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鷲田清一「所有について⓫人格と身体の連帯性の破棄」

☆mediopos2645  2022.2.12

〈わたし〉は
なにを「所有」している
といえるのだろう
そして「所有」しているという
〈わたし〉とはいったい誰だろう

法によって社会制度的に
あるいは契約というあり方において
〈わたし〉が「所有」しているとされるものがあるが
いうまでもなく制度や契約を離れたとき
その〈所有[権]〉は保証されるとはかぎらない

それにもかかわらず
いやそうであるからこそ
多く人はみずからの〈所有[権]〉に執して止まない

さらに〈わたし〉は
〈所有[権]〉としてではなく
〈わたし〉に付随する名や評価を
みずからに「所有」するものとしてとらえ
それらにもまた執することを止めない

さらにいえば〈わたし〉はじぶんの身体を
「所有」していると素朴にとらえ疑わないでいるが
必ずしもそうとであるとは言えない

「これはわたしのものだ、
だからそれをどうしようとわたしの勝手だ」
ともいえないことは
たとえば自殺することを考えてみるだけで明かだ

さらにいえば身体をこえたところにあるだろう「心」を
〈わたし〉は「所有」しているといえるだろうか

こうしたことを考えていくと
「所有」するということが
さまざまな次元で異なった捉え方をされ
しかもさまざまな矛盾のもとにあるということがわかる

上記は「所有」に伴うさまざまな執心について
ごく普通に挙げてみたものだが

今回の鷲田清一「所有について」の論考は
ヘーゲルやクロソウスキーなどの視点から
「人格と身体の連帯性の破棄」について論じられている

「所有」と「帰属」の問題等から
ヘーゲルの論じている
「人は所有者であることを止めることによって所有者になる」
という〈所有〉をめぐる逆説から

クロソウスキーは
「所有主体もまた代替可能」であり
「〈わたし〉の存在もまた所有の論理に呑み込まれ」
「〈わたし〉の同一的存在とその固有性もまた、
レトリカルな仮構である」とする

であれば根源的には
〈わたし〉はいったいだれが
「所有」しているといえるのだろうか

「身体から、〈わたし〉による所有(権)を解除する」
のだとするならば
役者が役に憑依されそれを演じるように
〈わたし〉という身体も
「だれでもありうる」ということにもなる

さらには〈わたし〉という人格もまた「ペルソナ」であり
その「ペルソナ」そのものについても
「所有(権)を解除する」こともあり得るだろう

こうしたことをさまざまに考えていけば
はたして〈わたし〉が〈わたし〉であることは
いったいどういうことなのか
そう問い続けながら
迷路をさまよっていかざるをえなくなる

■鷲田清一「所有について ⓫人格と身体の連帯性の破棄」
 (「群像 2022年3月号」講談社 2022/2 所収)

「わたしの体、服、鞄、部屋、家族。わたし[たち]の学校、会社、そして国・・・・・・。世界は何ものかとして現れるだけでなく、だれかのものとしても現れる。(・・・)モノとの関係、人との関係、あるいは能力とか成績とか履歴。そういうことがらの隅々にまで、それが「だれのものか」という判断が浸透しているという、あえていえば強迫的な事実は、社会をどのような磁場へと引き込んできたのか、という問題といいかえてもよい。〈所有〉をめぐっては、土地の境界にしても、物品の帰属と所有者が有する権利についても、能力と報酬の査定にあっても、現代人は強迫的なまでに緻密にそれを決しようとする。一人ひとりの存在の内実は、その人が自由に用い、また処理できるものとして何を所有しているかに、ひたすら置き換えられてきた。しかもその所有は、他者による浸蝕や介入をきびしく監視するような、いってみれば《免疫》機構のような排除性や閉鎖性を特徴としている。〈所有[権]〉という、過剰なまでに緻密化しかつ偏在化したこの観念的=制度的なシステムが、どのような歴史的脈絡において成立し、増殖し、そしていまどのような境位にあるのか。
 わたしたちがこうした問題提起の核にまず据えたのは、次のような問いであった。第一に、〈所有[権]〉という観念がどのような意味で、近代の市民的自由というものの礎となり、またその過程で逆に、桎梏ともなってきたのかということ。第二に、「〜のものである」という(所有者へのモノの)〈帰属〉の問題は、〈所有〉のそれと同一視できるものなのかということである。
 さらにそれに併せて、次のようないくつかの問題も、付随的というよりは右の問題と内在的につながるものとして提示しておいた。一つは、所有権をもつということは、当該のものについて可処分権(もしくは自由処分権)があるということと同一のことを意味しているのかという問題である。あえて雑駁な言い方をすれば、「これはわたしのものだ、だからそれをどうしようとわたしの勝手だ」という理屈は正当なものかということだ。
 いま一つは、〈所有〉の問題は〈もつ〉という問題とおなじであるのかということである。別の言い方をすれば、「ある」ということと「もつ」ということの関係はそのまま〈存在〉と〈所有〉の関係といえるのか、とりわけ〈所有〉ははたして(対象を持つという他動詞的な意味での)「もつ」と同一の事態をいっているのかどうかということである。
 そしてこうした疑問は、〈所有〉を表してきた二つの語がそれぞれにみずからを裏切るような反転性を有しているという語彙上の問題とも関連する。まず、property。この語は、一方で〈所有(権・物)〉を表すが、他方で、物や人の〈固有〉性を表しもする。つまり、所有(権・物)という譲渡可能なものと、固有性という譲渡不可能な、つまり代替不能なものとを、同時に表すということである。次に、possession。何かをじぶんのものとして持つこと(占有)を表すこの語は、同時に、何かに取り憑かれていること(憑依という被占有の状態)を表すということである。」

「人は所有者であることを止めることによって所有者になるという、〈所有〉をめぐる逆説を、ヘーゲルは提示した。彼自身の言葉でそれを再度確認すれば、〈所有〉のプロセスというのは、「私が他の者と同一的なある意志のうちに、所有者たることをやめるかぎりにおいて、私は対自的に有る所有者、他の意志で排除する所有者であり、かつありつづけるという矛盾がそのなかであらわれて媒介される過程」であるとしたのだった。
 ここに提示されているのはなかなかにきわどい論点である。(・・・)
 一つは、〈所有〉という事態には「放棄=譲渡」の可能性が不可欠の前提として含まれているという点である。
(・・・)
 そうだとすると、所有する主体としての〈わたし〉の存在もまたいずれ、〈所有〉の論理に呑み込まれざるをえない、そうした理路を撥ねつけえないことになる。これは、身体もまた所有の対象となる外的な物件(=わたしの身体 mein Körper)の一つに数え入れることができるということ、身体はまぎれもない〈わたし〉の「自由の現存在」(=わたしのもの das Meinige)であるということとのあいだにヘーゲルが敷いたその隘路を、ふたたび閉じてしまう。これが第二の論点である。(・・・)
 そして第三の論点、これは〈わたし〉という所有する主体の自己同一性にかかわるものである。身体や生命はほかならぬわたしのこの現存在として、ほんらいは所有の対象ではありえないものである。わたしはそれらに養われており、それらはつねにわたしのもとにあるものであって、すくなくともそれらはわたしの存在にとって「外的」なものではないし、わたしはそれらを意のままにできる「主人」なのでもない。」

「ヘーゲルにおける三つのきわどい論点を、いっそう尖ったかたちで再提示した人に、二十世紀という百年をほぼ併走して生きたフランスの思想家、ピエール・クロソウスキーがいる。その彼は、著書『ルサンブランス』(一九八四年)に収められた「ステレオタイプの使用と古典的統辞法によってなされる検閲について」という論考を、ヘーゲルの言葉をそのまま復唱するかのように、次の一文で締め括っている。−−−−「私の財は、これを譲渡することによってのみ、私にとって譲渡不可能なものであり続ける」。
(・・・)
 ここでは、ヘーゲルの「きわどい論点」として先に析出した三つのものが、集約されて語られている。すなわち、
  ①〈所有〉にはその不可欠の前提として放棄=譲渡の可能性が含まれていたが、そこから所有主体もまた代替可能であること。
  ②〈所有=固有〉はすでに非固有性という契機に蚕食されており、そのかぎりで〈わたし〉の存在もまた所有の論理に呑み込まれること。
 そして。
  ③〈わたし〉の同一的存在とその固有性もまた、レトリカルな仮構であること。
 が、ここではより先鋭なかたちで語り出されている。
(・・・)
 クロソウスキーによれば、身体と〈わたし〉との結びつきは偶然的なものでしかなく、したがって、身体は「わたしの所有物」ではなく、むしろ「ひとつの通過地点」(unlieu de passage)にすぎない。そう指摘するアラン・アルノーは、、クロソウスキーにおける身体の観念を次のように解している。−−−−肉体(身体)は、ひとつの舞台(scène)であり、したがって、あらゆる舞台と同様に、そこで演じられる見世物しか、また、時の経過のあいだに進行する出し物しか存在しない。この見世物は、別の舞台でも催されることができるであろう。
(・・・)
 ここから浮かび上がってくる身体イメージは、わたしがわがものとして所有する身体のイメージとは大きく異なる。ここにあるのは「「私」の中に不定形な無数の力が入り込んでいるというヴィジョン」である。いいかえるなら、ここにあるのは、「私」と「身体」との内密で自己閉鎖的な関係ではなく、むしろ「「私」の分裂であり、多数化であり、偏在化である」。」

「さらにこれに重ねる必要があるのが、(・・・)ある身体がわたしの身体であることと、それがわたしによって所有されているということとは、同一の事態ではないという論点である。
(・・・)
 人格概念の論理的原初性という第一の論点と、わたしの身体の存立それじたいがすでにより根源的な同化=自己固有化の結果であるという第二の論点を重ね合わせれば、「身体から、〈わたし〉による所有(権)を解除する」こととしてクロソウスキーが描きだしていた身体の状況が、正確には、だれかのものでもあるというのではなく、むしろだれでもありうるということなのだということがわかる。
 「私の財は、これを譲渡することによってのみ、私にとって譲渡不可能なものであり続ける」ということ。ロックの語彙でいえば、人はだれでも自身の身柄[身体]に対するプロパティをもつというプロセス(自己固有化appropriation)のプロセスでもあるということが、ヘーゲルからクロソウスキーに受け継がれたもっとも重要な論点であった。そしてこれはまぎれもなく、わたしの身体はわたしの《私有財産》であるという幻影を生じさせる当の、まさにきわどい論点でもあった。」

「身体がいろんな人物になるということ、それを生業としているのが俳優である。身体はパーソンの憑かれる(possessed=占有される)。いいかえると、身体は俳優としてある。
 (・・・)
 わたしたちは、〈所有〉の演劇的起源という、これまでとは別の問題圏へと誘われる。所有と譲渡・祭祀との概念的つながりの探求である。そのとき、占有(possession)ということが同時に憑依でもあるということの意味するところ、さらには、「私の財は、これを譲渡することによってのみ、私にとって譲渡不可能なものであり続ける」という固有(prooriété)と譲渡(alienation)[脱固有化]の共範的な関係にも、あらためて光を当てることになるだろう。」

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