見出し画像

柄谷行人『力と交換様式』/エマニュエル・トッド・片山杜秀・佐藤優 『トッド人類史入門/西洋の没落』/柄谷行人ロングインタビュー/大澤真幸「柄谷行人はすべてを語った」/エルンスト・ブロッホ『キリスト教の中の無神論』

☆mediopos-3085  2023.4.29

「〈世界戦争〉が迫っている。」
あるいは「既に起こっている」(柄谷行人)

そのことを予見していた数少ない人のひとりが
エマニュエル・トッドだと柄谷行人は
『力と交換様式』に関するインタビューで語っている

佐藤優もまた『トッド人類史入門』において
「二人の時代認識が驚くほど似ている」という
それは「危機意識」であり
それが「宗教と切り離せない」ということにおいてだ

人類史においては
「物理的ではない何かの力」
「見えない形だけれど、この社会の中で」
「霊的な力」が確かに働いているのだという

柄谷行人は『世界史の構造』(二〇一〇年)において
生産様式から交換様式への移行を論じたが
『力と交換様式』(二〇二二年)では
次の四つの交換様式から生まれる力をもとに
人類史の歩みを再考している

 A 互酬(贈与と返礼)
 B 服従と保護(略取と再配分)
 C 商品交換(貨幣と商品)
 D Aの高次元での回復

今日における環境危機は
「人間社会における交換様式Cの浸透が、
人間と自然の関係を変えてしまったことの所産」であり
「交換様式Cから生じた物神は、
人間と人間の関係のみならず、
人間と自然との関係をも歪めてしま」う
それが「資本=ネーション=国家の間の対立をもたら」し
それが「戦争の危機」へとつながる

交換様式のBやCを揚棄することで
その危機を回避しようとしても
揚棄すること自体が
BやCを回復させてしまうため
可能なのは交換様式Aの「互酬」に基づいて
社会を形成することだけなのである

しかしそれはローカルレベルでしか可能ではない
BやCの力のによってその拡大は抑止されてしまうからだ
それを可能にするのは
「高次元でのAの回復」としてのDの力のみ

そのDはどのようにすれば可能となるのだろうか

それについて柄谷行人は
「交換様式Dは、人間の認識と力で達成できるものではないし、
それに向けて何かするべきでもない」という
社会変革を目指そうとすれば
むしろBやCを回復させてしまうことになる

エルンスト・ブロッホのことばでいえば
その「希望」は「向こうからやって来る」

それはマックス・ヴェーバーであれば宗教であり
フロイトであれば無意識から来る力だともいうが
そうした見えないところで働いている「力」
「交換様式Dという形態で霊という形をとって宗教」があり
「その生命力を強化すること」が重要なのだ

「換様式Dという形態で霊という形をとって宗教は生きており、
その生命力を強化することが
民族・国家・資本のくびきからわれわれが抜け出す上で
決定的な重要性を持つ」(佐藤優)

『力と交換様式』ではそうしたところまでしか語られていないが
エマニュエル・トッドも語っているように
「いま最も避けるべきは、
迂闊に戦争や紛争にコミットすること」であり
今まさに訪れている危機のなかでは
「いったん立ち止ま」り
「みずからに「考える時間」を与えること」
「とにかく「何もしないこと」」だ

「Aの高次元での回復」のために
ああすればいいこうすればいい
ではなく
見えない「力」に気づき
それを注視することからはじめること

そしてさまざまに与えられる性急な「力」を
意識化し可能なかぎりそれを読みとり
それに抵抗していくことだろう
そうすることで見えてくるものもあるはずだから

■エマニュエル・トッド・片山杜秀・佐藤優
 『トッド人類史入門/西洋の没落』 (文春新書 2023/3)
■柄谷行人『力と交換様式』(岩波書店 2022/10)
■柄谷行人ロングインタビュー<モース·ホッブズ·マルクス>
 『力と交換様式』(岩波書店)刊行を機に
 (『週刊読書人』2022年11月11日号【特集】)
■大澤真幸「柄谷行人はすべてを語った」
 (『文學界』2023年2月号 文藝春秋 特集『力と交換様式』を読む)
■エルンスト・ブロッホ(竹内豊治/高尾利数訳)
 『キリスト教の中の無神論〈上〉〈下〉』(法政大学出版局 1975/12&1979/3))

(『トッド人類史入門』〜佐藤優「はじめに————思想の地下水脈」より)

「思想には地下水脈があるように思えてならない。まったく別の文化圏で、別の専門分野を研究していても、地面を掘り下げていくうちに共通の地下水脈に至ることがある。このような地下水脈に至る力がある本を古典と呼ぶ。トッド氏は、現存の知識人であるが、その著作は時代をとらえるために不可欠な古典になっているのである。
 現代の古典作家として、エマニュエル・トッド氏と共に私の頭に浮かぶのが柄谷行人氏だ。二人の間に直接的接点はないと思う。しかし、トッド氏の『吾々はどこから来て、今どこにいるのか』(文藝春秋、二〇二二年)と柄谷氏の『力と交換様式』(岩波書店、二〇二三年)を読み比べると、二人の時代認識が驚くほど似ていることに気付く。
 まず指摘されるのが、われわれが世界戦争直前の状況に立たされているという危機意識だ。次のこの危機意識が宗教と切り離せないということだ。もっともトッド氏は、「ゾンビ・カトリシズム」「ゾンビ・プロテスタンティズム」「ゾンビ・儒教」のような表現からもわかるように宗教は死につつあるが死に果てていないという認識だ。対して柄谷氏は、交換様式Dという形態で霊という形をとって宗教は生きており、その生命力を強化することが民族・国家・資本のくびきからわれわれが抜け出す上で決定的な重要性を持つと考えている。」

(『トッド人類史入門』〜E・トッド「4 水戸で世界と日本を考える」より)

「現在は、日本だけでなく、どの国も方向性を見失い、どの国の人々も将来に不安を感じています。フランスについては、あまりに多くの問題を抱えているので一つ一つ数えあがることは控えます。イギリスに至っては、パニックに陥っていると言えるでしょう。ドイツも、アメリカが本気で自分たちを潰しにかかっていると恐れを抱いています。そのアメリカにしても、死亡率が上昇し、平均寿命も低下し、社会が不安定化しています。
 西洋全体が大きな危機に直面しています。対露制裁は、ドル基軸体制、とくにSWIFTなどの国際金融決済システムから排除することで、ロシアの息の根を止めるためのものでした。ところが、予想に反してロシア経済は、驚くげき耐久力を見せました。もしロシアがこのまま耐え抜けば、それ事態がドル基軸体制にとってダメージとなります。そしてロシア、中国、インドが中心となり、さらにサウジアラビアなども加わって、対露制裁に参加していない世界の大半の国々を巻き込んで、国際的な経済・金融システムが再編されれば、ドル基軸体制は完全に崩壊することになります。
 ここで大事なのは、みずからに「考える時間」を与えることです。そして「考える時間」を得るには、何もしないこと、いったん立ち止まることが必要です。いま最も避けるべきは、迂闊に戦争や紛争にコミットすることです。流動的な状況で、見通しが立たないのであればこそ、何とか堪えて、立ち止まって、「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」を冷静に考えるのです。
 日本では「中国の脅威」が叫ばれ、どこでも同じように「戦争の再来」が言われています。各国とも、よく考えずに軽率な行動に走ってしまう恐れが高まっているのです。ここで最悪なのは、「混迷する現状」を打開する「解決策」として、戦争や紛争にコミットすることです。私が恐れているのは、無意識のうちに、「戦争」が、方向性を見失った人々の人生に「意味」を与えかねないことです。
 とにかく「何もしないこと」。「歴史が加速している」としきりに言われていますが、これをナイーブに信じてはいけません。とくに米国からこういう声が聞こえてくるわけですが、これに抵抗しなければいけません。」

(「柄谷行人『力と交換様式』」〜「序論」より)

「私は『世界史の構造』(岩波書店、二〇一〇)で、「生産様式から交換様式へ」の移行を提唱した。本書はそれを再考するものである。簡単にいうと、マルクス主義の標準的な理論では、社会構成体の歴史が、建築的なメタファーにもとづいて考えられた。つまり、生産様式が経済的なベース(土台)にあり、政治的・観念的な上部構造がそれによって規定されているということになっている。私は、社会構成体の歴史が経済的ベースによって決定されているということには反対ではないが、ただ、そのベースは生産様式だけではなく、むしろ交換様式にあると考えたのである。交換様式には次の四つがある。

  A 互酬(贈与と返礼)
  B 服従と保護(略取と再配分)
  C 商品交換(貨幣と商品)
  D Aの高次元での回復」

「われわれが今日見出すような環境危機は、人間社会における交換様式Cの浸透が、人間と自然の関係を変えてしまったことの所産である。それによって、それまで〝他者〟であった自然がたんなる物的対象と化した。このように、交換様式Cから生じた物神は、人間と人間の関係のみならず、人間と自然との関係をも歪めてしまう。のみならず、後者から生じた問題が、人間と人間の関係をさらに歪めるものとなる。すなわち、それは資本=ネーション=国家の間の対立をもたらす。つまり、戦争の危機が迫りつつある。」

(「柄谷行人『力と交換様式』」〜「第4部 第3章 社会主義の科学3」より)

「国家や資本を揚棄すること、すなわち、交換様式でいえばBやCを揚棄することはできないのだろうか。できない。というのは、揚棄しようとすること自体が、それらを回復させてしまうからだ。唯一可能なのは、Aにもとづく社会を形成することである。が、それはローカルにとどまる。BやCの力に抑え込まれ、広がるとができないからだ。ゆえに、それを可能にするのは、高次元でのAの回復、すなわちDの力によってのみである。
 ところがDは、Aとは違って、人が願望し、あるいは企画することによって実現するようなものではない。それはいわば〝向こうから〟来るのだ。この問題は、別に新しいものではない。古来、神学的な問題、すなわち「終末」や「反復」の問題として語られてきたことと相似するものである。つまり、「終末」とは。Aの〝反復〟、いいかえれば、Aの〝高次元での回復〟としてDが到来する、ということを意味する。
 マルクスはこの問題を、神を持ち出さずに考えようとしたといってよい。しかし、彼が初めてそうしたのではない。マルクス以前にも、それを考えた者がいた。カントである。彼は社会の歴史を、自然の「隠微な計画」として見た。つまりそこに、人間でも神でもない何かの働きを見出したのである。そして、彼はそれを自然と呼んだ。だが、そこに謎が残ったままであった。
 私の考えでは、自然の「隠微な計画」とは交換様式Dの働きを意味する。たとえば、カントが「永遠平和のために」で提起した「世界共和国」の構想は、人間が考案したものにすぎないように見える。その意味で、交換様式Aと類似する。したがって、無力である。ゆえに彼の提案した国際連合は、以来二世紀にわたって、つねに軽視されてきた。しかしそれは、消えることなく回帰してきた。今後にもあらためて回帰するだろう。そして、そのときそれは、AというよりもDとして現れる、といってよい。
 そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、〝Aの高次元での回復〟としてのDが必ず到来する、と。」

(「柄谷行人ロングインタビュー」より)

「七月の東大の講演でもいったことですが(『文學界』一〇月号所収「『力と交換様式』をめぐって」)、ひとつの誤解があった。それは今でも同じです。何かというと、交換様式Dに対する受け止め方に関して、少なからずの人の中に誤解があったということです。交換様式Aの高次元での回復として考えられる交換様式Dを理想的な状態だとすると、それを目指していけばよいと見えてしまった。そしてDを目指すならば、自分たちの意志でやっていこう、皆さん、頑張りましょうと、普通ならばそういう方向に行きます。社会運動におけるアジテーションのようなものです。結果、現在あるいは将来的にDを実現させることができると考える。
 しかし、決してそういうことを意図したのではなかった。交換様式Dは、人間の認識と力で達成できるものではないし、それに向けて何かするべきでもない。自然に任せて放っておけばいいわけです。ただ実際には、社会変革を目指す多くの人たちは、国家を使おうとします。交換様式でいえばBですね。放っておいたら負けてしまう、自分たちが国家権力を持たなければ抑えられてしまうと考える。極端な例がレーニン主義です。負ける前に、先に権力を握った後に国家を揚棄する。結果どうなったか。国家の揚棄どころか、かつてない強い国家を作り出してしまった。それがソヴィエト連邦です。
 その後、ソ連邦の崩壊があり、東西冷戦の時代が終わりました。一九九一年のことです。あのとき、「歴史の終焉」ということが盛んにいわれていました。民主主義と自由主義経済が勝利し、世界平和と安定が訪れる。今後、世界的な戦争や歴史を変える大事件も起こることはない。そんなことがいわれた時代でした。ひとつの歴史が終わったように見えたわけです。しかし、終わるどころの話ではなかった。
 民主主義と自由主義経済によって歴史の終焉となるのか。一切なりません。国家は残ります。資本ももちろん残る。何も変わることはない。その証拠は、現在の世界情勢を見ればよくわかります。〈世界戦争〉が迫っている。既に起こっているといっていいかもしれません。このことを予見していた人は、それほど多くはない。私が知る限りでは、エマニュエル・トッドがそうだったと思います。ただ、トッドも難しい問題を避けながら語っている。彼は、婚姻形態や家族制度の次元から世界の歴史を見ていきますが、そこで、どのような力が働いているのかということについては、説明していません。物理的ではない何かの力、それは見えない形だけれど、この社会の中で確かに働いている。「霊的な力」といってもいい。そのことを、今度の本では主に論じています。
 そうした力に注目したのが、たとえばマックス・ヴェーバーです。マルクス主義における生産様式に基づく決定論、つまり経済的下部構造が上部構造を決定するという理論に対して、その考え方には限界があると批判した。経済的下部構造ではない力の働きがあり、それが資本主義の発達に寄与した。ヴェーバーによれば、宗教的観念である。また、フロイトもマルクス主義の考え方を批判したひとりです。経済的な力ではなく、フロイト的にいえば、無意識からくる力がある。人間が意識していない、あるいは人間が考えたものではないような力が働いていることに、フロイトは注目しようとしや。もちろん彼らも経済的下部構造の決定論を認めている。一定の生産力、生産関係が発達してくると、それが社会を規制する。そのことを当然認めています。しかし、それだけでは説明できに何かがある。ヴェーバーであれば宗教であり、フロイトであれば無意識から来る力であって、そこから政治経済的な次元の秘密を探ろうとしていた。」

(大澤真幸「柄谷行人はすべてを語った」〜2「「希望」(ブロッホ)と「神的暴力」(ベンヤミン)」より)

「第四部の————それゆえ本書全体の————最終章は、マルクスとエンゲルスの遺した理論的可能性を読み取ろうとした人たちがいた、ということを示そうとする。
 たとえば、エルンスト・ブロッホは、エンゲルスの『ドイツ農民戦争』以来の関心を受け継ごうとした。ブロッホは、資本と国家を揚棄する可能性を「希望」と名づけた。希望と願望は違う。願望は、人の主観によって招来するものだ。それに対してブロッホの「希望」は、「中断された未成のもの」が、おのずから回帰することである。柄谷によると、これは、キルケゴールの「反復」と同じものだ。「ほんとうの反復は、前方にむかって想起するのである」。「希望」とは、人が本来に意識的に望むものではなく、また実現すべき何かでもない。それは、いやおうなく。向こうから来るのだ。
 ブロッホは、キリスト教神学と唯物論とを結び付けようとした。「無神論者のみがよきキリスト教徒たりうる。キリスト教徒のみがよき無神論者たりうる」(『キリスト教の中の無神論』)。実際、ブロッホの思想は、キリスト教神学の刷新につながった(ユルゲン・モルトマン『希望の進学』)。しかし、ブロッホ自死名神学に向かったわけではなく、結局、彼が言おうとしたことは曖昧なままだ。
 同じことは、ブロッホの友人のベンヤミンにも言える。ベンヤミンは『暴力批判論』で、「神話的暴力」と「神的暴力」という対立を提起した。この区別は、ジョルジュ・ソレルが「暴力論」で導入したforce(国家による力)/violence(国家に対抗する力)の区別に基づいている。forceが神話的暴力、violenceが神的暴力である。しかしこのような区別は謎めいており、両義的だ。
 だが、この謎は溶ける————と柄谷は書く。「〝交換〟が異なれば、異なる〝力〟が生じる」という洞察を補助線にすれば、である。たとえば、ベンヤミンの神話的暴力は、交換様式Dから生じる力である。ブロッホの「希望」とは、「中断され、おしとどめられている本来の道」であり、それを「反復」させるのは交換様式Dから生じる力である。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?