者の名の抹殺の多くは人間が引き起こしたものである。私たちが生きる世界の岸辺には名を失った無数の投壜通信は打ち上げられ、名を特定されぬままに特異な声を響かせているが、そのような悲劇を生み出したのはほかならぬ人間自身なのだ。単独者を単独者として遇しえない地獄のような歴史と現在を前にして、私たちは「いかにしてともに生きる」ことができるのだろうか。(・・・)じつのところ、もはや「共生」などとっくに権力者に都合のよい美名になりさがっているのかもしれない。嘘と欺瞞に満ちた言葉が飛び交い、無謬の「正しさ」にもとづく「論破」の快楽に人々が酔いしれ、剥き出しの敵対性しかないような世界で、「いかにしてともに生きるか」という問いには何の意味もないのかもしれない。」

「たとえ地獄のような世界だろうと、一度それを受け入れて慣れてしまえば、もはや地獄だとは感じられなくなる。二〇世紀の悲惨な出来事を前にして、哲学者や作家が論じてきたのは、まさに地獄へと溶け込んでいく人間の姿だった。アーレントがアイヒマンにみた「悪の凡庸さ」はいうまでもなく、ソ連からの亡命作家アレクサンドル・ジノヴィエフが西側によって見逃されているソ連社会の一面として語ったのも、地獄と一体化することで生き登る人々の姿だった。ジノヴィエフによれば、西側諸国はソ連には人権がないと盛んに批判したが、そんなものを必要とするのはソ連社会ではごく少数のひとだけであって、多くのひとにとっては低水準ではあれ安定した生活が保障されているよいうことが人権よりもよっぽど重要なのだという。東西冷戦が終結して三〇年以上が経過した現在、他者の人権にこれほどまで無関心な状況がくりかえされるのを見るにつけ、この指摘の射程がいかに広いか感じざるをえない。

 それでは、地獄のなかで地獄でないものとは何だろうか。地獄に溶け込むのとは別の仕方で地獄に苦しめられないようにするには、いったい何ためのスペースを残し、どのような術を身につけなければならないのだろうか。おそらく、投壜通信はそのひとつの答えとなるだろう。それも、固有名がしっかりと記された壜通信だ。私のもとに届いた手紙の差出人の名を尊重し、保持し、横断するとき、手紙は送り手の意図をはるかに超えて、思いもよらぬ意味を生み出すにちがいない。その特異な意味は、地獄の外へと通じる脱出口であるとともに、時間的にも空間的にもあらんかぎり遠く隔たった者のあいだにかそけき結びつきをなすだろう。あらゆる固定されたアイデンティティから遠く離れて、単独者と単独者が意味の余白と変容のみをやり取りする投壜通信の共同体こそ、地獄に抗してともに生きるあり方なのだ。誰でもよい、だがほかならぬあなたとともに、地獄の外へと向かいたい。」

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