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中沢新一「精神の考古学」/カルロス・カスタネダ『沈黙の力』

☆mediopos2598  2021.12.27

中沢新一の「精神の考古学」の連載がはじまった

中沢新一は「対称性人類学」ということで
新石器革命的な文明へと目を向けてきたが
今回はその最初の著作である
『チベットのモーツアルト』に書かれてあるような
「精神の考古学」がテーマとなっていくようだ
それは『レンマ学』とも関係していると思われる

「精神の考古学」では
吉本隆明の示唆する「アフリカ的段階」という
新石器革命以前の精神の古層に目を向けることで
象徴や記号といった言語的な働きから自由な
人間の心の原初を明らかにしようとしている

吉本隆明/中沢新一が
その言語的象徴によらない認識について
引き合いにだしているのは
人類学者カルロス・カスタネダの「内的沈黙」だ

「内的沈黙」とはは「自己の精神のなかでの
自己と自己の対話を遮断した状態」で
現在その能力は人間には失われているが
「知覚が感覚器官(五感)に依存しないで」いる
「深い静謐」の状態になることによって
呪術師は呪術・超能力・治癒力などをも
可能にしていたのだという

それはカスタネダの著作『沈黙の力』のなかで
ドン・ファンが「沈黙の知」として示唆しているもので
「理性」といった「うわべの飾り」ではなく
その奥にある意識/存在の状態であり
呪術師は「集合点」の位置を動かすことで
「内的沈黙」の状態も「理性」の状態も可能にする
(「集合点」とは特定の状態にのチューニングされた
意識/存在のエネルギーフィールドのような場所のこと)

言語やそれにもとづく理性に縛られない「内的沈黙」は
アフリカ的段階の精神において活発に働いていた
非象徴的知性によって可能となるという
(それは「レンマ的知性」へとつながるものでもある)

現在私たちは言語/記号/象徴によって
意識/存在が規定された精神しか
持つことができなくなっているが
思考をつくる言語もそこから生まれている

そうしたあり方から自由になるためには
新石器革命以前の精神の古層における
人間の精神へに目を向けていくことが必要になる

吉本隆明は『チベットのモーツアルト』(文庫版)に
解説を書いているがそのなかで
中沢新一がチベットの原始密教のなかで見出したのが
「精神(心)の考古学」の技術ではないかとしている

ここで重要になるのは
言語的象徴によらない認識を得るために
精神の古層で働いている能力を得ることが
過去への回帰となってはならないということだろう

カスタネダの著作のなかでも
「古い見る者」と「新しい見る者」が示唆されるが
過去への回帰はみずからを
「古い見る者」へと導くことになってしまう

プレ(前)と「ポスト」(後)は
往々にして取り違えられやすいのだ

シュタイナーが現代的な神秘学的修行論でもある
『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』において
超感覚的な器官である蓮華の開発について
示唆しているように

現在活動を停止している古い蓮華は
かつての「暗い意識状態」に対応していたものであって
現代の明るい意識状態において修行することで
新たな蓮華とあわせるかたちで
かつての蓮華も新たに活動をはじめる

そのように「新しい見る者」となるためには
「精神(心)の考古学」の技術ではなく
現代の人間の意識に合った形の
あらたな「精神(心)」のあり方へと
方向づけていく必要があると思われる

しかし中沢新一はときに「精神の古層」を見出すために
過去へと回帰してしまうように見えることがある
過去のありように目を向けることは重要だが
温故知新の「知新」(ポスト)こそが求めれるのだ

■中沢新一「精神の考古学」
 (新潮 2022年 1月号 2021/12 所収)
■カルロス・カスタネダ(真崎 義博訳)
 『沈黙の力―意識の処女地』
 (二見書房 1990/7)

(中沢新一「精神の考古学」より)

「「精神の考古学」とは、吉本隆明氏が私の学的な企てにたいして与えた名前である。」
「吉本氏の「精神の考古学」への関心は、彼が歴史の認識を根底から刷新するために提出した「アフリカ的段階」という独特な概念の展開と、深い関わりがある。」
「吉本氏は『アフリカ的段階について』において、アフリカ的段階に属すると思われる人々の精神の働かせ方の特徴を、言語的象徴によらない、あるいはそれを超えた認識が多用されているところに見出している。」
「アフリカ的段階の精神の世界では、(マルクスの言う)アジア的生産段階以降の世界におけるように、象徴や記号が重要な働きをおこなっていない。そこではどんな象徴も記号も、自然物につながりながら広がって生成変化しているので、事物の同一性や変化しない実体などといったことは、考えられていない。有(存在)ですらそうである。個体化された事物の背後を流れる流動的な力は、有ではない。また無でもない。その有と無の中間の場所に、アフリカ的段階の精神の注視は注がれている。

 このことはアフリカ的段階の社会では、呪術や宗教の形をとった「哲学」における中心的主題になっている。吉本氏はその一例として、人類学者カルロス・カスタネダ(この人は私にとっては「精神の考古学」の偉大な先駆者である)にたいして呪術師ドン・ファンが課した「内的沈黙」の訓練の意味を、つぎのように考えている。
 「沈黙」は多くのアフリカ的段階の社会で、若者が成人になるさいに課せられる試練の中でも、もっとも重要視されているものである。沈黙とはふつう他者に言葉をかけない状態のことを指すが、ドン・ファンが人類学者に求めたのは、自己が自己にたいして心の中で不断におこなっている対話を遮断しなければならない、というものである。この内的対話は。「現在の言語概念でいえば、これは言語の価値の源泉となる状態を指している」。

  (講談社学術文庫版『チベットのモーツアルト』への吉本隆明の解説から)
  ドン・ファンは「内的沈黙」というのはこの自己の精神のなかでの自己と自己の対話を遮断した状態だと言う。わたしたちの現在の概念では〈全き沈黙〉の事で、内容は〈無〉だというほかない。しかし、ドン・ファンというメキシコ呪術の後継者は、それを「内的沈黙」と呼んでいて、沈黙において沈黙のなかで自己対話を中断した、より深い静謐の状態だと説明する。そして、この状態は知覚が感覚器官(五感)に依存しないで可能な状態なのだという。ドン・ファンによれば、現在ではこの能力は失われてしまった。ドン・ファンの言うところでは、この「内的沈黙」が呪術・超能力・治癒力などの基礎にあるものだということになる。

 ここで言われている「内的沈黙」は、ただの「無」や何もない「空」ではなく、いわば言語の働きを停止させたときにあらわれてくる精神(心)の状態を指している。他者との対話を停止させるだけでなく、自己の内部で続けられている自己対話をも停止させるとき、深い静謐のなかでおこなわれる知性作用であるといっていい。
 ドン・ファンの語るように、このような能力は現在では失われてしまったが、かつての宗教や医療においてはその能力がむしろ中心にあった。このような能力こそが、アフリカ的段階にある文化の基礎をなす、と吉本氏は考える。」
「宗教学や人類学を学んできて驚かされるのは、アフリカ的段階に属する社会の「貧しさ」なおし、「簡素さ」である。道具類や家屋などが貧弱であるだけではなく、象徴や記号による構成物が、極端に貧しい。しかしそれでいて、そこに生きる人々の精神生活は、驚くほどに豊かである。
 その世界に生きる人々の「超越者」である神々が、立派な像(イメージ)として表現されることはまずない。だいいちその神々も、新石器革命後に出現する神々のように、象徴化され個体化される神々ではない。他の存在の中に自在に入り込み、さまざまに分裂して諸存在のうちに分散して、流れ去って把捉できない波動性をしめす。アフリカ的段階の神々は、あらゆる存在に内在している力をあらわすが、同一化もできなければ象徴化もできない。
 内在的超越者である神々のその有り様は、私たちの世界の「妖精」や「精霊」にいくぶん似たところをもつが、従属させられる〈象徴の〉神々もいない世界で、象徴や記号に閉じ込められることもない。そういう力が、自然界と人間の日常生活と宗教生活を充たしている。アフリカ的段階にあるそういう神々を、のちに出現する象徴的神々(ゴッド)と区別して、自然的精霊(スピリット、この言葉葉「精神」の語源でもある)と呼ぶことができる。
 このような世界を、「アニミズム」の世界と言うこともできる。アニミズムでは、人間と人間でないものは互いに分離されない。人間は自然物や動植物の領域につながりもち、他者の領域に生成変化をおこすことも可能である。他者の領域でも同じような生成変化が生じているために、アニミズムの世界ではあらゆる存在が相互に嵌入しあっている。そこではどんな個体も自分の確たる境界をもたないので、「わたし」は周囲の世界に曖昧に溶け込んでいる。」

「このような世界では「意味の増殖」が起こらない。価値が増殖するためには、もともとの意味(元手=資本)に同一性がなければならないが、アニミズムの世界では主体はつねに他者の領域へとつながっていくために、意味に元手の働きを与えることができない。そのために、意味増殖がきわめて起こりにくいのである。
 またアフリカ的段階の世界には「価値の増殖(余剰価値)」も発生しにくい。(・・・)交換は他者とのつながりをつくりだす機能が第一であるために、「贈与」が一般的である。贈与には返礼がつきもんで、贈与=反対贈与が完結するたびに夫妻関係は解消されて、交換のサイクルは短い周期で完結していくのである。」
「このような独自な精神によって生み出されていたアフリカ的段階が、じつに十万年以上も続いた。時間だけで見れば、人類史の大半はアフリカ的段階として営まれていたことになる。」
「アフリカ的段階の世界に変質が生じ始める。およそ一万四千年ほど前に、中近東はレヴァント地方に革命的変化が始まったのである。農業と資本主義をもっとも重要な要素とする「新石器革命」に端を発する、別の大「段階」の形成が、そのとき開始される。これによって、地球上の多くの地点では、アフリカ的段階の精神をとおして活発に働いていた非象徴的知性(これがのちほど「レンマ的知性」としてとりだされていくことになる)は、「精神の考古学」の方法によらないかぎり、歴史の表面からは見えなくなっていく。」

「現代は新石器革命に始まる大「段階」の末期にあたると考えることができる。なぜ末期かといえば、増殖的成長の限界がはっきりと見えてしまっているからである。しかしこの大「段階」からの脱出は、モーセ時代のエジプト脱出よりも、はるかに困難である。象徴記号の増殖性は、私たちの思考の基礎に据えられており、知らず識らずのうちに、私たちは世界を「増殖の相のもと」に見るように慣らされているからである。
 そこである時期から私は、自分の属しているこの大「段階」の底を破って、人類の精神の前層にあたるアフリカ的段階へ抜け出していく方法を、模索し始めたのである。」

(カルロス・カスタネダ『沈黙の力』より)

「理性的すぎるものはハンディになると、わしは何度もいってきただろう。人間はとても深くて神秘的な感覚をもっている。わしらは神秘の一部なのだ。理性などうわべの飾りにすぎない。表面をひっかけば、その下には呪術師が見つかるんだ。」

「沈黙の知についてもっとくわしく話してほしいというと、彼はすぎに応じて、沈黙の知というのは集合点の普遍的な位置であり、ずっと昔にはそこが人間の通常の位置だったのだが、ある特定できない理由で人の集合点がその位置を去り、「理性」と呼ばれる新しい位置が採用されたのだ、といった。
 ドン・ファンは、人間の全体がこの新しい位置を体現しているわけではない、といった。私たちの大多数は集合点を理性そのものの位置にきちんと置かれたわけではなく。そのすぐ近くにおかれたのである。同じことが沈黙の知の場合にもあてはまる。過去において、人間の集合点のすべてがその位置にきちんと置かれたわけではなかったのだ。」

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