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保坂和志「鉄の胡蝶は記憶の歳月に夢に彫るか 66」/『山頭火 一草庵日記・随筆』/荻原井泉水『自然・自己・自由』

☆mediopos3351  2024.1.20

「群像」で連載中の保坂和志
「鉄の胡蝶は記憶の歳月に夢に彫るか(66)」で

山頭火の個人誌「三八九」に収録されている
荻原井泉水の「空も海も砂も、光、光、光です」云々
という短い文章がとりあげられている

保坂和志はその言葉から
「ひとりひとりがその時代にも
その人の人生を生きていたことへの思いが
私の中に生まれてくる」ことを感じ取る

「私はその瞬間がうれしいどころかもうほとんどありがたい、
そういう小さなことを通して
私はこの世界があることを実感する、
私はここで無造作に小さなことと書くわけだが
これはまったく小さなことではないわけで
いわば眼球は小さいけれど
世界を見るその眼球のことを人は小さいこととは思わない、
目は目として、すでに圧倒的に目だ、
荻原井泉水の文章に感じたものは
そのようなものだから小さいとかは関係ない。」と

そこから保坂氏は「俳句」の言葉(芭蕉)に思いを致す

「俳句というのはなじむと、
あまりに自然に心に定着するから
ひとつの作品というより標識とかそんな感じがする。」

保坂氏が出会ったのは
「小さなこと」(短い言葉)でありながら
「圧倒的」な「目」であり
それが「世界」の実感にむすびつくものとなるのである

荻原井泉水は一八八四年(明治一七年)に生まれ
一九七六年(昭和五一年)に九三才で亡くなっているが
季題無用論を説き自由律にもとづく短詩の
「自由律俳句」を提唱し雑誌「層雲」を主宰
尾崎放哉や種田山頭火らを育てている

井泉水は〝自然・自己・自由〟のもとに
発句(俳句)を「短詩という次元において理解」し
「その意識から制作をこころみ」ようとした
(荻原井泉水『自然・自己・自由』)

「私は〝俳句以前なるもの〟から出発すべきだと提唱する。
それが〝詩ごころ〟である。」
「その一つの短詩の心、そしてその中にまた
日本的なる自然の真実を求める心。
その追究が〝俳句の心〟に到達すべきものである。」

そして「俳句は出発点ではなくて到達点」であり
それは芭蕉の「一すじの細き心の道を行き尽すこと」だという

「自由律」による短詩が目指すところは
そんな「心の道」にほかならないといえる
それは「作品」という閉じた世界さえおそらくは超えている

言葉は定義されることで
世界を小さな場所に閉じ込めもし
また短い言葉で世界を
無限大にまでひらきもする

言葉は「自然・自己・自由」から
切り離されることでひとをスポイルもするが
また「自然・自己・自由」の三位一体を表すことで
ひとの生をその言葉を読むひとにも実感させる

言語を写像的にとらえれば
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
のかもしれないが
限りなく沈黙に近い短詩の言葉は
扉となって世界をひらいてくれもする

そのとき必要なのが井泉水の示唆する「心田」だろう
「心という素地を耕す」ことで
世界はそれに応じた歌を聞かせてくれる

■保坂和志「鉄の胡蝶は記憶の歳月に夢に彫るか 66」
 (『群像 2024年2月号』)
■種田山頭火(村上護・編)『山頭火 一草庵日記・随筆』
 (山頭火文庫4 春陽堂書店 2011/8)
■荻原井泉水『自然・自己・自由』(勁草書房 1972/1)

(保坂和志「鉄の胡蝶は記憶の歳月に夢に彫るか 66」〜「空も海も砂も、光、光、光です」より)

「私はしばらく前から布団の中で山頭火の、春陽堂の山頭火文庫という全五巻の文庫の4にあたる〈一草庵日記・随筆〉の巻を読んでいる、今朝は、昭和十五年二月廿三日の、
「天も地も私もうららか)朝は霜白く土は凍ててゐたかれど)、まったく春! 障子をあけはなつて春を呼吸する。」
 それと二月廿四日の、日付の下の、
「春、春、春————」
 いつもはここは天気を書くそこに「春、春、春。」と書いた、二月の晴れた強い陽差しのうれしさを私も思い出した、私は誰かの日記を読んでそれがおもしろく感じられるのをとても幸福と感じる、一番先に思い出すのはミシェル・レリスの上下二巻になった日記、あとカフカの日記、日記は一気読みすることはなく、それはまったく日記を読む喜びではない、毎日少しずつ日記と歩調を合わせるんだが山頭火はなかなかそうはいっていなかった、ただ、この巻には山頭火がガリ版印刷で配布した〈三八九〉という個人誌も収録されていて、そこに荻原井泉水がその〈三八九〉に寄せた自分の消息があった、昭和六年二月二十日、
「鎌倉も今年はめづらしい寒さで久しく引き籠もってゐましたが、けふは久し振りにて浜に出てみました。空も海も砂も、光、光、光です。女————男、子供————母親の幾対もが波打ち際に貝を拾つたり、砂丘に日向びツこをしてゐたり、其間を犬がかけまはつてゐます。全く春になりました。枯草の上の残雪が海月そのままです。」」

「荻原井泉水のこの、全体でこれだけの文章を読んで私は井泉水が見たその光景あるいはその光景にいる人たちひとりひとりに人生があったんだということが私の中から湧いてきた、私はその瞬間がうれしいどころかもうほとんどありがたい、そういう小さなことを通して私はこの世界があることを実感する、私はここで無造作に小さなことと書くわけだがこれはまったく小さなことではないわけでいわば眼球は小さいけれど世界を見るその眼球のことを人は小さいこととは思わない、目は目として、すでに圧倒的に目だ、荻原井泉水の文章に感じたものはそのようなものだから小さいとかは関係ない。」

*****

「井泉水の浜の光景はもしかしたらそれを知っている人にしかわからないのではないか、たとえば北海道の一面のラベンダー畑の中を人が楽しそうにしているところを見て私も楽しいだろうなとは思うが私の中に自分が浜にいたときの喜びが思い起こされるようにはラベンダー畑の方には感じない、井泉水の光景を思うと、
「井泉水が浜に行ったときにそこにいた人たちも生きていたんだなあ」
 という気持ちが湧く、ひとりひとりがその時代にもその人の人生を生きていたことへの思いが私の中に生まれてくる、いや実際ラベンダー畑の方は観光客だろう、井泉水が見たのは地元の人たちだ、このとき私は浜にいたその人たちの個別性まで思いは深まってはいない。その人たちの服装さえ想像していない、その人たちは昭和六年当時、家の中は寒かっただろうがそこをリアルに考えるわけではない、ただ遠景の小さな人影のように私の思いに浮かんでいるだけだ、それがむしろ大事なんじゃないか、そこはもしかしたら井泉水が俳句の人だったということも関係しているのか、
 古池や蛙とびこむ水の音
 の蛙を英語圏の人は複数化単数かと考える、私は蛙がたくさんいるとは思わないが名家期に一匹としてイメージしているわけではたぶんない、古池やが俳句史上屈指の名句であるなんて子どもの頃は思いもしなかった、子どもには蛙というのがたぶんおもしろかった、なまじ子ども時代に知って了ったから古池やの名句性がわからないのか、
 しずかさや岩にしみ入る蝉の声
 ここでも英語圏の人は蝉は単数か複数か考えるだそうだ。私はこのときにどの程度蝉の声をイメージとして自分の中で再生しているのか、古池やの方もそうだ、私だけでなく人は、蛙が飛び込んだ水音をイメージしているのか、ここで作者は蛙がとびこんだ水の音を本当に聞いたのか、蛙がとびこむ水の音が聞こえそうだと感じたんじゃないのか、どちらも聴覚が文字として出ているが鑑賞する側は実際にイメージの中でその音に相当するものを再生しているのか、俳句を鑑賞するとはそこまですることなのかそういうことではないのか、
 夏草やつわものどもが夢のあと
 古池やもしずかさやもこの句と同じ風景画なんじゃないのか、この句で、むっとする夏草の草いきれを感じる必要はないんだろうが私は子どもの頃からこの句を見るたびにむっとする草いきれを感じていた、それから私は〈この人の閾(いき)〉という小説でラスト唐突に真夏の平城京に行くんだが思えばそこで私は夏草や敵にそこにかつてあった人々の営みを思う、そう言えば〈プレーンソング〉が群像に掲載されてそれがデビューとなってはじめて小説を依頼されてそれで書いたのが〈夢のあと〉だった、私はこの俳句が好きなんだろうか、俳句というのはなじむと、あまりに自然に心に定着するからひとつの作品というより標識とかそんな感じがする。」

(荻原井泉水『自然自己自由』〜「はじがき」より)

「これは「新短詩提唱」という通題をもって、昭和三十三年から凡そ五年間、雑誌「層雲」に連載したものを一冊としたのである。」

「発句または俳句と呼ばれているものを、こうした短詩という次元において理解すること、そしてその意識から制作をこころみること。————このことを私は今から半世紀も前の大正のはじめに主唱した。」

「〝自然・自己・自由〟とは私が常に提唱しているモットーである。〝自〟という文字を通して貫かれる、三位一体説である。
 〝自〟という文字は「おのずから」とも訓じ、また「みずから」とも訓をする。仏教では自然法爾(じねんほうに)と説く、自然は公則である。自己は私心になりやすい。その「みずから」(自己)の生活を「おのずから」(自然)の精神と結合することである。自然とは日月星辰山川草木の客観だけれども、その中に自己の主観を移入することに依って、自然を自己のものとする。芭蕉が〝物と我と一つ〟と唱えた気持ちにほかならない。
 自然は自然としての理学的法則をもっている中で、決して定型的ではない、かなり自由なる振幅をもって生々溌々たる現象を形成する。それが生命というもの。こうした生命観をもって自然を見れば、自由という理念こそ、自然の星辰として感じられる。〝自由〟という言葉は〝自在〟というのと同じ。観音菩薩は正しくは〝観自在菩薩〟と称せられる。凡てのものに〝自在〟を観ずることが、仏の境地であり、又、衆生としての無上の道であると説かれている。
 〝自然〟と〝自己〟とが一線としてつながれば、三角形の三頂点のごとく、〝自己〟と〝自由〟ともまた一線としてつながる。人間はとなく、自分が生きている在りかたに拘束を感じている。それから解放されたいと思う。だが、そうした解放感が真の自由なのではない。解放される必要を感じない世界の中へ入居する。それが自然と自己とは一体化された自由の世界である。
 こういうと、詩の談とは違う、何か宗教めいた談のように聞こえよう、だが、詩の心も宗教の心も、その間に通じるものがある。釈迦が壇上に立って花を念じる拈じたとき、聴衆のひとり迦葉は微笑した。それは彼の悟りだった。この微笑は詩の微笑と通ずる。芭蕉が、古池に飛びこむ水の音を聞いたとき、芭蕉はニッコリと笑って、ここに詩があると感じたのではなかったか。いわば、一種の黙示である。その黙示をこちらで感ずるか感じないか。それは人々(にんにん)の〝心境〟というものである。林檎の落ちるのを見て、引力の原理を悟ったニュートンにしても、彼に科学的に耕転せられた心境という土壌があったからではないか。」

*****

「「雲在意俱遅」(雲在ッテ意トモニ遅シ)というのは杜甫である。「耕すや動かぬ雲もなくなりぬ」というのは蕪村である。雲ほど、自然なものはない。雲ほど自由なものはない。日本武尊の「はしけやし我家のかたゆ雲居立ちくも」という歌は三十一字より短い。むしろ俳句に近い。これに感奮して、すでに天明時代に俳人凉袋は、既成の発句に反逆したる片歌の主唱をしている。子規に万葉の歌を示唆したと言われる愚庵の晩年の言葉に、いままでは月、雪、花こそ一ばん美しいものと思っていたが、実は雲ほど美しいものはないと書いている。春には春の雲の趣、夏には夏の雲の趣はあるものの、朝の雲、夕の雲として、朝の気持ち、夕の気分を写し出す、一片の雲を眺めていることにも自然と自己と自由との一体感がある。私が明治四十四年、新しい俳句運動としての雑誌を出したとき「層雲」という名を選んだのは、こうした気持ちでもある。」

*****

「私は〝俳句以前なるもの〟から出発すべきだと提唱する。それが〝詩ごころ〟である。詩ごころの志向するものは幾すじにも別れよう。その一つの短詩の心、そしてその中にまた日本的なる自然の真実を求める心。その追究が〝俳句の心〟に到達すべきものである。俳句は出発点ではなくて到達点である。芭蕉の言う「一すじの細き心の道を行き尽すこと」である。私たちの俳句は一見、伝統的の俳句とは非常に違っているようだが、私は、もっとも正しい伝統を進展したものだと信じている。好く知られている句として
   入れものはない 両手で受ける
ただこれだけの短表現だが、無一物の生活に入って、無尽蔵の人間愛をしみじみと感じている作者放哉の気持ちは好く出ている。これは俳句の形として書かれた宗教でもあるし、詩でもある。父母からもらった自己の両手は。思いがけずもいただいた栗だか芋だか、自然の幸をこぼれるほどに受け取っている。青天をもちあげたような自由な気持ちさえあるではないか。
   か げ も め だ か
僅に六音。短表現の見本のような句なので、無名作家の作ながら、よく知られている。野の小川に群れている小さな生命。水の底に映っている影も目高。これは単なるイメージ(印象)のようだが、この目高を見ている此の人の微笑が感じられる。ある日、郊外に散歩したとき、古里の、幼きときの、自分を見出したのかもしれない。天には春の太陽がにこにこしているではないか。このような。自然と自己と一体になった気持を、長さ短さという在来の約束から離れた、アッとしぜんに口をついてでてきたような言葉として自由に書くことは楽しいことではないか。その心を書く技術(テクニック)よりも、その心という素地(アンラーゲ)を耕すべきである。心を耕すと言えば、〝心田〟という言葉もある。今はどこの農村も耕運機の時代となったが、僅か数坪であっても、自分の心田をもって、一本の鍬をとることは楽しいことではないか。縁あって此の書を手にせられた方々に私が〝提唱〟したいのは此の事である。

 昭和四十四年「層雲」創刊より数えて六十二年の昭和四十七年四月八日」

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