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今福龍太『ぼくの昆虫学の先生たちへ』

☆mediopos-2443  2021.7.25

かつての「昆虫少年」は
少年の心を失わずにいられる
(と勝手に想っている)

「北杜夫先生へ」の手紙にもあるように
それは「虫を追いかけることの、
その徹底的な「無用」さ」ゆえの
無心で幸福な体験から生まれるのだろう

虫を追いかけることは
なんの役にも立たず
人のためになどならず
偉くもなく
科学に貢献しようというのでもなく
サトリをひらくわけでもなく
蘊蓄を傾けて人に語るべきことなどなく
ただただ好奇心から
「まっさらな自由を手にする」という体験であり

おそらくそれは大人になってからも
「「有用」さを尊ぶことで思慮やわきまえを身につける
世俗的「有心」への抵抗」ともなってゆく

そんな「昆虫少年」だった著者の今福龍太は
「昆虫少年!」という「その響き」が
「私を無上の喜びへと誘いだす」という

そして「ぼくの昆虫学」を
虫への情熱を喚起させてくれた
一四人の先生たちへの手紙として
書かれたのが本書である

しかしその昆虫世界が
いまや世界中で壊れようとしている

惑星地球には
五千種ほどが知られている哺乳類の
一千倍の五百万種が存在するといわれ

鳥や両生類や魚の食料供給者
糞や腐敗物を分解して土に還す分解者
他の虫を駆除する者
顕花植物の九〇%・穀物の七五%の交配を担う受粉者
アリやシロアリなど土を乾燥や不毛から守り
活性化させる土壌改良者
として
地球環境に欠かせない役割を果たしているが

その無尽蔵ともいえるはずの虫の数が
世界全体で激減しているというのだ

その原因は無論
昆虫を採取することではなく
土地開墾による生息環境の悪化
文明に由来する地球規模の気候変動
生産効率化の下での殺虫剤の濫用
であり

まさに人間が昆虫世界をふくむ生物界を
ひいては自然環境全体を支配し
コントロールしようとする暴慢さのために
今度は昆虫世界が縦横に結びつけている
豊かな自然環境の破壊によって
人間にとって必要不可欠な生存環境が
失われようとしているのである

しかしそうした科学的事実としての危機感によってのみ
本書が書かれているわけではない
著者が「昆虫少年」として学んだことの核心は
「虫という存在の確かさへの直覚的な理解と、
その生命倫理的で霊的な意味」だったのだという

昆虫が減れば人間が困るから
昆虫を大切にしなければならない
ということではおそらく何も変わらない

なぜこの惑星地球に昆虫が
数限りなく存在しているのか
その「霊的な意味」を
みずからの生命的な直観として
感得することが不可欠になる

「近代科学の機械論的な世界観に疑義を抱いていた人々」は
「科学的理性だけでは説明できない領域が
世界には存在することをいちはやく語ろうと」し
「そこでは文学と科学との、芸術と自然学との
豊かな交差が必要」だということを直観していたような
生命的な直観が必要なのだ

「昆虫少年!」という言葉には
その直観が響いている

■今福龍太『ぼくの昆虫学の先生たちへ』
 (筑摩選書 筑摩書房 2021.7)

(「ジガバチの教え/アンリ・ファーブル先生へ」より)

「「少年!」」という響きが好きだ。幾つになっても。
 そう呼びかけられることも、まだときどきある。でも青臭さ、未熟さを指摘されている、などという気持ちにはならない。むしろ齢を重ねても、大人が訳知り顔でしたがう世間の自動化された形式や流儀から身と心を引き離し、子供時代に感じた自由な風が吹き抜けるポカンとした空白の領域をいつまでも守ろうとしてきたことを、少し誇らしく思いさえする。私に「少年!」と声をかける人は、無意識のうちに、自分が失った、この嵐の吹き抜けるイノセンスの領域に淡いノスタルジーをきっと感じているのだろう。じつは、誰でもが少年に還ることができる。自らの内なる少年を引き出し、対話することが。でもそのためにはきっと。一つの隠された秘密のスイッチを入れることが必要なのだろう。繊細な陰影を宿した「記憶」という神秘のスイッチを。
 「少年!」と呼ばれるだけで懐かしさがこみ上げる。けれど、さらに「昆虫少年!」といわれれば、その響きは私を無上の喜びへと誘いだす。」

「私の「昆虫学」への入門は、自然という豊かなマトリックスの世界と、日常の師であるさまざまな人々とその著作をつうじた学びとの両輪によって果たされた。その恩恵は、「昆虫少年」という言葉の響きがいまの私にもたらす幸福感のなかに生きつづけている。いま私は、そんな「ぼくの昆虫学」の先生たちに向けて、感謝を込めてあのころの思い出と、その後の私の生の消息とを。時間を横切るようにして語ってみようと思う。
 そのためには「手紙」という形式がもっともふさわしいかもしれない。あの頃の私のなかに生じた瞬間と永遠の刻印を、一四人の先生たちへの架空の手紙として、昆虫少年の〈記憶霊〉とでもいうべきアニマに語らせてみたいのだ。私の少年期に体内に宿った「昆虫学」、その学問ならざる学問としての「ぼくの昆虫学」は、虫への情熱をうながしてくれた先生たちとの出逢いと、その人物や著作への深い没入とによって彩られた、一つの夢のヴィジョンにほかならなかった。」

(「聖タマオシゴカネの無心/北杜夫先生へ」より)

「先生がぼくの分け与えてくれた貴重な教え。それをひとことで言えば、なんの役にも立たない好奇心の素晴らしさ、でしょうか。人のためになどならない、偉くもない、科学に貢献する必要などさらさらない、ただ好奇心だけをたよりに虫を追い、虫を採り、虫を集め、虫に陶酔する。虫が好きになることでサトリをひらくわけでもなく、蘊蓄を傾けて人に語るべきことなどなにもない。自分が没頭している相手は、他人から見ればただの「虫ケラ」で、そんなどうでもいいものに執着するからこそ何の責任も心の負担もないまっさらな自由を手にすることができる。それは執着のようでいて、じつは独占的な執着から解き放たれるための行為なのだという真実を、ぼくは学んだのでしょう。
 虫を追いかけることの、その徹底的な「無用」さから、純粋な「無心」が生まれることをぼくは先生の本から感じとり、その晴れやかな自由を守り抜こうとしました。それは、「有用」さを尊ぶことで思慮やわきまえを身につける世俗的「有心」への抵抗だったのかもしれません。虫と接し、虫について考えることは、「人間についてのある展望」をあたえてくれる、と先生は『どくとろマンボウ昆虫記』で書かれていましたね。」

(「ウスバシロチョウの自伝/ウラジーミル・ナボコフ先生へ」より)

「偉大な作家や芸術家が、同時に生物学や自然科学にたいする深い造詣をもち、その分野においても注目すべき仕事をしていること。しかもその二つの領域が、どこかで有機的に連関しているように思われること。そんなスリリングで横断的な著作を残した人々にぼくは昔から特別の関心を抱きつづけてきました。
 ぶれることなく、天職として定められた本業を地道にやり通す集中力を軽視するつもりはありません。一つの領域ですら、それを究めることがいかに困難で努力を要するものかも、身にしみて理解していたつもりです。にもかかわらず、ぼくはどこかでいつも、自分の生き方や仕事を、一つの専門領域に固定化してしまうような発想から自由でありたいと願ってきました。一見かけはなれた分野・世界が交差するところにはじめて見える、別種の真実のようなものがあるに違いない。子供の頃からぼんやりとそう考えていたのかもしれません。そして長じたいま、それもまた一つの生き方としてまちがってはいなかった、と思うのです。」

「ぼくが特別の関心を抱いたこれらの人々は、みな一つの共通性を持っていました。それは、近代科学の機械論的な世界観に疑義を抱いていた人々だ、という点です。実証的なデータをもとに、因果法則によってすべての自然科学的現象のなかにある規則的メカニズムを解明できるとする考え方への本質的な疑念。近代の科学革命にとって決定的に重要な転回点となった機械論的な考え方の硬直した部分に彼らは直感的に気づき、科学的理性だけでは説明できない領域が世界には存在することをいちはやく語ろうとしました。だからこそ、そこでは文学と科学との、芸術と自然学との豊かな交差が必要だったのです。だれよりも、『昆虫記』の執筆に障害を捧げた博物学者アンリ・ファーブル自身が、南フランスで消えかかるオック語の復興運動に深く関ったオック語詩人でもありました。外から見た専門分野のなかに形式的に安住せず、内的な衝迫によって文学的想像力と科学の世界を有機的に横断していったこれらの先達の仕事は、ぼくにとって大きな魅力として映ったのです。」

(「ツマムラサキマダラの青い希望 読者へ」より)

「あの頃の私とおなじような若い(無心に遊ぶことのできる)読者にいまあらためて伝えたいことがあります。虫は謙虚な愛好者がどれだけ採っても減らない、という簡潔な事実です。虫が減っている理由は、そこにはありません。主たる理由ははっきりしています。土地開墾による生息環境の悪化、文明に由来する地球規模の気候変動、そして生産効率化の下での殺虫剤の濫用、この三つです。昆虫世界を人間世界の支配下に置けると考える、人間中心主義的な思い込みです。そしてこの「人間」という枠組みの身勝手さ、その恣意性、その傲慢さんい私たちが気づくためにこそ、昆虫たちは語りつづけているのです。」

「この「人新世」の時代、昆虫界の最大の危機はその数の激減です。いままで虫の数を数えようとする研究者などいませんでした。あまりにもたくさにたからです。哺乳動物は五千種ほどが知られていますが、昆虫はその一千倍、五百万種が存在すると考えられ、しかも種として現在同定されているものはそのうちの二割ほどに過ぎないのです。昆虫世界は、私たちの惑星を無限に覆い尽くす精緻な織物なのです。
 しかしいま、無尽蔵とも思えた虫の数が世界全体で激減しているという事実を示すさまざまな兆候を無視できなくなっています。昆虫の数の定量的な変化を時系列的に比較した調査では驚くべき結果が出ています。モーゼル河畔の森にネット状のマレーズトラップと呼ばれる仕掛けをテントのように張り、そこを飛ぶハエ目や小蛾類などの飛翔性の昆虫をとらえて保存液の入った瓶に誘導するという調査の結果、一九九四年から二〇一六年までの二二年のあいだに、瓶のなかに収まる昆虫の数が七六%も現象したのです。
 虫の数が減ること。それはすなわち、昆虫が地球環境にたいして果たしている不可欠の役割が低減することを意味します。鳥や両生類や魚の食料供給者となってそれらを生かしている虫たち、糞や腐敗物を分解して土に還す分解者としての虫たち。他の虫を駆除する者としての虫たち。顕花植物の九〇%、穀物の七五%の交配を担う受粉者としての虫たち、アリやシロアリなど土を乾燥や不毛から守り活性化させる土壌改良者としての虫たち・・・・・・。昆虫が、いかに人間も含む他の生命体の生存にとって重要な存在であるかは明白です。
 けれど、科学的事実だけが私にとって大事だったのではありません。むしろ昆虫少年としての日々を想うとき、私が学んだことのほんとうの核心は、虫という存在の確かさへの直覚的な理解と、その生命倫理的で霊的な意味だったような気がするのです。」

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