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堀越 喜晴『世界を手で見る、耳で見る ――目で見ない族からのメッセージ』

☆mediopos2759  2022.6.7

みんなそうしている
そういうものだ
そう思っているひとは
じぶんがそうしていること
そういうものだと思っていることについて
ちゃんと「見て」はいない

だから
そうしていないひとや
そういうものではないということは
だれにとっても
大切な気づきの機会となる

本書で著者は
「目で見る族」「目で見ない族」
という言葉をよく使っているが
「目で見る族」にとっては
「目で見ない族」がいることは
じぶんが意識していないことを
意識するようになる重要な存在であるといえる

そのとき重要なのは
いわゆる「障害者」にとっては
そうでない「健常者」がそうであるように
(「健常者」というのはどうにも違和感のある言葉だが)
それが「常態」であるということだ
だから「常態」が異なっているということが
理解できるだけでもそこから認識的な視野が広がる

しかもその際「族」としての「常態」だけではなく
ひとりひとり「常態」が違っているということもあるから
そこに「族」だけにしかわからないバイアスのかかったような
そんな価値観を刷り込まないでいたほうがいい

大切なのはそれぞれの仕方での「見方」の違いを理解し
じぶんのなかの「「想像力」という感覚器官に働きかけて、
目には見えない景色を見せ、耳には聞こえない音を聞かせ、
経験したことのない感覚を生々しく感じさせ、
難しいことを手に取るようにわからせてくれる」
そんな力を獲得できるようにすることだろう

そうすることで
じぶんは世界をどのように見ているか
また見ていないあるいは見ていなかったような
そんな認識を深めていくこともできる

私たちが生まれてきたということは
一人ひとりの違いから学ぶということでもある
その機会をどのように活かすかそれが重要課題である

その機会を差別や競争や仲違いや戦争にしてしまうこともできれば
その多様性からみずからを育てていくこともできる
そしてみずからを育てるということは
他者と調和的になれる共生の方法を見出すということでもある

■堀越 喜晴『世界を手で見る、耳で見る ――目で見ない族からのメッセージ』
 (毎日新聞出版 2022/5)

(「はじめに」より)

「ここにお送りする小著は、私が「点字毎日」紙上で、2011年1月から2019年4月までに月に一度連載した記事の内からいくつかを選び、それらに多少の修正を加えて編んだものである。」

「もとより私は、「障害者」の表記法にも、また呼称にも、さほどこだわりを持たない。しかし、障害者との対比でよく用いられる「健常者」という言葉には、どうにもなじめない。だいたい、この世に常に健康だなんていう人が果たしているだろうか。「いや、健康なのが常態である人という意味だ」、あるいはそう言うかもしれない。ならば、私だって「健常者」だ。視力がないことが常態である私にとっては、目が見えないことをひっくるめて「健康」なのである。なので、私の中では「障害者」と「健常者」とは、決して対立概念ではない。それで、本書を通じて私は、「健常者」という言葉には必ずかぎかっこを付した。

 その代わりに私は、副題にもあるように、本書ではしばしば「目で見る族」と「目で見ない族」という言葉を使った。これは、本書でご登場願った、作家で、盲学校時代の私の友人が考案した呼び名である。それこそなじみのない言葉だろう。でも、このように呼んでみると、目が見える人たちの中でも、目で見る以外の感覚に興味を持つ人、持たない人、それから目が見えない人たちの中でも、目で見る感覚に興味を持つ人、持たない人、またいろいろな見え方、「見えない」方、という具合に、「見る」ということが様々なグラデーションをなして立ち現れてこないだろうか。

 そう、私たちは世界をただ「目で」見ているばかりではない。触って見る。聞いて見る。味わって見る。嗅いでみる。私が本書で皆さんと分かち合いたいのは、そのような「見る」のグラデーション効果なのである。」

(「第1章 目で見ないシーン」〜「1 目」より)

「私にとって視力は超能力にほかならない。触ってもいないくせに、遠くの物がそれこそ 手に取るようにわかるだなんてのは、さながらテレパシーか念力だ。が、ちょうど超能力 の持ち合わせがなくたって平気で生きていられるように、物心ついた時からずっと視力なしで世界を相手にしてきた者にとっては、目で見ない生活はごく当たり前のことなのである。
 ところが、そんな私たちの「目で見ない力」が、今度は目で見る族の方々にはまるで超能力みたいに思えるらしい。」

「私のような者には目に対してのミステリーがある。そして、目で見る族の人たちにも目が見えないことへのミステリーがある。 そして、目で見る族の人たちにも目が見えないことへのミステリーがある。ならば互いに胸襟を開いて、それぞれのミステリーについて忌憚なく語り合い、「ああ、そうなっているのか」と面白がって互いの目からうろこを落とし合う。これぞまさに健康 なコミュニケーションというものじゃないだろうか。そして、そんな楽しいコミュニケーションの風が互いの心に通い合っているならば、「見えなきゃわからんだろう」だの、「見えてるくせに」だのといった、互いへの勝手な忖度も、やがては雲散霧消していくことだろう。」

(「第2章 たかが言葉、されど言葉」〜「1 「見る」」)

「「あなたはよく『見る』という言葉を使いますね」。時々そう言われる。なるほど、そうかもしれない。「今朝テレビで見たんだけど」とか「ちょっと見せて」なんて、しょっちゅう言ってそうだ。目が見えないからといって、わざわざ「テレビで聞いた」だの「ちょっと触らせて」とは言いそうにない。目で見る族の方々にしてみると、やはりそれは不思議に聞こえるのだろうか。」

「考えてみれば、「見る」という時、人はどれほど純粋に目で見ているのだろうか。テレビや夢にしたって、ただ「見て」いるというわけではあるまい。ましてや「面倒を見る」、「湯加減を見る」、「ちょっと鍋を見てて」などの場合、ただ「見たよ」じゃ怒られそうだ。要するに、この「見る」という言葉自体が一つのメタファーなのだ。おそらくは、「認めることはすなわち見留めること」と思っている目で見る族の感覚がこのような比喩表現を生み出したのだろう。だとすると、目で見えない族の私たちだって、この比喩の世界の住人になったとしても何の不自然なことがあるだろうか。それにだいたい、私たちの目で見ない「見る」の世界がわかりづらい目で見る族の人たちだって、「盲目的」だの「盲腸」などと言って、実態の伴わない(そして実際に実態とは程遠い)「盲」という言葉を、ちゃっかり比喩として使っているではないか。

 メタファーとは素晴らしいものである。私たちの心の中の「想像力」という感覚器官に働きかけて、目には見えない景色を見せ、耳には聞こえない音を聞かせ、経験したことのない感覚を生々しく感じさせ、難しいことを手に取るようにわからせてくれる。そしてそれは、私たちのような感覚障害者にも全く平等に作用するのである。ここからあらゆる人にとっての豊かなコミュニケーションの扉が開かれる。こうして私たちは「見る」のである。ただ目では見ないだけであって、そして生き生きと「シーン」を獲得する。そう。scene(シーン・風景)とは、決してseen(シーン・見られた)ではないのである。」

(「第3章 何か変だぞ」〜「「7 障害者ゼロの世界」より)

「私たちは自分の身体の障害を何と言い表したらよいだろうか。ある人は「個性」だと言う。またある人は「恵み」だとも言う。ある人は「不自由なれど不幸にあらず」とうたう。「いやどう言ったって不幸は不幸だ」と反論する人もある。「持ち味」という、とても味わい深い言葉で語る人もいる。いずれにしても、障害はそれを得た以上は私たちにとっての常態となる。ならばそれを受けて立ち、さらに言えばそれを手玉に取って、考えられる限り最良の人格を完成し、最良の生き方を作るのに利活用しなければ損だ、ということにならないだろうか。

(…)

 さらにまた、どれだけ医学が進歩しようとも、この世に障害がゼロになるなどということが果たしてありうるだろうか。私にはこの社会においても、やはり障害者が存在するというのは常態なのだと思えてならない。だとすると、障害者がいて、なおかつ幸せであるような社会。さらに言えば障害者がいてこそ全体がより一層幸福になるような社会というのが、本来あるべき社会の姿だということにはならないだろうか。(…)
 「障害者が一人もいない世界」、そんな言葉からは、私にはどうしても理想のパラダイスとはおよそ程遠い、なんともくすんだ薄気味の悪いゴーストタウンのようなイメージしか浮かんでこないのである。」

(「第5章 今、教育の現場で」〜「2 意味の意味」より)

「「先生」、あるとき、経済学科の学生が授業中にこんなことを言い出した。「大学の授業って、どうしてみんな鋳物ないことばっかなんですか?」
「は?」それこそ意味がわからず、私は問い返した。「では、例えばどんな授業が意味がないと思うんですか」
「経済学史とか、経済原論とかって、全然意味ないじゃないっすか」
「え?」私はますます意味がわからなくなってしまった。「じゃ、どういうのが意味のある授業なんですか?」
「簿記とか、公認会計士の試験対策とか」……。
 私は絶句した。彼の心の中でじゃ。きっとこんな声も上がっていたに違いない。「先生の授業だってそうっすよ。主語がどうのとか、筆者のメッセージが何だとかって、まったく意味ないっすよ。そんなのより、どうしてもっと旅行で使える英語とか、英検やTOEICの点数上げる技とかって教えないんっすか」」

「彼ら、彼女らの関心はもっぱら当面、自分の役に立つことにしか向けられてはいない・だから長い目で見たり、他人や社会との関係の中で捉える必要のあることにはにべもなく、「無意味」と切って捨てられてしまうのである。」

《目次》

はじめに

第1章 目で見ないシーン
目/見た目がなんぼ?/トイレとラスコー洞窟/空気で読む/読書の秋に/奇跡と恵み/私が行かなかった道

第2章 たかが言葉、されど言葉
「見る」/春の日の夢/偽善の研究/いっぱいいっぱい病/言わずもがな/いいあんばい/「自力」と「自立」/もっと言葉を!

第3章 何か変だぞ
きてれつな平等/とある私鉄の物語/バリアフリーという名のバリア/普通名刺の物語/ため口と頭越し/感動は差別?/障害者ゼロの世界/数と効率/社会モデルと世間モデル

第4章 点字は文字だ!
点字と手話/英語と点字/ルイ・ブライユの日本語点字/ああ、点字投票/みなし人間/「見なす」の亡霊、健在なり/点字の生一本

第5章 今、教育の現場で
物語の危機/意味の意味/テレビのごとく/不気味な「進化」/好き/背中の時代の終わり/好ましからざる講演者/最後の授業

第6章 大切な人、大切な場所、大切な記憶
その時/私のイギリス/塩谷治先生のこと/ある先生の思い出/河村ディレクターの予言/永遠の友人/リオデジャネイロの風/アイスランド、ピースランド/通い合う心

第7章 近頃の事件から
ありがたくないバリアフリー/靴と白杖/担保──壁と卵/裸の佐村河内守/顔なき人間/津久井やまゆり園事件と佐村河内守/国挙げてのやまゆり園事件/働き方改革の仕事人/優生思想と核爆弾
おわりに──「罪滅ぼし」と「恩返し」 点字毎日創刊100年に捧ぐ

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