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パスカル・キニャール『ダンスの起源』

☆mediopos2632  2022.1.30

本書は女性舞踏家であるカルロッタ池田の
パフォーマンス公演「ギリシア悲劇メディア」のための
台本として書かれたテクストをもとにしながら
パスカル・キニャール自身の体験と
「母と子」や「性」をめぐる古今東西の神話や伝承に対する
著者の考察が織り交ぜられた「闇の舞踊論」である

《子殺し》のイメージで知られる「メディア」をもとに
ちょうど先日このmedioposでもとりあげた
田中泯をはじめとした土方巽・大野一雄などの
いわば「暗黒舞踏」なども援用し
誕生以前の身体のダンスまで遡りながら
「「わたし」以前の、わたしならざるわたしの
身体の回復を目指す、闇の言葉のダンス」となっている

ダンスの歴史には
「十九世紀中頃に誕生したロマンティック・バレエ」と
「「一九四五年以降」に生まれた舞踏」という
〈上〉と〈下〉反対の方向を向いた二つがあるとしているが

パスカル・キニャールが本書で
「ダンスの起源」として舞踏=ダンス論を展開しているのは
もちろん〈下〉の方向を向いているダンスである

たしかに「バレエ」は
重力を克服しようとするように上へ上へと跳躍し
「暗黒舞踏」は
大地に向かうように下へ下へと這う

キニャールはダンス全体の起源に
「決定的に失われてしまったがゆえ、
わたしたちが接近不可能であるはずの胎内の、
そして誕生の経験を見て」
その「臨界的な経験へ」と迫ろうとしているが
そうした失われたダンスへと迫ろうとするのが
「暗黒舞踏」的な〈下〉へのダンスだという

ダンスは言語に属するものではなく
ダンスと音楽の世界が「最初の世界」であり
言葉の世界は「第二の世界」であるとしているが

その「最初の世界」である
言語によって「「わたし」という主体が形成される前の
身体のダンスへと迫ろうという不可能性の試みが
(言語以前のものに言語で迫ろうとする不可能性)
本書で展開されている舞踏=ダンス論であるといえる

「最初の世界」のダンスは
生まれてくるとともに失われるがゆえに
「第二の世界」のダンスは最初のダンスを
言語的な身体性をもったものへと
芸術的に制度化していくのだろうが
そのことで身体はなにかを決定的に失ってしまうことになる

ある意味でこの試みは
言語をもって言語を超えようとし
身体をもって身体を超えようとする
大地性への脱自的な跳躍であるともいえるのだろう
そうすることで
「わたし」以前の「わたし」へと迫ろうとする

■パスカル・キニャール
 (桑田光平+堀切克洋+パトリック・ドゥヴォス訳)
 『ダンスの起源』
 (パスカル・キニャール・コレクション 水声社 2021/12)

(パスカル・キニャール『ダンスの起源』〜「帯」より)

「ギリシャ神話の「メディア」をもとに、暗黒舞踏から、誕生以前の身体のダンスまで遡る。ゴンクール賞作家であり、数々の戯曲を手がけるキャニャールによる、闇の部討論。」
「《子殺し》のイメージで知られる「メディア」から始まり、暗黒舞踏の逸脱的な身ぶりによって、「わたし」以前の、わたしならざるわたしの身体の回復を目指す、闇の言葉のダンス。」

(「訳者あとがき」より)

「本書は(・・・)フランスを中心に活動し、二〇一四年に他界した女性舞踏家、カルロッタ池田(一九四一 − 二〇一四年)とのパフォーマンス公演『ギリシア悲劇 メディア』のための台本として書かれたテクスト(・・・)を「母胎」としながら、縦糸としてキニャール自身の(とりわけ幼年期の)体験を、横糸として「母と子」や「性」をめぐる古今東西の神話や伝承、そしてそれらに対する著者の考察を紡ぎながら構成されている一書である。」

「太古から現代に至るまでの「ダンス」の最大の敵は、本書で繰り返し論じられているように、(空気中においてしか成立しない)言語である。羊水のなかの数ヶ月間から生誕に至るまでの経験は、言語を通じて、どこまでも失われつづけていく。言語に先立つのは「沈黙」であり、ダンスは言語に属するものではない、と著者は断言する。「わたし」という主体が形成される以前の、わたしならざるわたしの身体を−−−−しかし、はたしてそれは本当に「身体」なのだろうか−−−−「回復」しようと努めるのが、かれの舞踏=ダンス論であり、それに身体ではなく、言語によって迫ろうとする不可能な試みこそが、この一冊なのである。
 ダンスの歴史を少し思い起こせば、「一九四五年以降(ポスト)」に生まれた舞踏−−−−「真っ白な裸の幼虫」が地面を這いつくばるような踊り−−−−は、十九世紀中頃に誕生したロマンティック・バレエ−−−−妖精のように、重力に逆らうような飛翔を志向する踊り−−−−と明らかに反対の方向を向いている。〈上〉と〈下〉は、(・・・)ダンスを生み出す最も重要な力線であるのだが、キニャールは舞踏ではなくダンス全体の起源に、決定的に失われてしまったがゆえ、わたしたちが接近不可能であるはずの胎内の、そして誕生の経験を見ている。いわば、人間の人間性を再検討するべく、その準備段階の独自で唯一的な−−−−〈内〉と〈外〉の−−−−臨界的な経験へと迫ろうとするのだ。キニャールにおける「起源」は、このような欠落のイメージそのものであり、その欠如を埋めることこそ、テキストが紡がれる必然性へとつながっている。」

(パスカル・キニャール『ダンスの起源 』〜「第六章 失われたダンス」より)

「思春期の少年たちが声変わりする(声が、身体の奥底で他のものへと変化し、そして突然、低くなってしまう)と失われる声があるのと同じで、子供が産まれる(産み落とされ、誕生し、方向を見失い、穢され、投げ出され、弱々しく泣き出す)と失われるダンスというものがある。

 失われた声の儀式のことを、ギリシアでは、悲劇と呼ぶ。
 失われた踊りの儀式のことを、日本語では、暗黒舞踏と呼ぶ。」

「起源における人間はことごとく、地面の上で不器用である。(ダンサーはことごとく臆病なのだ。)われわれは、起源において脆弱である。われわれは、誰しもがひとりで立ちあがり、一日のうちなるべく多くの時間を立っていようと、立ち続けようとする。
 男性も女性もことごとく、自分の手脚の弱々しさ、不確かさ、無力さといった不意に訪れる揺籃期を前に、ひどく悔しがる。
(・・・)
 母親の子宮のなかでしていたようには、もう手脚を自由に動かすことはもうできない。だからこそ、身体の感覚(自己受容性感覚)が、かつての力を保持したいと願うのだろう。」

「田中[泯](東京湾の地下の黒い床の上を這うように進む真っ白な裸の幼虫)は、こんなふうに書いている−−−−わたしの踊りは、名前をもっていません。踊りは、個人に属するものではありません。世界は有限ではありません。人間が空間の中に現れ出る瞬間に先立つ衝動に、わたしが息を合わせるのです。二つの踊りが存在します。かつてのわたしは、死者たちのために踊っていたので、頭をゆらゆらと動かしていました。でも今は、地面の近くを、ゆっくり、とてもゆっくり、裸で踊っています。この世界に入りこむべき、母親の体によって投げ出された先の地面の上で何とか動こうと、土の上で何とか前へ進もうと、初めての空気のなかで何とか息をしようと、這っているのです。

 ふたつの王国が存在するように、ふたつのダンスが存在する。
 第一のダンスは生誕に先立ち、誕生とともに落とされる。
 第二のダンスは、羊膜の水のなかで失われてしまった泳ぎ方、生誕の苦しみのはじまりでその膜が失われるときに失われてしまった伸縮の仕方を、空気中でもできるように甦らせ、演じ、真似て、移し換え、再計算し、表現してみせる。
 ヨーロッパ的な芸術の制度について論じるとき、〈ダンス〉、〈マイム〉、〈音楽〉、〈仮面劇〉、〈悲劇〉を区別することが、わたしにはできなくなってしまった。(・・・)
 いまや、われわれの伝統を作り上げてきた芸術の制度に別れを告げなければならないと思っている。」

(パスカル・キニャール『ダンスの起源 』〜「第十一章 破滅点」より)

「芸術は、脱皮である。
 生命の誕生は、わけても抜群の脱皮である。
 脱皮に際し、身体はそれまで自身を包み込んでいたものを離れる。
 土方自身、こう書いている−−−−舞踏家は、洞穴から外に出て光のなかに戻る瞬間の先史絵画であると。
 人間の発達においいぇ。すべての変化(メタモルフォーズ)の基準となるのは、誕生という脱皮である。大地に触れたことが一度もない容器の外に完全に出ること、それは引き籠もっていた身体の動きに対して狭くなりすぎたために引き起こされ、まったく知らない要素のなかに産み落とされること−−−−陥れられること自体をしたないという無知に陥る。
 未知の世界への純粋な出発。」

(パスカル・キニャール『ダンスの起源 』〜「第十八章 夜の猛禽」より)

「言葉の世界(第二の世界)は振り返り、ダンスと音楽の世界(最初の世界)が現れるのを見る。
 現在の世界は振り返り、そこに古代世界が回帰するのを見る。素晴らしき、液体の、闇に覆われた、幻想的な、熱く、衣装をまとった、皮と毛皮に厚く覆われた古代世界の回帰を。」

「ダンスは過去へは足を踏み入れない。ダンスとは完全に往古に属するものだ。ダンスは溢れ出る。往古から溢れ出たダンスはどこにも到達することはない。ダンスは過去も顔も母も言語も社会も必要としない。
 ダンスは畏怖にとどまり続ける、ダンスは純粋な状態変化の中で持続する。ダンスは前進するのではない、溢れ出るのだ。
 ダンスは少しの恐れもなく平穏から去る。」

「それは現実への扉だ。
 即興が即興をおこなう点だ。
 誕生の、調和からの逸脱の、トラウマの、恥辱の、畏怖の、トランスの、脱−自の、捕捉からの離脱の点である。」

「ダンスの場所とはひとつの場所を意味しない。舞台は舞台上には開かれない。ダンスの場所とは、時間のことだ。それは影から光へと移りゆく時間である。
 この時間は誕生と再生の時間である。状態が変わる時間。
 舞台とは、時間のなかでためらう時間の点である。
 あるいはこの点は、最初の日の光が放つ方向を失った黎明の前夜である。あるいは、死に先立つ瞬間、方向を失った黄昏、だんだんと最後に近づく、お前は何者かという呼びかけなのだ。」

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