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渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌 第六回 意味を抑えて 音を楽しめ」(「スピン6」)/谷川俊太郎詩集「ことばあそびうた」/那珂太郎詩集「音楽」

☆mediopos3362  2024.1.31

詩とはなにか

手元にあるだけでも詩集はたくさんあり
それなりに詩集を読んではきてはいるが
詩がなんなのかいまだによくわからずにいる

そして詩集をどんなに読んでも
読めているのか読めていないのかさえわからない

そのくせ
詩だとされているもの
詩だとして刊行されている詩集を読んで
こんなの詩じゃない!とか
勝手に思ったりもする

世の中に「詩集」として刊行されているものを
すべて詩だと見なすこともできるが
それだとなんでもありになってしまう
要は詩の垂れ流しである・・・とか

逆に詩としては書かれていない言葉が
これは素晴らしい詩だ!
といつまでも記憶に残ったりもする

じぶんなりにその言葉に
ポエジーを感じることができれば
それはその言葉の使われている場所は無関係で
電話帳だって詩の言葉として読むこともできる

以上は個人的に思いこんでいる
というか求めている詩のイメージを
勝手に投影しているだけだともいえるが
詩のとらえかたに
一律の答えはなさそうだということだろうか・・・

さて「スピン6」で連載されている
渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌」の第六回は
「意味を抑えて 音を楽しめ」

詩を読むときに必要なのは
その意味を理解するということだけではない
すべて無意味でいいというわけではないが
音を楽しむという詩の読み方もある

逆にいえば
定義されたような言葉の意味を
正確に読みとるだけが詩を読むことだとしたら
それはおそらく読み方としてはとても貧しい

どんな言葉にも
そのほとんどには「音」が伴っていて
その音を聞くとき
それが詩ではなくても
それぞれの音そしてその音の組み合わせから
さまざまな印象を受けることができる

ほとんど同じ意味の言葉の組み合わせでも
まったく違った印象さえ受けることもある
それがあるまとまった文章である場合
それを「文体」ということもできるかもしれない

もっとも「文体」というときには
音だけではなくそこにある言葉の呼吸のようなものを
ある種リズミカルに感じ取れる
といったほうがいいかもしれない

ただの説明文であったとしても
そこからポエジーを感じられることもあれば
ほとんど機械的にしか感じられないこともある
文体が貧しいということでもある

おそらくポエジーに近い文体をもつ書き手は
そこに「音「や「リズム」の要素を
音楽的に盛り込んでいたりする

さて渡辺氏の記事を読んでいて
意味を超えて音を楽しめる詩のことを思いだしたので
以下の引用で少しだけとりあげてみた
谷川俊太郎の「ことばあそびうた」からと
那珂太郎の「音楽」からである

意味と音が
仲良く喧嘩しながら
遊戯している

■渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌
      第六回 意味を抑えて 音を楽しめ」
 (「スピン6」河出書房新社 2023/12)
■谷川俊太郎詩集「ことばあそびうた」
 『新選 谷川俊太郎詩集』(思潮社 1977/8)
■那珂太郎詩集「音楽」
 『那珂太郎詩集』(現代詩文庫16 思潮社 1968/11)

*「渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌 第六回 意味を抑えて 音を楽しめ」〜「————詩ってなんだかむずかしい」より)

「「詩を読むことは難しい」
 よく聞く言葉だし、僕自身もずっと感じてきたことだ。
 実際、詩を読んでみると、よく分からないと感じることが少なくない。いったい何が言いたいのか、なんのことを詠んでいるのかすら分からない場合もある。
 どうすれば詩は分かるようになるのかと、意を決して詩人や詩の達人に問うと、「詩は感じるもの」(実際はもっと親切です)とか取り付く島もないことを言われてしまう。結果、詩の極意に辿り着くなんて、才能や詩心のない自分には無理なのかもしてないと絶望する・それでも往生際悪く、しばらくしてまたおずおずと詩集を繙くも、やっぱりわからない・・・・・・。始めに戻る。以上は、僕が長く築いてきた詩との軌跡だ。」

*「同上〜「詩とは言葉でできた芸術」より)

「詩とは言葉でできた芸術だ。
 (・・・)
 詩は芸術というたいそうなものの割に、使っている素材は、日々誰もが使い倒している子飛ばに過ぎないのだ。
 (・・・)
 だが、ここに気をつけるべき点がある。
 それは「意味が理解できる」ということ。これが詩の厄介な点だ。」

*「同上〜「意味が理解できることは詩のゴールなのか?」より)

「詩は言葉を用いた芸術である。だが、その言葉は、詩以外にも日常で使われている。その日常生活での言葉の使用用途の大半を占めるのは、意思伝達。つまり、何かの意味をやりとりするために用いる。だから、僕らは言葉を用いると、まずは意味を理解しようと躍起になってしまう。
 しかし、詩の場合、「言葉を味わう目的はそれだけではない。」

*「同上〜「意味を抑えて、音を楽しむ」より)

意味を考えるのを我慢しろと言われると難しいと感じるかもしれないが。そんなに難しいことではない。この点についてはポップスが大の得意だ。
 例えば、Adoの「唱」には「全土絢爛豪華 Attention 騒ごうか意思表示にもうじき衝撃の声高らかに堂々登板 もう伽藍洞は疾っく疾う淘汰」というフレーズが登場する。
 この言葉について厳密に意味をとるのは難しい。というか、意味を伝える以上に。音を揃えて歌唱性を上げることを狙っていると考えるべきだろう。実際僕らは、意味をされおいて、この歌の言葉の小気味よさを楽しんでいるはずだ。
 詩の場合も、まずはこうした音の心地よさを楽しむ。(もちろん意味を全く考えないということではない。)」

「詩を味わう際に、音に自覚的になってみよう。もちろん詩を読んでいる以上、誰でも音に触れているはずだが、(・・・)音の与える印象や音が生む効果について、徹底的に味わい、自分でも発音してみる。
 すると、言葉の魔力をもっと感じることができ、結果としてその意味内容もグッと迫ってくるはずだ。」

*(「同上〜「音の印象は意外と普遍的」より)

「音声が我々に与える印象は、ただの主観ではない。暦とした言語学の研究対象だ。専門的には「音象徴」などと呼ばれている。
 例えば、目の前に怪獣と黄色いネズミを並べられて、どちらが「ゴジラ」で、どちらが「ピカチュウ」でしょうか? と問われたとよう。ただし、運悪くあなたはゴジラもピカチュウも知らない。知らないキャラクターの名前なんて答えられるはずがない! と思うかもしれないが、少し考えてみよう。
「ゴジラ」の方がなんとなく強い感じがしないだろうか? 言われてみれば、怪獣は「ドルゴ」とか「ガラモン」とか、「g音」を持つものが多い。一方の「ピカチュウ」からは怖い印象も受けないし、特に「ピ」という音はちょっと可愛らしい。
 そう、答えはみなさんご存じの通り、怪獣の方が「ゴジラ」、ネズミが「ピカチュウ」だ。
 これはただのヤマカンではない。僕らは音から受け取るイメージをある程度共通している。だからこそクリエーターは怪獣には「g音」を使いがちだし、そして詩人はそうしたことに常人より遙かに鋭敏な人種だ。となれば、読者の側もせっかくの言葉の芸術から。音の効果を受け取らないのはもったいない。」

*(谷川俊太郎「ことばあそびうた」より)

「ののはな

 はなののののはな
 はなのななあに
 なずななのはな
 なもないのばな」

「かっぱ

 かっぱかっぱらった
 かっぱらっぱかっぱらった
 とってちってた

 かっぱなっぱかった
 かっぱなっぱいっぱかった
 かってきってくった」

「ばか

 はかかった
 ばかはかかった
 たかかった

 はかかんだ
 ばかはかかんだ
 かたかった

 はがかけた
 ばかはがかけた
 がったがた

 はかなんで
 ばかはかなくなった
 なんまいだ」

「だって

 ぶったって
 けったって
 いててのてって
 いってたって

 たってたって
 つったってたって
 つったって
 ないてたって

 いったって
 いっちゃったって
 どっかへ
 そっとでてったって

 いたって
 あったって
 ばったとって
 うってたって」

*(那珂太郎「音楽」より)

「秋の・・・

 秋のあらしのあしあとの曲りくねり
 うねりめぐる空気の蛇のきらめく肌
 にふぢいろにふるへるふしだらな伏
 し目の夫人ほうほうぼうぼう骨のホ
 ルンを吹き鳴らせばそれは空にむか
 って果てもなくふくらむ透明なトオ
 テムポオル唐草絡ますコリントの柱
 りらりらぷるんらりれろれるりらラ
 マの蘭塔より砂漠のサボテンよりは
 るかにはるかに晴れわたる白昼の闇
 を破って沸沸と噴きあげる白い噴水

    白いしぶきはしとどに濡らす
    ふくらむふたつの白桃のふる
    へを沙丘のしなやかな姿態の
    しらべを鴫立つ沢の茂みのし
    めり砂のしののめの桜貝の舌
    を白いしぐれはしめやかに濡
    らす虹いろに匂ふしぐれる女
    の如幻の肉のふるへるへそか
    ら颯と鳥がとび立つとほい空
    へ気遠くむなしく・・・」

「作品A

 燃えるみどりのみだれるうねりの
 みなみの雲の藻の髪のかなしみの
 梨の実のなみだの嵐の秋のあさの
 にほふ肌のはるかなハアプの痛み
 の耳かざりのきらめきの水の波紋
 の花びらのかさなりの遠い王朝の
 夢のゆらぎの憂愁の青ざめる蛍火
 のうつす観念の唐草模様の錦蛇の
 とぐろのとどろきのおどろきの黒
 のくちびるの莟みの罪の冷たさの
 さびしさのさざなみのなぎさの蛹」

*渡辺祐真「詩歌の楽園 地獄の詩歌 第六回 意味を抑えて 音を楽しめ」のなかで紹介されているAdo「唱」とその歌詞

◎【Ado「唱」

*以下、歌詞

[Intro]
Na-na, na-na-na
Ready for my show
Okay, たちまち独壇場
Listen, listen
Na-na, na-na-na
Ready for my show
傾け
振り切ろう (Giga) (TeddyLoid)

[Verse 1]
Ha! ヤーヤーヤーヤーヤー 唱タイム
天辺の御成り ほらおいで
宵をコンプリート オーライ hell yeah, yeah, yeah
だんだんノリノリで超簡単 brah, brah, brah! Pow
えも言われない ain't nobody stop (Ha, ha)

[Verse 2]
Oh, 全土絢爛豪華
Attention 騒ごうか
意思表示にもうじき衝撃の声高らか堂々登板
もう伽監洞は疾っくの疾う淘汰
Ay, 繚乱桜花 御出座しだ ah

[Pre-Chorus]
格好つけてるつもりは no, no
オートマティックに溢れちゃう本能
宣う断頭台の上で 燥げ華麗
Da-rat-a-tat-a, warning!

[Chorus]
Na-na, na-na-na
Ready for my show
バンザイ 遊ぶ気に寿
Shout it out, shout it out
Na-na, na-na-na
Ready for my show
はんなり 感情通りに八艘飛び
Shout it out, shout it out (Ooh)

[Post-Chorus]
(Hey, uh) 食らっちゃいな
(Hey, ha) Rat-tat-tat-tat-tat (Pull up)
(Hey uh, wa-wa-wa)
満開 総員一気にとびきり jump around

[Verse 3]
Look at me now
皮膚を破りそうな程に跳ねる心臓
くらい激情的仕様 (Exotic vox)
イニミニマニモ
ご来場からのご来光
かくれんぼしてるその気持ち解放
(理性アディオス)
しゃかりきじみちゃう (Ay, ay, ay, ay)

Verse 4]
蛇腹刃蛇尾 騙る二枚刃
野心家 嫉妬するようなジュース
たぶらかすな かっとなっちゃ嫌
カルマに至る前に揺蕩うわ
蛇腹刃蛇尾 騙る二枚刃
野心家 嫉妬するようなジュース
たぶらかすな かっとなっちゃ嫌
十色のバタフライ (No escape)

[Bridge]
ご存じの通り 騒々しい鼓動に
絆されてもう止まれない
衝動に塗装し描いた daybreak
肺貫通低音狂

[Pre-Chorus]
Na-na, na-na-na
Ready for my show
異例の危険度 比類なき活気充満
Na-na, na-na-na
Ready for my show
いちかばちか 鳴呼

[Chorus]
Na-na, na-na-na
Ready for my show
バンザイ 遊ぶ気に寿
Shout it out, shout it out
Na-na, na-na-na
Ready for my show
喝采巻き起こすために stay
一切合切忘れて shout it out

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