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穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目 #29 おととい来やがれ」(『群像』)/『室生犀星詩集』/山岸凉『白眼子』

☆mediopos-3010  2023.2.13

穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目」の
「#29 おととい来やがれ」で
散文と韻文(詩)の違いについて
「時間」という観点からの興味深い示唆がある

「時間が超越される時、
詩の匂いが立ち上がるのは何故だろう。
現世のルールの根底にあるものが、
時間の直線性と不可逆性だからかもしれない。」

「現世を統べる時間のルールが崩れる時、
目の前に「あちらの世界」が広がる。
詩の匂いとは死の匂いから生じているのかもしれない。」
という

「散文は時間の直線性と不可逆性に
順接的な記述を原則とする。
一方、韻文の時間感覚は
ランダムだったり円環的だったり、
「あちらの世界」により親和的に思える。」

詩と死はおなじ「し」と読むから
というだけではないところがある

四国が四国八十八ヶ所の関係もあり
「死国」と記されたりするのとも
どこかで通底しているのかもしれない

詩をふくめた通常の言語ではない表現の働きに関して
伝達等を含めた基本的な機能ではない
「美的機能」があるという観点があるが

それを敷衍して時間感覚に関していえば
直線性・順接的な記述ではなく
ランダムで円環的でもあり
「あちらの世界」つまり「死」に近しいともいえる

それで室生犀星の詩のごとく
「きのふ いらつしてください。」ともいえる

「詩の匂いが立ち上がる」とき
おそらくそうした時間感覚において
表現される言語は
水平的だけではなく垂直的なものでもあり
その表現主体においても
その自我は通常の「私」を超えて垂直的になる
あるいは「こちらの世界」の境を超えたところから
顕れるのかもしれない

そこでは「過去と現在と未来」における境は
同時的なシンクロニシティによって取り払われ
「私」と「私でないもの」もまた
生が死との境を超えてゆくように働くのではないか・・・

■穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目 #29 おととい来やがれ」
 (「群像 2023年 03 月号」所収)
■『室生犀星詩集』 (新潮文庫 1968/5)
■山岸凉『白眼子』子 (希望コミックス 潮出版社 2000/11)

(穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目 #29 おととい来やがれ」より)

「「おととい来やがれ」という決まり文句がある。江戸時代からの古い云い回しらしいが、二度と顔もみたくないという思いを時間の不可逆性に絡めたろころに妙味がある。当時の感覚で粋ということかもしれないが、啖呵の一種でありながら、どこか詩的に感じられるのだ。
 室生犀星に、こんな詩があった。

  きのふ いらつしてください。
  きのふの今ごろいらつしてください。
  そして昨日の顔にお逢いください。
  わたくしは何時も昨日の中にゐますから。
  きのふのいまごろなら、
  あなたは何でもお出来になつた筈です。
  (・・・・・・)
        ————室生犀星「昨日いらつして下さい」)

 「おととい来やがれ」が作者の念頭にあったかどうか。「昨日いらつして下さい」の口調はまったく異なるが、意味は近い。ここでは「わたくし」自身も「何時も昨日の中に」いるらしい。
 そういえば、ミュージシャンの松任谷由実には、『昨晩お会いしましょう』というタイトルの在るバウがあったが、犀星の本歌取りだろうか。
 これらのすべてに共通しているのは、時間を飛び越える感覚だ。『昨晩お会いしましょう』の松任谷由実は、後年の映画「時をかける少女」の主題歌において、過去に戻って巡り会うという行為を実現させている。

  褪せた写真のあなたのかたわらに
  飛んでゆく
        ————松任谷由実(『時をかける少女』)

 時間が超越される時、詩の匂いが立ち上がるのは何故だろう。現世のルールの根底にあるものが、時間の直線性と不可逆性だからかもしれない。では、それらの絶対性が揺らぐのは、どんなケースか。
 山岸凉子の漫画に、こんなシーンがあった。

  「これからわたしはおまえのその時を訪ねてゆくんだね」
  「これから? え・・・ どういうこと?」
  「あちらの世界ではね時間が同時に存在するらしいんだ 過去と現在と未来・・・が同時に・・・ね 思いが強ければ少しの間だがそのどこにでも行けるらしい 世の中の奇跡の大半はそれで起こるんだ わたしは死ねば光子の過去へ行くんだね 訪ねてゆくよ 8月26日を伝えにきっと行くから」
        ————山岸凉子(『白眼子』)

 現世を統べる時間のルールが崩れる時、目の前に「あちらの世界」が広がる。詩の匂いとは死の匂いから生じているのかもしれない。」

「散文は時間の直線性と不可逆性に順接的な記述を原則とする。一方、韻文の時間感覚はランダムだったり円環的だったり、「あちらの世界」により親和的に思える。」

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