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東畑開人「贅沢な悩み」新連載第3回 「1章 贅沢な方法————臨床エセーと病める魂(承前)」(「文學界 2024年3月号)/モンテーニュ『エセー(二)』

☆mediopos3376  2024.2.14

東畑開人「贅沢な悩み」(「文學界」で連載)は
第1回・第2回は
「mediopos3310(2023.12.10)と
「mediopos3343(2024.1.12)」で
すでにとりあげているが
今回の第3回は第2回の続きとなっている(承前)

紹介されている「風子(クライエント)」の事例は
臨床家としての守秘義務があるために
臨床経験をもとに創作されたもので
「カウンセリングの一コマ」

風子は臨床家に
「働く必要がありますか?」と問う

その問いが生まれるまで
風子と臨床家は
「いかにすれば働くことができるか?」と
「就労支援のように、具体的で、実務的な話を重ねてきた。
だけど、彼女は今、そもそもを問うている。」

風子には生活のためのお金を稼ぐ必要はない
必要なお金は親からでている

なぜ働くのか
それは父親の呪いである
「父親自身が自分に向けていた呪詛」なのだ
「父親こそが資産で生きている自分を無だと感じ」
「それを娘に注いでいた」

そして「それを彼女は知っていた。
だけど、それについて考えることはできなかった。
だから、呪いに支配され続けるしかなかったのだ。」

臨床家はこう言う
「その問いを、あなたはずっと考えることが
できないできたんじゃないかな。
いや、考えないようにさせられてきたんだと思う」

しかし風子は「重い沈黙」のあと短く
「誰に?」と怒りを滲ませながら短く問い返す

そして臨床家は気付く
父親と同じように
「私こそが、彼女に働くことを強いてきた
張本人じゃないか。」

「働くためにどうしたらいいかばかり話し」て
「働く必要がないと考えているあなたのことを、
全然考えようとしてこなかった」と

そこから風子と臨床家は
「そもそもを問う」までに到ったことで
それまで考えることのできなかったことについて
新しく考え始めることになった・・・

東畑開人は「臨床エセー」という方法で
こうした事例を挙げながら
「贅沢な悩み」という連載をはじめている

なぜ「贅沢」なのか
それはモンテーニュが「エセー」で述べているように
「直線的に話を積みあげていくのではなく、
左へ、右へ、上に、下に、と回り道をしながら、
ゆっくりと本質に進んでいく」
という「贅沢な」方法だからだという

「断片的な話を積み重ね」ることで
それがあるとき
「一瞬普遍的な問いに開かれる」ために

ウィトゲンシュタインが
「何のために哲学をするのか?」という問いに対して
「ハエ取り壺のハエに出口を示してやること」
と言ったことを思い出す

「何のために臨床をするのか?」
「贅沢な悩み」にとらわれた状態にある
クライエントと臨床家に
その「出口」を示してやること

しかも「エセー」のように
「左へ、右へ、上に、下にと、
その時々の風に吹かれるままに、
あちこちの方角に運ばれてい」きながら・・・

臨床にかぎらず
「考える」ということは
そうした「エセー」のような営みなのだろう

「断片的な話」は少しずつ繰り返されながら
そこで見出されてくる「出口」を見つけ
「考える」ことをはじめるプロセスなのだ

そういえばこうして書き続けているmedioposも
そうした「エセー」のようなものでもあることに気づいた
ぼくはひとりで「風子」であり「臨床家」でもあるのだろう

「そもそも」を問い
「考え」はじめるために

■東畑開人「贅沢な悩み」新連載第3回
 「1章 贅沢な方法————臨床エセーと病める魂(承前)」
 (「文學界 2024年3月号)
■モンテーニュ(原二郎訳)『エセー(二)』(岩波文庫 1965/11)

*(東畑開人「贅沢な悩み 5」より)

「「・・・・・・働く必要がありますか?」
 彼女は唐突に顔を上げて、言った。声は弱々しかったが、言葉ははっきりと響いた。
 あるカウンセリングの一コマだ。」

*(東畑開人「贅沢な悩み 6」より)

「「どういうこと?」
 私が尋ねると、彼女は沈黙し、言葉を探す。しばし待つ。再び、話し始める。
「ずっと思っていました。別に働かなくても、生きていけるし、働いたところで、親がくれているお金の方がずっと多いです。自分が何のために働いているのかわからない。親がちゃんと働け、働いてないと幸せになれない、って言うから、頑張って働こうとしてきました。でも、全然幸せになっていません。嫌なことばかり。つらいだけです」
「うん」
「わかってます。贅沢な悩みです。親が聞いたら、絶対そう言うと思います」
 彼女は目を伏せる。小さな声を振り絞る。
「だけど・・・・・・私って本当に働く必要がありますか?」」

*(東畑開人「贅沢な悩み 7」より)

「新しい問いだった。
 これまで私たちは「いかにすれば働くことができるか?」をひたすら考えてきた。就労支援のように、具体的で、実務的な話を重ねてきた。だけど、彼女は今、そもそもを問うている。
 そもそも働く必要はあるのか?
 風子の人生にとって、働くことはそもそも意味があるのだろうか?
 そもそも働くとは何か?

 こういうとき、私の頭の中を大量の一般論が高速で駆け巡る。
 働くことは第1には「お金を稼ぐため」の営みだ。しかし、そうだとすると、彼女には働く必要がない。お金はある。これは厳然たる事実だ。
 もちろん、これだけでは一面的だ。仕事には、「健康にいい」という別の側面がある。結局のところ、毎日の生活にはなんらかのルーティンがあり、リズムがあることが大事で、そのためには仕事は便利だ。毎日、どこか行くところがあり、やるべきことがあるのが、健康にいい。
 そういう意味で、やはり彼女は働いた方がいいように思うが、実際に彼女が出会ってきた職場の多くが劣悪な環境であったことを思うと、よくわからなくなる。「ブラック」な職場で働くのは健康に悪い。そういう職場が蔓延っているのは、彼女のせいではなく。社会のせいだから、やはり無理に働かなくてもいい気がする。

 働く必要がありますか?
 わからない。
 私が彼女の立場だったら、働くだろうか?
 それも、わからない。
 そもそも働くとは何か?
 本当に、わからない。

 焦る。
 答えが出るまで、風子に待ってもらうことはできない。臨床家は研究室で考えるのではなく、面接室で考えないといけない。クライエントが突き付けた問いに、その場で応答しなくてはいけない。
 すると、思う。こういうそもそもの問いに、この短時間で答えるのはどう考えても無理だ。納得のいく答えが出るはずがない。こういうことを、みんなは長期にわたって少しずつ考えていくのだ。
 逆に言えば、彼女は人生で初めて、この問いを考え始めているのではないか。だからこそ、今こうやって短刀を突き付けるようにして、性急に答えを求めているのではないか。
 なぜだ? なぜ彼女にはそれが不可能だったのか?
 父親のことが思い出される。彼は毎晩の夕食時に、彼女に呪いをかけてきた。労働は素晴らしい。弟は立派に働いているけど、お前にはできない。だから、お前は無だ。とにかく働け。何も考えないでいい。働くんだ。
 彼女の「死んだ家」の中には、生きた問いの場所がなかった。生きるために少しずつ問わねばならないことを、彼女は問えずに来たのだ。

 だから、伝えてみることにする。もしかしたら、見当はずれかもしれないけれど、なによりも応答することが必要だ。
「その問いを、あなたはずっと考えることができないできたんじゃないかな。いや、考えないようにさせられてきたんだと思う」
 彼女は怪訝な顔をする。私がズレたことを言ったのがわかる。重い沈黙があり、彼女は短く言葉を発する。怒りが滲んでいる。
「誰に?」
 父親に、と答えたくなるけど、それがあまりに空疎な言葉であることに気づく。なぜなら、そのときの彼女の怒りは、父親ではなく、私に向けられたものであったからだ。彼女は血走った眼で、私を睨んでおり、私に問いを突き付けていたのだ。
 ようやく気付く。そうだ、私こそが、彼女に働くことを強いてきた張本人じゃないか。胡瓜の漬物と冷ややっこが並ぶ食卓での会話のように、カウンセリングもまた「働くべきである」という前提を疑うことができないままに、いかにすれば働けるようになるかの実務的なことばかりに気を取られてきた。私はそれに違和感を感じながらも、無視死続けてきたのだ。
「僕もそうだったよね。働くためにどうしたらいいかばかり話してたよね」
 彼女は頷く。
「働く必要がないと考えているあなたのことを、全然考えようとしてこなかった」
 「死んだ家」と同じように、カウンセリングもまた死んでいたのだ。私は重ねて伝える。
「父親と同じことをしていたんだと思う」
 彼女は再び沈黙する。しかし、今度はその沈黙には怒りではなく、涙が混じっている。私は待つ。彼女は小さく嗚咽する。そして、大きく息を吸う。吐く。心が始まる。

「お前は働いたことなんか一度もねえだろ! 先祖の金でのうのうと生きてるくせにふざけんなよ!」
 そう、彼女は知っていた。父親が彼女にかけていた呪いは、父親自身が自分に向けていた呪詛だった。父親こそが資産で生きている自分を無だと感じていたのに、それを娘に注いでいたのだ。それを彼女は知っていた。だけど、それについて考えることはできなかった。だから、呪いに支配され続けるしかなかったのだ。
 それから、私たちは新しい話を始めることになった。今まで考えることができなかったことについて、考え始めることになった。」

*(東畑開人「贅沢な悩み 7」より)

「臨床エセーとは何か。
 それは臨床家によって書かれるエセーのことである。
 なぜエセーなのか。
 それは臨床的に考えることが、そもそもエセーのやり方で考えることであるからだ。
 そこには二つのエセーがある。

 第1にあるのはクライエントのエセーだ。
 たとえば、風子は断片的な話を断片的に語っていた。その週にあったことを語り、家族の歴史を語り、ときにK−POPのアイドルについて語る。会社のプレゼンのように、まとまった話をするのではなく。そのとき頭の中にあることをエセーのようにしてそのまま語る。すると、話は行ったり来たりしながら、そしてグルグルと同じところを巡りながら、働くことへと収斂していった。
 もうひとつは、治療者のエセーである。
 面接室での私の考えは実務に始まり、実務に終わる。スタート地点とゴール地点は決まっている。だけど、そのプロセスは直線的なものではない。私の心は風子が今置かれている状況について考えたり、現代社会の労働環境について考えたり、あるいは私自身の経験を思い出したり、フワフワと浮遊している。

   われわれのふつうの仕方というのは、その好みのままに、左へ、右へ、上に、下にと、その時々の風に吹かれるままに、あちこちの方角に運ばれていくことだ。(モンテーニュ『エセー』2巻1章 われわれの行為の移ろいやすさについて)」

 モンテーニュはエセーの歩き方をそのように記した。
 左へ、右へ、上に、下に。
 心は風に吹かれて、あちこちの方角へと運ばれ、言ったり来たりする。
 それは自由な散歩だ。だけど、ただあてもなく漂っているだけではない。そうやって、グルグルと回遊しながら、問いが深まっていく。これこそがエセーの力だ。
 風子とのカウンセリングがそうだったのではないか。私たちは無限に断片的な話を積み重ねていた。そうやって、あくまで風子のこと、この人のことを考えていた。だけど、それはあるとき、一瞬普遍的な問いに開かれる。
「働くとは何か」
 生きていれば、誰もが一度は抱く問いであり、そして人生を通じて探求し続けるみんなの問いがやってくる。
 この問いに対して、私たちは病める魂のまなざしから答えようとしたいた。資産があり、働く必要はないけれど、それでも働こうとしてちゃんと働けず、そのことによって病み、苦悩している風子の目から、働くことを問う。
 働くことがいかに人を傷つけ、病ませ、そしてときに癒やすのか、臨床ではそいうことを考えるのである。

 これを臨床家はときどきエセーとして書き記す。臨床現場で紡がれた声のエセーを、文字のエセーへと移し替える。
 なぜそんなことをするのか。
 そこにあるのが、「思想」であるからだ。
 臨床家は技術者であり、実務家であるのだけれど、でも少しばかりの思想がある。病める為愛意から見えるゴツゴツした世界についての思想だ。
 私はこの連載で、臨床家の思想を語ってみたい。哲学者や科学者、そして作家が世界を感上げるのと同じように、臨床家もまた世界について考えている。それは多くの場合は、文字にされず、臨床現場でだけ口伝で流通している思想だ。

 臨床家の思想。病める魂のための思想。
 それは健全な心のやめに思想を補うものだ。世界に健全な心だけではなく、病める魂も住んでいられる場所を作るために、臨床家もまたときどき思想を語らねばならない。それはたとえば、働くことを当然とする風子の心に「働く必要があるのか?」という問いの場所を作ることと同じだ。
 そのために臨床エセーという方法がある。
 身辺雑記があり、臨床のエピソードがあり、読んだ本の話がある。直線的に話を積みあげていくのではなく、左へ、右へ、上に、下に、と回り道をしながら、ゆっくりと本質に進んでいく贅沢な方法。
 そういうやり方で、贅沢な悩みについて考えてみようと思うのである。」

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