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河野 哲也『間合い: 生態学的現象学の探究』(知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承2)

☆mediopos2690  2022.3.29

少し前のmediopos2683(2022.3.22)では
「かたちとリズム」についてとりあげたが
今回はそのテーマに関連した
河野哲也『間合い: 生態学的現象学の探究』

リズム現象が
「間」「間合い」という視点から考察され
それらは人間の身体性
さらには心にも深く関係しているのだという

その考察の基本となるのが
自然と生命の波動現象としてとらえれた
生きたリズムと関係している
「間」という概念の考察である

「間」とは
「ま」「あいだ」「あわい」「はざま」である

「ま」とは時空間両方に関わる
「物と物との、出来事と出来事との、
人と人とのあいだの間隙やインターバル」であり
「二つの事物のあいだに生じる」質的な特性であり
「ダイナミックでありながら
バランスを保っているような現象」を表している

さらに「間合い」とは
「間」に「合わせる」ことであり
「適当な距離」「正しい距離」「適切な時間取り」を意味し
「間合いを取る」とは
「適切な」距離を取るということである

こうした「間」「間合い」の概念の検討を踏まえ
本書では日本の古典芸能である「能」と「武道」
そして「庭園散策」において
「間(ま、あいだ、あわい、はざま)という現象が
どのように経験され、間合いという対人的やりとりが
どのように働いているか」が探求されていくのだが

その探求がめざすのは
中村雄二郎の『かたちのオディッセイ』や
山崎正和の『リズムの哲学ノート』を
(後者についても以前このmedioposでとりあげている)
身体論的に展開していくことだという

少しばかり気になるのは
「リズムが世界のすみずみまで
通底している原理であるとするならば、
人間の身心もリズムとして理解することもでき」
「人間の心と呼ばれるものも、
身体と環境の間に生じるリズムとして捉えられる」
としているように
すべてをリズムに還元してしまう視点だろうか

リズム論としては興味深いのだが
中村雄二郎や山崎正和の試みを
さらに展開するというよりは
むしろ狭めてしまっているようにも感じられる

リズムの主体は「流体」であり
「水で代表され」るということでいえば
(現代のアカデミズムでは使えない用語だが)
エーテル的な観点についてのものであり
それは生命を中心とした重要な働きではあるのだが
世界をそれだけに還元することはできない

著者はすべてを「身体と環境の間に生じるリズム」から
説明しようとしているのだが
おそらくそれで「すべて」ではない
「現象」に対する観点は
多視点的である必要があるように思われる

たとえ視点どうしが「矛盾」しているとしても
その「矛盾」を超えて表れるであろう「世界」をこそ
統合的に探求されてしかるべきではないだろうか

■河野 哲也『間合い: 生態学的現象学の探究』(知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承2)
 (東京大学出版会 2022/3)

(「序 間と間合いとは何か」より)

「本書は、間と間合いという現象とそれを創出する人間の身体性について、生態学的現象学から記述し、考察することを目的としている。」

「鹿威しの例からわかるように、間はリズムと関係している。ハーモニーが音程における秩序を指すのに対して、リズムは運動とその速度における秩序を指すと言えよう。しかしもともと、リズムを意味するギリシャ語 rhuthmos(リュトモス)は、語源的には「流れる」という動詞の rheo(レオ)から派生している。ただし、古代ギリシャ人はこの言葉を、第一義的に「かたち」、それも固定的な形ではなく、線の形や着衣のスタイルなど、即興的、一時的、変更可能な形を意味するものとして使い、第二義的に、音楽的な現代のリズムの意味で使ったという。したがって、リズムとは「即興的な配慮」を意味していた。(・・・)
 リズムは、メトロノームが刻むような機械的な拍子とは区別されなければならない。リズムは、自然と生命の波動現象である。」

「「間」という漢字は、「ま」とも「あいだ」とも「はざま」とも読むことができる。「間合い」は、もちろん、「間」と「合う」という単語を組みあわせた言葉である。」

「「ま」は、物と物との、出来事と出来事との、人と人とのあいだの間隙やインターバルとして定義できる。それは、空間的あるいは時間的であり、時空間両方に関わることもある距離である。」
「「ま」は、空間的であると同時に時間的であるが、それは単に量的な隔たりではなく、関係についての質的な特性を指している。まは、その意味において何かの機会である。機会とは何かが生み出される、何かが生じるタイミングのことであり、その良し悪しを質的に評価することができる。「間がよい「間ふが悪い」「間が抜けている」「間延びする」というのは、そのタイミングの良し悪しについて言っており、そこでは二つの事物のあいだに生じる出来事がその二つの事物をうまく媒介できるかどうかが問われている。(・・・)
 したがって、「ま」は、空虚で、無力な、否定的でしかない非存在ではなく、何かが生じることで二つの物を結びつけるような、しかも、その二つを独立の物としながらも結びつけるような現象である。まにおいては、二つの物を、距離をおいて結びつける力が働いている。それは引力であると同時に斥力であるような力の働きであり、物と物を媒介し、ある釣り合いの状態に収めているような力の働きなのである。」

「「あいだ」は、「ま」とほぼ同義語であり、日常生活においては言い換えが可能な場合も多いが、それでもニュアンスの違いがある。あいだは、まよりも客観的で、時間的・空間的な距離が遠いニュアンスがある。まのインターバルとしての客観的な側面を推し進めれば、まはあいだとなるだろう。」

「「ま」と「あいだ」はまだニュアンスの違いに尽きるとも言えるが、「あわい」よ「はざま」は、明らかにそれらとは違う意味を持っている。もちろん、「あわい」も、辞書を引けば、古代の和歌の中では「物と物のあいだ」「時間と時間のあいだ」「人と人のあいだ」という意味で用いられていることがわかる。しかし、あわいには、「色の取り合わせ、配色」というそれ以外の意味がある。あわいは、ある色を他の色から区別する境界線や接触面の意味を持っている。あわいには、まとあいだにはない接触のニュアンスが含まれている。それは、事物や出来事のあいだに引かれた境界であり、隔たりによって二つの領域を分節化すると同時に結びつけもする動的な閾を言うのである。(・・・)
 はざまは、「狭間」「迫間」「硲」とも書くことから、物と物のあいだ、出来事と出来事のあいだを意味する点ではこれまでの言葉とは同じであっても、より狭い、切り込んだ、差し入った風景を感じる言葉である。実際に、辞書の上では「はざま」の第二の意味は、「谷」「谷間」である。」
「あわいやはざまは、まやあいだのように何かが生まれてくる空隙というよりは、物と物、出来事と出来事が切り替わる瞬間を指しているように思われる。あわいが接触的で、やや平面的な印象を与えるのに対して、はざまは深さと狭さを持ってクレバスのような、切り込んだ深みの印象を与える。

 ま、あいだ、あわい、はざまには、こうしたニュアンスの違いがありながら、そのどれもが単純な時空間の空隙を意味してはいない。そこに見出せるのは、複数の物や人、出来事のあいだを、距離を保ちながらつなげるような、あるいは、結びつけながら間隙を穿つような、ダイナミックでありながらバランスを保っているような現象である。この現象をうまく言い表しているのは、「不即不離」という言葉であろう、「間(ま、あいだ、あわい、はざま)」は、引きつけると同時に引き離し、分けると同時につなげ、連続すると同時に非連続とし、始まると同時に終わるような、そうしや対抗する力が動的に均衡している様子を指す言葉である。」

「「間合い」とは、「間」に「合わせる」ことである。それは辞書的には、単純に「隔たり」を意味することもあるが、むしろ「適当な距離」「正しい距離」「適切な時間取り」を言う。たとえば、「間合いを取る」と言えば、ただ距離を取るではなくて、「適切な」距離を取るという意味である。」

「間(ま、あいだ、あわい、はざま)は、絵画における空隙、建築や庭園における空間、音楽における空白や拍子など、日本の伝統的な技や芸術、芸能において最も重視される要素である。間はダイナミックな現象であり、単純な距離というよりは、隔たりとつながりを実現する一種の運動である。
 このことは、間合いにおいてより顕著に現れる。間合いは何よりも、能や音楽のようなパフォーマンスを伴う芸能、剣道や空手のような武道・格技、あるいは落語のような話芸で最も頻繁に用いられる言葉である。日本における芸とは、身体の運動をもって芸術的価値を創造する活動である。それは制作行為であるよりは、観客に直接に向けられた身体パフォーマンスである。それらのパフォーマンスでは、いかに適切な距離や間隔を作り出すか、それをいかに保つかの技が競い合われる。それは、何かを生み出すための適切な無をパフォーマンスの最中に創造するということである。」

「以上のような概念分析に基づきながら、身体を使った技・技術、すなわち、とりわけ日本の古典的なパフォーマンス芸能である能と武道、さらに、庭園散策に注目し、そこにおいて、間(ま、あいだ、あわい、はざま)という現象がどのように経験され、間合いという対人的やりとりがどのように働いているかを探求することが本書の目的である。本書において最終的に目ざしているのは、中村雄二郎が構想し、近年では、山崎正和が提案していたリズムの哲学を、身体論的でダイナミックな観点からさらに展開することである。したがって、間合いという身体的な現象が、リズムという宇宙に偏在する存在論的現象とどのようにつながっているのかが焦点となる。」

「第5章では、それまでの間合いとリズムの現象に関する考察を通して、新しい自己観・身体観を提示する。それは、リズムを宇宙と人間の身体を共通に編んでいる元素のように考える立場である。あらゆるものは、リズムを変換しながら他で伝えていく媒体であり、人間の心と呼ばれるものも、身体と環境の間に生じるリズムである。身体はリズムを刻む流体として理解される。身体は環境に浸っている。環境は卵のようなものであり、身体はその中から形をなしてくる黄身である。また、環境に浸って生きる存在として植物の生を取り上げる。アリストテレスは、植物にも魂を認め、魂と生命を区別しなかった。現在、求められているのは、こうした命と接続した心の概念である。自己とは、環境という流体の中に生じる気象や潮流である。自己についての研究は、心理学ではなく、気象学や潮流の海洋物理学に相当するのである。」

(「第5章 流体としての身体」より)

「現象学など現代哲学は、主体が身体であることを繰り返し主張してきた。にもかかわらず、身体と環境とは皮膚の表面できっぱりと分離され、能動的な身体が受動的な環境に働きかけるという近代的主体の図式は維持されたままであった。それは、身体と環境を共通に語る概念が存在しなかったためである。(・・・)知覚や認識や意図など心の機能とされるものと世界とを共通に語れる形而上学的な存在が必要とされている。メルロ=ポンティは、世界と身体を共通に生み出している元素的な存在を「肉(la chair)」と呼んだが、この概念に実質を与える必要がある。

 そこで本書で注目したのは、リズムである。メルロ=ポンティの言う「肉」とは「流体のリズム」である。これまで述べてきたように、身体的な生には、そのあらゆる局面にリズムを見ることができる。リズムは、身体を身体たらしめる一種の形相であり、本質である。」

「リズムが世界のすみずみまで通底している原理であるとするならば、人間の身心もリズムとして理解することもできるはずである。リズムは、ダイナミックである。それは波動として、一点からあらゆる箇所へと到達し、波形として己の姿を伝える。リズムを中心として宇宙を捉えたときには、あらゆるものは、リズムを変換しながら他へ伝えていく媒体だと言えよう。人間の心と呼ばれるものも、身体と環境の間に生じるリズムとして捉えられる。」

「リズムの主体とは何であろうか。リズムを刻むもの、それは流体である。空気のリズムが捉えにくいとすれば、それは水で代表される。水は、多くの国や地域において万物の根源とみなされてきた。」

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