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安西 徹雄『彼方からの声―演劇・祭祀・宇宙』/坂部 恵『かたり』

☆mediopos-2534  2021.10.24

松岡和子個人全訳の
シェイクスピア全集全33巻(ちくま文庫)が
25年かけて完結したというので
かぎられたものしか読めてはいないけれど
シェイクスピアに関連したものを
再読してみたりもしている

シェイクスピアが引退前に書いた作品
『テンペスト』のプロスペローについて
魔術師がらみのテーマで書いてみようとも思ったが
(それについてはあらためて)

今回は
シェイクスピアの研究・翻訳・演出家でもあった
安西徹雄の『彼方からの声』から
「シェイクスピアと『語り』」に関するところが
坂部恵の「かたり」について
ふれていたのでそのテーマについてのメモなど

言語行為には
水平でのレベルと
垂直でのレベル
そして両者が交わるレベルがある

わたしたちは「はなす」が
それはひとからひとへの
水平的な発話行為である

彼方からの声は
「告げる」「宣る」
そして
彼方への声は
「うたう」「いのる」が
それは上から下への
あるいは下から上への
垂直的な発話行為である

そしてそのあいだで
わたしたちは「かたる」がそれは
「現実を超えた、何らかの意味で異次元の世界と、
日常的な現実の時空とを結び、繋ぐ発話行為」である

特に「劇」における俳優は
「二つの、別の次元属する世界の交錯を身をもって媒介し、
みずからの精神と身体のうちに成立させ」ているが

あらためて言語と人間との関わりを考えてみると
どのレベルでの発話行為にしても
わたしたちはそれぞれのレベルにおいて
それらの言葉の依代になっているのではないだろうか

そしてそれぞれのレベルにおいて
私たちに必要な透明度が異なっている

「はなす」ときにも
わたしたちは多く言葉に使われているが
そこでは日常レベルの意識が強く働いている

彼方からの「告げる」「宣る」言葉には
わたしたちの日常意識は透明である必要がある
彼方へと「うたう」「いのる」ときにも
透明度がなければそれらの言葉は届かない

その間でわたしたちは
演劇的なありようを通じて
両者をつなぎむすぶために「かたる」

シェイクスピアの時代の演劇が
かつて道化を用いていたのも
その存在はある意味で
水平と垂直をむすぶ役割でもあったからだろう
「魔術師」や「魔女」の存在もまた同様である

■安西 徹雄『彼方からの声―演劇・祭祀・宇宙』
 (筑摩書房 2004/1)
■坂部 恵『かたり』
 (弘文堂思想選書 弘文堂 1990/11)

(安西 徹雄『彼方からの声』〜「シェイクスピアと『語り』/演出の経験を手がかりとして」より)

「「語り」の問題を理念的に考えるにあたって、私がもっとも大きな示唆を与えられたのは、坂部恵教授の『かたり』という書物でした。坂部さんはまず、「話す」と「語る」、そして「告げる」や「宣(の)る」との根本的な差異を指摘します。つまり、「話す」という行為が、日常的な現実の示現で、人と人との間におこなわれる「水平的言語活動」であるのにたいして。「告げる」「宣る」という言語行為は、「話す」の対極にある。というのも、例えば神仏の「お告げ」、あるいは「祝詞(のりと)」「詔勅(みことのり)」といった用法からも明らかなとおり、「告げる」「宣る」というのは、究極的には神と人との間に生じる「垂直的」言語活動であるからです。
 さて、それなら「語り」はどうであるかと言えば、今言う水平と垂直の二つの軸の相交わる場で成立する発話であって、「告げる」や「宣る」とは違い、あくまで人が人に語るものでありながら、他方「話す」とは対照的に、何らかの意味で日常の次元を超えた、超越的な契機を孕んでいなくては成立しない。つまり「語り」とは、現実を超えた、何らかの意味で異次元の世界と、日常的な現実の時空とを結び、繋ぐ発話行為である。そして「語り手」とは、このような交信の生起する場として、人として人に語りかける者であるながら、同時にまた、何らかの超越的なるもの−−−−その極相においては、神という形をとるでしょうが、そのいわば依代(よりしろ)となり、異次元の言葉を人に宣べ告げる者ともなるわけです。
 けれども、もし、「語り」や「語り手」の存在のありようを、このように捉えることができるとすれば、これは実は、劇そのものや、俳優の存在のありようそのままにほかならないことに、思い当たるのではないでしょうか。なぜなら、劇が上演される時、現実にはどこにも存在するはずのない虚構の世界が、劇場という現実の時空の只中に存在し始め、観客の日常的経験の只中に、異次元の世界が今現に侵入し、占有し始めるからです。そして、この二つの、別の次元属する世界の交錯を身をもって媒介し、みずからの精神と身体のうちに成立させるのが、まさに俳優というものであり、彼はこの時、現実の生身の人間でありながら、同時に、非有の世界を現実に生きる存在ともなる。つまり非有の世界は、いわば彼に宅身するのであって、彼はこの時、「語り手」同様、現実を超えた異次元世界の依り憑く依代となると言うことができるでしょう。
 このような観点を導入する時、「劇」と「語り」との関係について、新しい見方が開けてくるのではないでしょうか。「劇」と「語り」は(・・・)、必ずしも対極にあるのではなく、むしろ互いに連続し、重なりあう部分があるのであって、お互い同根であり、相同の関係にあると考えることができるのではないかと思うのです。」

(坂部 恵『かたり』より)

「おなじく一つの言語行為を意味するとはいえ、〈いう〉とか〈口にする〉とかいった行為と対比してみた場合、〈かたる〉も〈はなす〉も、ひとしく、たんなる片言隻語を口にすることにとどまらず、通常一つ以上の文にわたる起承転結をもったひとまとまりの発語行為ないし発話行為を意味する点で共通の性格をもつ、しかしながら、さらに考えてみると、両者のあいだには、あきらかにいわば発話行為のレベルの差といったものがみとめられる。一言でいって、この二つの言語行為をくらべた場合、〈はなし〉のほうが、より素朴、直接的であり、それに対して、〈かたり〉のほうは、より統合、反省、屈折の度合いが高く、また、日常生活の行為の場面からの隔絶、遮断の度合いが高い。」

「また別な角度から見ると、〈かたり〉、〈かたる〉は(このかぎりでは〈はなす〉も含めて)それ(ら)とは別種のいわば垂直的な言語行為に対立する。ここであらたな対立項として考えられるのは、〈つげる〉、〈のる〉といった言語行為である。これらの言語行為を垂直的といった意味は、〈祝詞〉などの例を考えてみれば、ただちにあきらかになるとおもわれる。〈のる〉とは、元来、神話や戒律(法、〈のり〉)を神仏が人の口を借りて告知する、啓示する、つげ知らせることにほかならない。〈のる〉のは神(々)、神仏であり、聴き従うべきは人である。神−人の垂直的関係が、ここではこの種の言語行為の成立の要件として想定されているのである。
 神仏の〈おつげ〉などというように、〈つげる〉についても、同様の垂直的関係が想定されよう。〈つげる〉の語が、今日の日常的用法において、人と人との間にかかわる行為を意味して使われる場合でも、たとえば、医者がある患者がガンであることをその家族ないし本人に〈つげる〉、〈つげ知らせる〉、〈告知する〉という場合、あるいは、あるひとがある隠しごとを誰それに〈つげ口する〉とかいう場合のように、そこには、最低限、知−無知、知る者と知らない者の垂直的関係が介在していることにわれわれは気づく。」

「同様のことは、〈うたう〉、〈となえる〉あるいは〈いのる〉といった言語行為に対する〈はなす〉〈かたる〉の関係についてもいえるかとおもわれる。
 ただ、この場合、「念仏をとなえる」、「自然の美しさをうたう」、「神仏にいのる」(古型は、「神仏をいのる」)等々の表現を考えてみればただちにあきらかなように、問題となる垂直的関係は、さきに見た〈つげる〉、〈のる〉がいわば「上からの言語行為」といった性格をもつのにひきくらべて、ちょうど逆方向からする「下からの言語行為」というべき特徴をそなえている点にあきらかな性格のちがいがある。
(・・・)
 ともあれ、上下いずれの方向からするものにもせよ、垂直の言語行為が、すくなくともその典型においては、神仏−人の関係といった何らかの相互的ならざる関係において成り立つものであるのに対して、〈かたる〉、〈はなす〉といった水平の言語行為の特質が。それらが原則としてあくまで人が人にさしむける相互的なわざあるいはいとなみにほかならないことが、以上の対比をもとに考えるとあきらかだろう。
 古来、日本の芸能で、〈かたりもの〉と〈うたいもの〉がはっきりと区別されてきたことは。おそらく、このことの一つの例証と見なすことができるだろう。
 複式能の〈間狂言〉のかたりにその典型例が見られるように、〈かたり〉は、(〈はなし〉についてなおさら)、元来、〈謡い〉とはちがって、神々や亡霊やあるいは聖職者ならぬむしろ平俗な人間のわざ、人間が人間にさしむける言語行為にほかならないのである。」

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