見出し画像

板橋勇仁 『こわばる身体がほどけるとき/西田幾多郎『善の研究』を読み直す』

☆mediopos-2434  2021.7.16

本書で論じられている内容そのものは
実際にはとてもむずかしいことだとしても
とくに理解しがたいほど難解なものではない
(補足しながらいえばこういうことだろう)

現代人の多くは
規格品のような身体となることが求められ
いつも緊張してはりつめた
あそびや余裕のない
「生きづらい身体」となってしまっている

いつまでも健康で若々しく
といったときにも
それはどこか画一的なものでしかない

画一的であるにもかかわらず
そこに強固にあるのは
「私が」という意識であり
他者を受け容れる柔軟性は見られない

「からだ」はその名のとおり
「から」つまり「空」なる「器」であって
ほんらいの身体性は
自在で創造的な場にほかならないのだが
画一的なものを求め
そこに「私が」が強固にあることで
型にはめられスポイルされたものとなっているのだ

「からだ」がほんらいの
「空」なる「器」であり得るとき
その身体は他者とのあいだで
働きかけ・働きかけられるという
相互的な創造性に向かってひらかれている

そしてその場では
苦しみや悲しみさえも
単なる「私の」「苦」に閉じたものではなく
「ひらかれ」た創造的なものであり得る

「生きづらさ」というのは
画一的なもののなかに
閉じ込められた身体性ゆえのものであり
それを「ほどいて」ゆくということは
身体性を「ひらいて」ゆくということにほかならない

著者は「型」という言葉を
「特定の枠」という意味で使っているが
ある意味でその「型」を
能とかでいわれる「型」の意味でいうならば
身体を自在で創造的な「器」とするための「場」づくり
としてとらえることもできるかもしれない

以上が私なりに理解した本書の内容だが
本書はそのタイトルである
「こわばる身体がほどける」とは対極的な
「こわばる」言葉で論じられているように感じられる

しかし本書で依拠しているという
西田幾多郎の特に後期哲学の言葉は
極めて独特で難解ともいえる言葉遣いにもかかわらず
思考も身体もどこかむしろ
深いところで解放へと導かれる響きをもっているのだが
それをもとに論じられる本書の言葉を読み進めると
むしろ身体が「こわばる」ようにさえ感じられてくるのだ

おそらくそれは本書の言葉には
内容に応じた身体性あるいは生きた響きが
あまりないことからくるように思われる
身体性が欠けているからこそ
否応なく言葉遣いが硬くなり
その硬くなった言葉に身体性が入りこまない
そして同じ硬いブロックのようになった言葉が
おなじパターンで何度も積み重ねられてゆく
その循環がくり返されてしまう

おそらく本書のようなテーマで
身体性を論じていく際には
それに応じた身体性をもった言葉で
まさに演じながら展開していく必要があるのだろう

最近ではやさしく哲学しようということで
ほんらいの内容をスポイルしてしまうほどに
無理にくだけた言葉で論じられ
しかもそのくだけ方が枠にはまってしまうことで
哲学そのものがスポイルされてしまうということもある

おそらく本書はその逆に
西田哲学という難解にも思える哲学に依拠しているだけに
その内容を損なわないような仕方で論じなければという
固定観念もそこにあったのではないか

「西田幾多郎『善の研究』を読み直」し
しかもそれに後期西田哲学の論をふまえて
展開させていくというベースがあることで
哲学的な論述をするときに使う用語と
「こわばる身体」の解放というテーマを
うまく共振させ織りなしていくことが
次第に困難になっていったのではないかと思われる
興味深い内容であるだけに少しばかり残念なところだ

さて毎日こうして本からの
かなり長めの引用をテキスト入力していると
(手書きならばもっと実感されるはずだが)
そのうちに著者の思考のなにがしかが
ある種の身体性をもって
いわば「憑依」してくることがある
(テキスト入力するのはとても労力がかかるけれど
こちらの思考と身体にどこかの接点を見つけて
「共振」させる必要から欠かすことはできない)

あえて今回内容への共感と同時に
違和感をも書いておこうと思ったのは
「こわばる身体」を「ほどく」という本書のテーマに対して
著者の言葉・思考がそのテーマとは
どこか矛盾したものになってしまっていると
本文に寄り添っていこうとしているうちに感じたからだ

難しい言葉を使うか使わないかが問題ではなく
ある意味ジャズの即興演奏のように
たとえ難解にさえ思えるような表現となったとしても
内的な必然性をもって展開されているかどうかなのだろう
スイングしなけりゃ踊れないのだ

■板橋勇仁
 『こわばる身体がほどけるとき/西田幾多郎『善の研究』を読み直す』
 (現代書館 2021/7)

「筆者が考えるのは、多くの現代人にとって身体は、あるべき好ましい規格に合わせて統御されデザインされる対象として扱われているのではないかということである。現代の多くの身体はこのように特定の枠ないし型に当てはまるように制御されたえず監視され続けている。こうした身体はこの型から逸脱しないか常に不安や緊張を強いられる。それは、あそびや余裕のあるゆったりと楽な感じがしない、緊張ではりつめてがちがちになった身体であり、その意味で〈かたくこわばる〉身体である。それは言うまでもなく、日々生活していく上で多くの支障をきたす、生きづらい身体である。
 そうだとすれば、身体のこうした生きづらさはどのようにすればほどけるだろうか。つまり型にはめられて緊張した身体のこわばりはどのようにしてほどけるだろうか。そしてどのようにして、あそびや弾力がありゆったりとした活力のある身体となるだろうか。
 ここで重要なのは、生きづらい身体のこわばりが〈ほどける〉ことは、おそらく単純に生きづらさを克服したり解消したりすることではないということである。むしろそれは、生きづらさを受け容れ包み込んでそれと共に生きることはでないか。(…)まさにこのことこそ、生きづらさが〈ほどけて〉生きることであると筆者は考えている。」
「本書がこのように現在の身体を考察する上で手がかりとするのは、西田哲学である。」

「西田によれば、現実の世界には、そして我々の自己の生には、我々の自己自身によって働きかけ、事態を統御しようとする態度が優先され、自らがなす統御への他者からの否定をできる限り排しようとすることが本質的に備わっている。このことから、後期西田哲学は、我々の自己が自らによる統御を否定してその都度の状況・事情の個性に即するということがないままに、自らの意に沿うように現実の世界を統御することに執着する「我執」が生じることを明らかにした。
 この思想を基にすれば、現代の日本の生きづらさの背景も明らかになるように思われる。我々の自己がこうした執着に根ざしたまま、その都度の個性的な事情を顧慮せずに現実の世界に働きかけ、それを統御しようとするなら、結局はただ既存の技術(やり方)を因習的・画一的に踏襲していく他ないであろう。我々の自己は、すでに形作られてある技術や道具が許す範囲内で新たな制作を行うにとどまるようになる。すなわち、自己は本質的に新たな個性的な創造の余地のない画一的・均質的な技術とそれが織りなす既存の秩序へと、自ら進んで従属していってしまう。他者や社会との既存の共同的な秩序が画一的に存続することを助ける範囲であくまでも表面的に新たな制作を行うと言ってもよい。自己は現実の世界を統御しつつ自らの創造性を発揮しているつもりで、むしろ社会において他者と均質的な存在となり創造性を失う方向へと自ら進んでしまう。」

「ここで最も注目すべき要処は、現実をとりわけ身体を統御しようと執着することが否定されることそれ自身が、生きづらさがほどかれる現場であるということである。しかもそれは、自らによって執着を否定しようと努力することによって実現はしない。執着を否定しようとする努力それ自身も否定されるないしは挫折することが、生きづらさがほどける現場である。それは言い換えれば、自己によって生きづらさを解消したり克服したりすることではなく、また執着の否定への努力が挫折することを拒むことでもなく、むしろそうした克服したり拒んだりすることの不可能性を受け容れることである。それこそが生きづらさをほどかれて生きることである。」

「西田哲学が一貫して示してきたのは、我々の自己が他の存在者に働きかけることと、他の存在者が自己に働きかけることは、互いに異他的であり分かれつつも直接に一つのことをなしているということである。それは、我々の自己が自己自身によって自己の身体にそして他者に働きかけ、それらを統御しうるという態度それ自身が否定されることによってのみ実現する。このことは、我々の自己のいまここの生の一々が、かけがえのない自己と他者による個性的な創造の現場となるということである。西田はこのありようについて、自己と他者における過去から未来までのいっさいの事象が個性的に連関し、全体が全体としていまここならではのかけがえのない仕方で結びつくこととして明らかにした。言い換えれば、我々の自己が生きることは、創造的世界の自己形成の創造的要素として成り立つ。我々の自己の生は、他者と世界のいっさいについていまここの制作を焦点として個性的な仕方で表現し包含するのである。」

「現代の出口のない生きづらさの本質を探していけば、我々の自己が自分の力で自分の身体を統御しようとする態度に行き当たる。自己による統御が否定されて苦しみや悲しみが生じるその出来事こそ、生きづらさがほどかれて自己ならではの個性を実現する現場であり、自己が異他的な他者と共にいまここにかけがえのない生を創造する現場なのである。このことは、我々の自己の身体に即して言えば、身体が身体であるとは、統御できない異他的なる他者の参与を、統御の挫折において受容れ包含し表現することに他ならない。ゆえに、統御の重しによってこわばる自己と他者の身体がそれぞれにほどけて、自らに異他的な他者を包含すし表現するありようを活き活きと現実化しあう時、それは我々の自己のいきづらさをほどき、苦悩を伴いつつも他者と共に活き活きと喜びをもって生きることの力となるのである。このことについて本書では、自己と他者が相容れず異他的であるままにいまここに共にあることを無条件に肯定し実現しあうこととして示した。またその一つの実例として、息すること自身を喜び、悲しみ苦しむことをも他者と共に楽しんで息する身体を示した。
 しかしこの到達点は、生きづらさをほどいて生きるとはどのようなことかという問題に取り組むための出発点にようやく立とうとしているものに過ぎない。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?