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吉増剛造×郷原佳以「デッドレターの先に・・・・・・」/吉増剛造『詩とは何か』

☆mediopos2672  2022.3.11

吉増剛造『詩とは何か』については
mediopos-2563(2021.11.22)ですでにとりあげているが
今回は群像2022年4月号の
郷原佳以(仏文学)によるインタビュー記事から
タイトルにあるように
「デッドレターの先に・・・・・・」について

吉増剛造はエミリー・ディキンソンとの出会いで
詩作上の深い影響を受けるようになったという

ディキンソンは宛先をもたない
「手紙のようにして詩を書いた人」で
その詩はほとんどが死後公表されたもの
いわばデッドレターとしての詩

一見「簡潔な、親しみやすい外見」をもちながら
その底には「爆弾」が秘められている

宛先をもたない手紙といえば
パウル・ツェランのいう「投壜通信」ともいえるが
吉増剛造の詩はさらに「トドかなくてよい」
最後は「届きませンように」とさえいう

「書けもしないような遺書を、
自分自身に向かって語りかけるのは恥ずかしいから、
こっそりささやくよういして書くふりをして」
書くのだというが
ほんらい「書かれたものの根本的な本質」には
そうしたデッドレター的なものがあるのだ

そうした捉え方の背景には
3.11のことが関わっているようで
吉増剛造は石巻に通いながら
「無数の届いていない言葉」
「いわば見えない灰のようなもの」を
感じとったことも深く影響しているようだ

そして
「語るというのは全て不在のものが語るんじゃないか」と
ほんらい顔・仮面を意味するプロソポペイアのように
「この場にいない人に声を与え」
「この場にいない人が語る」ように
「不在の人」に向かって語りかける

たしかに詩の根源には
そうした「不在の人」が語るということがある

詩人の高橋睦郎の
『語らざる者をして語らしめよ』
『深きより』のように
いまここにいない「不在の人」にかわって
その一人称で語る言霊のようなそんな

■吉増剛造×郷原佳以「デッドレターの先に・・・・・・」
 (『詩とは何か』刊行記念インタビュー)
 (『群像 2022年 04 月号』所収)
■吉増剛造『詩とは何か』(講談社現代新書 講談社 2021/11)
■『完訳 エミリィ・ディキンスン詩集』
 (加藤菊雄訳 研友社 昭和五十一年九月)

(「吉増剛造『詩とは何か』より)

「エミリーとの出会いによってわたくしは、詩作の上での大変深い影響を受けるようになりました。日本でいいましたら江戸から明治にかけての人、たった一人、自宅にこもり切って孤独の中でこの世を去った、いまのことばで言うと「引きこもり」の人。公表した詩は生涯に四編くらいしかなかったはずです。ですから皆さんが通常お考えの、作品を広く世間に発表して人々の目に触れさせて、それで有名になっていくような、そんな「詩人」とはまったくの逆なんですね。ボストンから内陸へ三百マイルか四百マイル離れたアマーストというところで、生涯、ほとんど家からも出なかった人でした。

(・・・)

『The Complete Poems/Faber & Faber』をわたくしは愛読しております。

  これは、まだ手紙をもらったことのない
  世間の人々にあてた私の手紙です
  自然がやさしく厳かに話してくれた
  そのままの知らせです

  彼女の通信を
  私の見ることのない手へと委ねます
  どうか親しい皆さん 彼女への愛のためにも
  私をやさしく裁いて下さい」

「エミリーというのは最初に挙げました詩で自分でも言っていますけれども、手紙のようにして詩を書いた人なんですね。「読者へ」、「これは、まだ手紙をもらったことのない世間の人々にあてた私の手紙です」と。「私の手紙ですから、どうぞ」、そんなようにして、引き出しの中にマグマを入れておいたんです。詩の持っている無言のものすごい力を手紙に例えているのです。
 この手紙というものも、しかしみなさま、油断してはなりません。ものすごくおそろしいものなんですよ。かつてエミリー・ディキンソンは、女性ということもあって愛すべき親しみやすい詩人として世間に紹介されたことがありましたが、とんでもない誤解です。エミリーの「手紙」は爆弾です。静謐な爆弾とでも言いましょうか。読む者の実存を震撼させるような刃を。簡潔な、親しみやすい外見の底に秘めている。そのような「爆弾」が、生涯、誰にも知られることなく、誰の目にも触れることなく机の引き出しの底に隠されていた、・・・・・、「手紙」が、・・・・・・ですよ。これはじつに恐るべき、「詩」にまつわるさまざまなエピソードのなかにあってもまったく稀有な事件といってもよいことなのです。」

(吉増剛造×郷原佳以「デッドレターの先に・・・・・・」より)

「吉増/震災以後、吉本隆明さんの書かれたものを筆者するという少し狂ったような作業をつづけていたんですが、ちょうど郷原さんの「デリダの文学的想像力」の最終回あたりを読んでいたときに、デリダの初期の一九六八年に「プラトンのパルケマイアー」という大作があるんですけども、これがポイントかなと勘をつけて−−−−僕はそういう勘はわりと当たるんですけど−−−−郷原さんの書き方でこれがポイントだなというのを、おそらくそのときに読んだんですね。
 『詩とは何か』を出す前になぜか吉本さんの筆者はやめて、それが終わってこの本になって、今度は郷原さんから刺激を受けて、「プラトンのパルケマイアー」の筆者を始めていました。(・・・)
 たった一人で筆者をするんじゃなくて、おそらく七、八人の意識が働いて筆者しちゃうんですね。打ち込み、書き込み、下書き、落書き、そういうふうにしていきますと、自分の中の言語意識も変わってきますし、それを今、話題にしていただいている『詩とは何か』の文体というか、他に語りかけるような方法を自分の中で巻き込みながらつくっていく。しかもこれは語りかけるような、手紙のようなやり方なんですね。「みすず」の連載のなかの、配達されない手紙、デッドレターというんですか、そういうものでもあるし、そういうものを自分なりにつくり上げてきた。しかもそれは自分なりに考えると、書けもしないような遺書を、自分自身に向かって語りかけるのは恥ずかしいから、こっそりささやくよういして書くふりをしている。」

「郷原/今、デッドレターということをおっしゃいましたが、『詩とは何か』の中でも、エミリー・ディキンソンの、手紙を書くように手紙を書くような仕方で、遺書をこっそりささやくようにして書くふりをするとおっしゃったのは、ご自身の書き方のことですか。
 『Voix(ヴォワ)』の中で、とても強く印象を受けたことの一つは、吉増さんがここで「トドかなくてよい」と書いていらっしゃることです。(・・・)
「トドかなくてよい」から、最後は「届きませンように」というところにいくんですけれども、書物を手紙になぞらえて、書く人は手紙を書くように書くんだということ自体はよく言われることだと思うんです。けれども、書いたものは自分が届いてほしいと思った相手には届かないものだということも、むしろ書くということの本質ですから、吉増さんの言葉には、そういうことも踏まえられていると思うんですね。
 『詩とは何か』の中には、ツェランが「投壜通信」と言ったということが出てくるんですけれども、「届かなくてもよい」とか「届きませんように」までいくと、「投壜通信」というのでは足りないとか、生ぬるいと、吉増さんは思われたんじゃないかなと思うんですね。届かない可能性はもちろん「投壜通信」の中に入っているんだけれども、それはでも「届きますように」ということなんですよね。届かない可能性、届かなくてもいい、最後は「届きませんように」というのが入っているのが、書かれたものの根本的な本質のところにまで迫っているのではないかと思います。

(・・・)

郷原/「届きませんように」とおっしゃるようになった背景に、実際に届かなかったたくさんの言葉がある、という思いはあったのではと思います。たくさん手記を読まれたと、和合亮一さんとの対談などでおっしゃっていると思うんですが、実際に発せられるんだけれども、ここまで届いていないかもしてない無数の声を、吉増さんが石巻に通われて感じ取っていらして、そうしたものがまた、ご自身の書くもので「届きませんように」という言葉となったのではないでしょうか。無数の届いていない言葉がある、いわば見えない灰のようなものが飛んでいるんだ、そういう思いがあったんでしょうか。

吉増/そう、それが間違いなくあって、最初に郷原さんが言ってくださった、たくさんのものを贈るというのとも結びついてくるものでしょうね。僕が痛感しているのは、今度の二月で八十三歳になっちゃいますが、おかしな結婚形態だったこともあるんですけれども、子どもをつくらなかった。すなわち、物語をつくらなかったと言ってもいいんだな。宛先をつくらなかった。さっきのデッドレター、デッドマンズブレーキ、デッドエンドと同じように、そういうものをどうしても、仮のものと言ったらおかしいな、通過するものとして捉えようとするような思考が、もともと根本的に常に働いているようですね。
 ただし、いろんなお話を石巻で聞いて、あるとても大事な瞬間に、水の中で頭の上を船の鉄骨が通り過ぎるような瞬間に出会ったような人の話を聞いたりなんかもしますし、そのときの先、その瞬間の先ということも考えるんですけれども、そこで時間空間をつかまえるときの、詩を書いているときに感じている時間空間は、現実の時間空間とは違うんですよね。全く届きようもない、時に本当にあっという間に届いてしまうような、不意打ちという言い方でも言い当てられないような何かが起こってくることが詩であるというのを知っているので、それを軸にして、そうした言い方をしているんだろうという気がしています。」

「吉増/プロソポペイア、不在の人、お墓、墓碑銘に向かって語りかけるというのかな、そういうところへ入っていきたいと思うんですけれども。郷原さんのこの連載を読んでプロソポペイアに出会って、そこに触れ始めた。

(・・・)

郷原/プロソポペイアというのは、この場にいない人に声を与える、この場にいない人が語るというレトリックのことなんです。プロソポンというのは顔とか仮面のことなんですが、この場にいない不在の人に顔を与える、顔を与えるということは、声も与えるということです。死んだ人の場合もあれば、必ずしも死んだ人だけではなくて、いわゆる擬人化と言われるような、法律がしゃべったとか、そういうことも含まれます。とにかく今ここのしゃべっている場にはいない者が語る。つまり、何かを招喚するということなんですね。でも、もしかすると、語るというのはみんなそうなんじゃないかと思うんです。
 プロソポペイアというのは、一つのレトリックであるだけではなくて、語るというのは全て不在のものが語るんじゃないか、という考えにおいて、デリダとド・マンという人は非常に近かったんです。言葉を交わしたり書いたりするということは、すでに潜在的には死後の状態にあるということだと。」

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