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鴻巣友季子『文学は予言する』〜「第三章 他者6 多言語の谷間に――多和田葉子」

☆mediopos-3065  2023.4.9

鴻巣友季子『文学は予言する』のなかに
多和田葉子についての
「誤訳」「翻訳」に関する話があり

このmedioposをはじめたいちばん最初(8年以上前)
mediopos-1(2014.12.8)で
宮沢章夫『時間のかかる読書』をとりあげ
「誤読」について書いたことを思い出した

こんなことを勝手に書いている(苦笑)

 誤読の
 誤読による
 誤読のための
 誤読

 (・・・)

 道草歓迎
 寄道優先
 迷路悪路を
 わが道に

そういえば
だが
このmedioposをはじめたのは
本をちゃんと読んで紹介しようというよりは
いかに「誤読」もふくめて
本を「創造的」に(あるいは「勝手に」)読むか
ということだった

それでこんなことも書いてみている

 いらぬ理屈は控えておいて
 魂においしいものをおいしいままに

鴻巣友季子&多和田葉子による
「誤訳」「翻訳」に関する話ももちろん
けっして誤訳や誤読を推奨しているというのではなく

「翻訳者にあるまじきことに、
誤読や誤訳の類ををかなり愛している」(鴻巣友季子)
といちおうのことわりをいれながらも
そこに「ズレ、ソレ、ヌケ、ボケの術」としての
「誤訳のポエジー」を楽しんでいるということだ

誤訳や誤読はないに越したことはないけれど
おそらくまったくそれのない翻訳や読解はありえないだろう

正確を期する必要のある場合はもちろんあるとしても
それがAI的な自動翻訳で事足りる場合を除けば
文学や詩にかぎらず
そこにはある種の翻訳者・読解者ならではの
「ポエジー」が不可欠なのではないかと思っている

逆説的にいえば
完全な翻訳・読解というのがあるとしたら
そこには創造性としてのポエジーは存在し得ないともいえる

そして誤訳・誤読をそこに見つけたとしたら
(それへの共感・反感・批判等々もふくめ)
そこにある「誤訳のポエジー」「誤読のポエジー」が
いかにして生まれたのかを楽しんでみるのも
「魂においしいものをおいしいままに」享受する
たいせつなありようなのではないか
すべてをポエジー化する方法としても・・・

■鴻巣友季子『文学は予言する』
 〜「第三章 他者 6 多言語の谷間に――多和田葉子」
 (新潮選書 新潮社 2022/12)
■多和田葉子『溶ける街 透ける路』
 (講談社文芸文庫 講談社 2021/7)
■宮沢章夫『時間のかかる読書』(河出文庫/ 2014.12)
 &mediopos-1(2014.12.8)

(鴻巣友季子『文学は予言する』〜「第三章 他者 6 多言語の谷間に――多和田葉子」より)

「多和田葉子の旅エッセイ集『溶ける街 透ける路』(二〇〇七年、講談社文芸文庫)を通して、彼女の創造的〝誤訳〟について論じたい。

 じつはわたしは翻訳者にあるまじきことに、誤読や誤訳の類ををかなり愛している。仏文学者・平岡篤頼氏の言葉を借りれば、「誤訳のポエジー」というべきものがそこにはあるからだ。ちょっとした聞き違いや読み間違いで、それらは起きる。

 たとえば、コロナ禍下では、「このごろは、店の入口に必ずショートケーキが置いてある」という聞き間違い例をかなり秀逸と感じた。ショートケーキ。ショードケーキ、ショードクエキ、消毒液。

 このような現象を好むわたしにとって、多和田葉子という作家の小説やエッセイはめくるめく楽園なのだ。しかつめらしい言葉の隙をついて、社会通念や固定観念、先入観や差別意識をぽきぽきと脱臼させていく。前項で書いた「ズレ、ヌケ、ボケ」にもう一つ「逸れる」を加えて、「ズレ、ソレ、ヌケ、ボケの術」としても良い。

 『溶ける街 透ける路』でも、この術はいたるところで堪能できる。

(・・・)

 多和田葉子は、「自分の理解できない言語に耳を澄ますのはとても難しい作業だが、文字にこだわらず、『アメリカン』を『メリケン』と書き記したような、繊細で果敢で好奇心に満ちた耳が、かつての日本にもあったはずだと思う」と、言葉のズレやヌケを愛おしむように書く。わたしはこういうところでも感心してしまう。

 「メリケン」という表記は「アメリカン」の語頭の音が脱落したものだろう。英語関係者の間では、過去の遺物として馬鹿にされこそすれ、褒められることは稀である(日本の英語人たちの心がせまいのかもしれないが)。しかしながら、 Ameican は発音記号で書くと、əmérikənとなる。語頭は「シュワー」と呼ばれる弱い母音だから、「メリケン」表記の方が実際の音には近いかもしれないのだ。

 多和田葉子はさらにこう続ける。ここは本書の、というか多和田文学の核心のひとつだろう。

  それができなければ、異質な響きをすべて拒否する排他的な耳になってしまい、世界は広がらない。創造的な活動は、まず解釈不可能な世界に耳を傾け続けるところから始まるのではないか、と改めて思った。」

「日本からドイツに移住し、日本語とドイツ語で創作をつづけている彼女は、ふたつの文化、ふたつの言語をつなぐダイナミックな〝翻訳者〟だが、この翻訳者はダイナミックであると同時に、きわめて用心深く、辛抱強い。

 たとえば、『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』にも多和田葉子文学の神髄を表す下りがある。「わたしはたくさんの言語を学習するということ自体にはそれほど興味がない」と述べた後に、自分にとって理想の状態をこう表現するのだ。

  言葉そのものよりも二カ国語の間の狭間そののが大切であるような気がする。わたしはA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく、むしろA語とB語との間に、詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかもしれない。

 AとBの谷間に身を置きつづけること、そうした「峡谷の詩人」こそが、最高の翻訳者ではないかと、わたしは思う。とはいえ、こういう美質を充分にそなえた翻訳家は、現実的に見るとかなり困った翻訳家かもしれない。」

「多和田葉子はパウル・ツェランを愛するが、それも、この〝谷越え〟と関係しているのだろう。彼女の「翻訳者の門」(『カタコトのうわごと』一九九九年、青土社に収録)という、カフカとベンヤミンを濃厚に想起させる題名のエッセイは、ツェランの『閾から閾へ』という詩集について、そして彼の詩になぜ強く惹かれるのかについて、語っている。ツェランの詩には、「日本語で読んでもすぐに魅力を感じた」と言い、こう述べる。

  翻訳可能というのは、もちろん、ひとつの詩の完璧な写し絵が、もうひとつの言語の中で可能かということではなく、訳詞が文学として面白いかということだ。ツェランの詩はそういう意味で、完全に翻訳可能であると言えそうだ。翻訳可能であるだけではなく、日本語の中を覗き込んでいるような印象さえ与える。それにしても、ツェランの詩はどうしてドイツ語の外側にある異質な世界に視線を飛ばすことができたのだろう。言語と言語の間には、橋も架けられないような谷間があるはずなのに、それが不思議でならなかった。

 この「不思議」はある知人の「この翻訳で重要な役割を果たしているのはモンガマエだね」という言葉に光を得ることになり、多和田葉子は「閃」「間」「開」といった門構えのついた訳語からツェランの詩の「可翻訳性」の本質をつかむ。」

(「宮沢章夫『時間のかかる読書』」より)

「ぐずぐずしているのだ。停滞しているのだ。そのときはじめて、もっとべつの、読みの快楽をわたしは感じ わが道に
ていた。」

(「宮沢章夫『時間のかかる読書』を紹介した、medioposのいちばん最初のmediopos-1(2014.12.8)より)

「誤読の
 誤読による
 誤読のための
 誤読

 速読はいけない
 答えはつまらない
 教えるのはもってのほか

 わからないものはわからないままに
 いらぬ理屈は控えておいて
 魂においしいものをおいしいままに

 道草歓迎
 寄道優先
 迷路悪路を
 わが道に」

◎鴻巣友季子(こうのす・ゆきこ)プロフィール
1963年東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。訳書にJ・M・クッツェー『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、M・アトウッド『誓願』(早川書房)、A・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)等多数。E・ブロンテ『嵐が丘』(新潮文庫)、M・ミッチェル『風と共に去りぬ』(全5巻、同)、V・ウルフ『灯台へ』(『世界文学全集 2-01』収録、河出書房新社)等の古典新訳も手がける。著書に『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)、『翻訳教室』(ちくま文庫)、『謎とき『風と共に去りぬ』』(新潮選書)、『翻訳、一期一会』(左右社)等多数。

◎mediopos-1(2014.12.8 〜 2014.12.21)

https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/yugi/sinpigaku-poesie/mediopos1.pdf


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