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エルンスト・ブロッホ 『異化』

☆mediopos-2406  2021.6.18

疎外(Entfremdung)と異化(Verfremdung)は
似ているようでまったく異なっている
どちらも「外へ」と向かうベクトルをもつけれど
「外へ」のもつ意味が逆なのだ

疎外は自分自身から単に外へと切り離され
自分自身と疎遠になってしまうことであり
異化は外へがむしろ内へと反転し
自分自身への気づきをもたらすことである

つまり疎外は生をスポイルするが
異化はむしろ生を活性化する

用語に関する難しい議論はここでは不要だ
重要なのは私たちが
自分自身の生へと立ち返るために
自明のものに新たな光を与えることである

疎外と異化の対比とは少しずれるが
たとえば知の対比でとらえるのもいいかもしれない
おなじ知でもベクトルが異なればまったく別ものになる

知ることは大事だが
じぶんが知っていると思い込むことで
その知は固定化し抽象化されがちだ
その知はむしろ人を不自由で頑迷にする

ほんらいすべての知は一回性のものだ
どんなにあたりまえのように見えても
知ることはいつも新しい
公式をに当てはめて図式化し
知った気になることは知とは反対のものだ
いつもじぶんは知らないでいる
自明であることから自由でいる
そこからはじめるのが生きた知にほかならない
知識と知恵の違いでもある

おそらくエルンスト・ブロッホの議論とは
少し異なった観点からの話になってしまったが
「異化」ということは基本的に
「あたりまえ」をそうでなくすることだろう

そのためにルーティーン化し固定化したじぶんを去り
そこから遠ざかってみること
そのことでそれまで自明のものとしていたことが
まったく新たな光のもとに開示される可能性を得る

ちなみに学生時代から気になっていながら
なかなか読む機会も力も持てずにいたものがたくさんある
最近はそうした方の著作がようやく少しは読めるようになってきた
このエルンスト・ブロッホ(1885.7.8 - 1977.8.4)もその一人
まだまだ仕事の合間でしかないのでゆっくりとはいかないが
少しずつでも魂の糧にできればと思っている

■エルンスト・ブロッホ
 (片岡啓治・種村季弘・船戸満之訳)
 『異化』(現代思潮社 1971.2)

(「疎外、異化」より)

「子供が人みしりする、という言い方がある。知らない大人、よく知らない大人がいる場合である。そういう場合、子供はあまり口をきかないか、でなければ全然しゃべらないで、指を口にくわえて立っている。けれども、その子供たちはまだ自分自身のもとにあって、己れ自身の生からほとんど疎外されてはいない。それと同じに、大人の場合でも、全然見しらぬ人ばかりの中にあってもなお自己自身のもとにあることもできるし、他人が彼のことをしろうとすることが少なければ少ないほど、よけい自分自身へと投げ返される、ということがある。これにたいして、自己自身から疎遠になる〔疎外される〕というのはそれとちがう状態であり、異化されたものというのはまたそれともちがっている。人みしりという回り道をとおして、示されているものは何か。

「Entfremden〔遠ざける・疎遠になる〕という言葉は古くからあって、以前から商売上でつかわれていた。」
「自己を疎外する〔Selbst-Entfremdung〕人間は、フォイエルバッハによれば、単に自らを貧しくしているにすぎない、とされる。」
「これに反して、Verfremden〔異化・異和化〕という言葉は、まったく古いものではなく、翻訳することもむずかしい。(…)現在の「異化効果」は、押しのけること、ある過程や性格を習慣的なものから置きかえはずすこと、としてあらわれている。そうしたものを自明のこととみさせないようにするため、である。それによって、必要な場合には、目からウロコをおとさせること(…)である。とりわけ肝要なのは、それによってまさに固有の疎外に気づかせられる、ということである。つまり、最短の道としての回り道、遠く隔てることで露すこと(…)によってである。古いペルシャの言いぐさではないが、月は、地球の上にかかって地球を映す鏡である。これは、ナンセンスではあるが、しかし、遠くに、離れたところに、高いところに置きかえられたものは、照らしかえされそうした形で捉えられることによって、自然主義よりも、よりリアリスティックでありうるということ。これは----反映の、独特な贈物である。疎外と異化は、いずれも疎遠なもの、外的なものによって結ばれていながら、固有な独特に経験可能な仕方で悪しき衰退と救済的な衰退という点で、互いにあい別れる。」

「まず、悪しき方を最初にみてみよう。これは外ということであり、そこでは人は自分自身に疎遠にさせられている。それは、親しみのない不幸な望ましくない外在〔外に在ること〕であり、われわれを決して含まない外在である。そこにおける疎遠なるものは、この言葉の古い意味であらかじめ象られている。それは悲惨を意味し、また迷いを意味する。現代ではそれは、新しい仕方で経験される。つまり、それは、遠ざけられた外としてではなく、外化され商品となり物化されたわれわれの生の世界において、そこに固有な外として、経験される。」

「疎遠なものは、裏切らず売らない場合には。まったく違った作用をおよぼす。それが目をひく場合、わざとらしくではなく巧みに目をひく場合、別の場所を告げるようなある固有のものをもっている。こうした異化にはたしかに、いぶかしがらせるもの、またいぶかしいものがひそんでいるのではあるが、ただし、それは、親しみにくいものではなく、むしろ望ましいものである。ここにある外なるものは、枠のように引きはなしたうえで、あるいは台座のように持ち上げたうえで、考慮させるのである。それは、おわかりのように、習慣的になれたものからしだいに引きはなし、はっと思わせて気づかせる。そのようにしてある語調が突然聞き耳をたてさせるとき、すでにして霧が広がるように異化がはじまる。」

「異化のもっとも逆説的な事例は、じつにカントの次のような言葉のなかに記されている。すなわち、荒野や海や高山、そしてまたまさに星空が、人間からもっとも遠く離れたところにあるその高貴さにおいて、われわれの来るべき自由の予感をわれわれに伝える、と。遠くからの呼びかけではじまる事例の極限に近ければ近いほど、それだけ、異化のカテゴリーは張り詰められ負荷される。異化の正念場は、あまりにも親しみ慣れてしまったものにハッとおどろかすような遠い鏡をさしかけることにある。人間がそれによって当惑させられ、しかも正しく当惑させられるようにするため、である。」

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