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川野 里子『葛原妙子』・塚本 邦雄『百珠百華―葛原妙子の宇宙』

☆mediopos-2507   2021.9.27

葛原妙子には
「幻視の女王」
「魔女」
「黒聖母」
「ミュータント」
といった呼び名があり
その作品は
前衛短歌だともいわれるが

そうした呼び名や前衛という位置づけは
その「誰にも似ない形象性、形而上性」から
生まれてきたもので
ともすればそのことで
歌そのものの鑑賞にバイアスを
与えてしまうことにもなるのかもしれない

個人的にいえば
歌を読むとき重要なのは
「歌とは何か、何のために歌をつくるのか」
という作者の視点への興味である
その視点に奥行きが感じられないとき
その歌はじぶんにとって歌として働きかけてはこない

引用で紹介している代表作二首

  あきらかにものをみむとし
    まづあきらかに目を閉ざしたり
  他界より眺めてあらば
    しづかなる的となるべきゆふぐれの水

この歌を読むだけで
その視点と言葉の奥行きに引き込まれてしまう

塚本邦雄が『百珠百華―葛原妙子の宇宙』で試みたのは
そうした葛原妙子の一首一首の持っている「広義の本歌」の
「迷路巡り」「逍遙」を行っていくことだった
葛原妙子の一首一首にはそれだけの
「本歌」を背景とした世界があるということだ
それほどの背景を持ちえている現代短歌は
また歌人は稀であるのは確かだろう

「作者がただ一言、「花」と歌つた時、
その一首には花の持つ、あらゆる概念が集積され、
すべての要素が匂ひ立つ」
それを読みとりその「匂ひ」を感じとれるだけの
言語感覚(言霊感覚といってもいいかもしれない)が
少しなりとも得られるようにならなければ
歌を読んだとは言えないのだろう

『短歌ムック ねむらない樹 vol.7』の
第一の特集は「葛原妙子」でその最初に
高橋睦郎のインタビューが掲載されているが
「現在の短歌の状況は葛原とは真逆の
とめどもない拡散の傾向にある」という

現在の短歌の多くには面白味があったとしても
先に紹介した二首にもみられるような
「誰にも似ない形象性、形而上性」も
一言一言の「広義の本歌」へと
はるかに目を向けさせてくれるものも
感じられないものが多い

それは歌をつうじて暗示される
「問い」の深みともいえるのかもしれない

「目を閉ざし」てものを見る視点
「他界より眺め」る視点
その視点から導かれる「問い」は
深くそしてあらたな「問い」へとつながってゆく

■川野 里子『葛原妙子 (コレクション日本歌人選)』
 (笠間書院 2019/7)
■川野里子『新装版 幻想の重量──葛原妙子の戦後短歌』
 (書肆侃侃房 2021/8)
■『短歌ムック ねむらない樹 vol.7』(書肆侃侃房 2021/8)
■塚本 邦雄『百珠百華―葛原妙子の宇宙』
 (花曜社 1982/7)
■森岡貞香編『葛原妙子全歌集』
 (砂子屋書房 2002/10)

(川野 里子『葛原妙子 (コレクション日本歌人選)』より)

「  あきらかにものをみむとしまづあきらかに目を閉ざしたり  『朱靈』

 ものを見るとはどういうことか。その方法は『朱靈』に至って完成したと言えよう。それは写生という視覚に頼った近代の方法を克服し、目を閉ざして存在の核心を直に「見る」という方法であった。
 この方法の先駆者が斎藤茂吉である。葛原は斎藤茂吉に私淑し、生涯その歌の秘密を解こうとした。「茂吉をこっちへ取ってしまおう!」と森岡貞香と熱っぽく語り合ったという。
  わが目より涙流れて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを  『赤光』
 この茂吉の歌を引用し、「この歌をいわゆる写実の何人かが理解するだろう」とも語っている。
 鶴という存在の核心に触れてしまい、その「悲し」さに触れた「私」はいつの間にか涙を流している。「鶴のあたまは悲しきものを。然り。」と葛原はその悲しみを受け取る。茂吉は涙を流したが、葛原に涙はない。茂吉の「私」が濡れており柔らかいのに対し、戦後を生きる葛原の「私」はしんと冷え、孤独である。同じ孤独と孤高を葛原は掲出の鶴に見ている。」

「  他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふうぐれの水 『朱靈』

 (・・・)エッセイの中で葛原は「他界」について次のように語っている。
      信じがたい他界のわれがいて下界に一点を見つめている、
      という感じに尽きるからである。(略)ずばりと他界にいる
      のは他ならぬ「われ」である。
 まるで幽体離脱のような視野であり、この世を去る人が最後に目に焼き付ける風景のようだ。例えば水溜まり一つがひったりとこの世に止めおかれているのを見つめる。なぜそこにあり続けるのか。その意味を説かれぬまま「しづかなる的」となりつつ。そして思えば人間がまさにそのようにこの世にあり続けている。
 「他界」は天国のような宗教的な場所ではない。はるばるとこの世を見るための詩人の場所であり、そこに葛原はもうずっと以前から棲んでいた。詩人とは刻々と死につつこの世を振り返る人のことである。しみ通るようなさびしさとこの世への怖れが感じられる、後期を代表する一首。」

(塚本 邦雄『百珠百華―葛原妙子の宇宙』より ※旧仮名遣いの漢字は新仮名遣いの漢字にしています)

「先蹤のない文学はない。すべての短歌は広義の本歌を持つている。真の独想・独創を期するならば、作家は、たとえばエスペラント語のやうな「新しい言葉」の創造から始めねばなるまい。また、たとえば、そのエスペラントすらラテン語といふ先蹤もしくは本歌があることに思ひ到れば、潔癖にそれらを拒み通す時、少なくとも詩歌人は啞になる他はないだらう。その啞になることすら、死その他種種の方法によつて言葉を絶つた先人のミミクリ−を演じてゐることになるのだから、残された「創造」など皆無といふくにになる。」

「私が、葛原妙子作品解釈鑑賞に際して意を用ゐ、かつは苦慮し、なほその上に、かへつて興に乗り、愉楽の限りを尽くしたのも、この本歌探索であつた。妙子歌の本歌探しは、広義にしろ狭義にしろ、一首の迷路巡りであり、八幡の藪知らず逍遙に他ならなかつた。(・・・)一首一首にそれ(妙子の胸中を忖度すること)を試みるなら、一首に五十枚を要し、百首は五千枚の量となるだらう。それを、私の独断と偏見によって百首二百五十枚に縮めた時、歌は、とある一つの角度から見た面のみ、特殊な光を放つこととなつた。そして、私はそれ以外の何をももとめなかつた。歌における「独創」の限界を極めるかに見えるこれら作品群に、生ぬるい、一知半解の「解説」や「注釈」など更に不要である。
 今日、一首の歌に、たとへば五十枚の鑑賞欲を唆るやうな例がいかほどあらう。そのやうな歌の作り手が何人ゐるだらう。稀有であり、常に例外的な存在と言はねばなるまい。
 その点で葛原妙子は斎藤茂吉と、見えざる線で結ばれてゐる。かつて私は両者についての見解を「紅衣光体」〈「短歌」55年5月〉にしたためた。そして意の半ばは尽くしたやうに思ふ。残る「半ば」のその七割方は満たさうと、この「百珠百華」の執筆を思ひ立つた。」
「私は時として、私にかうまで鑑賞欲を唆る作品に嫉妬した。往々にして、あるいは作者が意図してゐないであらう世界にまで立入り、敢へて消し去らうとしたかも知れぬ資料にまで言及してゐるのは、さいうふ焦慮のなせる業である。作者がただ一言、「花」と歌つた時、その一首には花の持つ、あらゆる概念が集積され、すべての要素が匂ひ立つ。それを証するために、私は「百華」を、負けじと動員せねばならぬ。」

(『短歌ムック ねむらない樹 vol.7』〜「インタビュー(聞き手・川野里子/高橋睦郎 僕の知っている葛原さんのこと」より)

「高橋/葛原妙子は自分にとって真に新しい確かな存在感のある歌を求めつづけた人。その敢えていえば求道の軌跡が彼女の歌で、量産することやその結果有名になることなどが目的ではなかった。まして況んや歌人を演ずることなど考えたこともなかったのではないか。自ら手ごたえを感じうる一首を産むために苦しみつづけた一生だったと思います。その結果、彼女の歌は他の誰にも似ない形象性、形而上性を得た。これは方向としては凝縮で、現在の短歌の状況は葛原とは真逆のとめどもない拡散の傾向にあるといえるのではないか。そういう状況の中だからこそ葛原妙子の通してもう一度歌とは何か、何のために歌をつくるのかを考えなおすことが必要なのではないかと思います。」

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