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奥野克巳・伊藤雄馬『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』

☆mediopos3192  2023.8.14

東南アジアの狩猟採集民(森の民)を研究している
人類学者・奥野克巳と
言語学者・伊藤雄馬による対談と
対談をふまえたそれぞれの「論考」に興味は尽きない

これまでにもこのmedioposでは
それぞれの著書についてとりあげてきたが
この対談と論考ではそれらがふまえられながら
ある意味で矛盾によって矛盾を超えていく
そんな道筋に光を当てているように感じられた

基本的な矛盾のひとつは
「パースペクティヴィズム」である

それは「他者の観点(パースペクティヴ)に立って、
自分たちが見ている世界とは違う観点から
世界を捉えること」
つまりは
「見る人が違えば、世界も異なる」という立場のことである

パースペクティヴィズムを厳密に適用させると
「相手の立場にはなれない」
「客観的事実にはたどり着けない」ことになる

伊藤雄馬によれば
そこで否応なく起こる「混乱」は
「おそらく自己が一つに限られる、という考えから来ている」
そしてそれを乗り越えるためには
「複数の自己の存在を認めること」が
「手立て」となるのではないかという

そしてその端緒として
少なくとも自分のなかにある
「科学者の自己」と「芸術家の自己」
という二つの自己を区別する必要があると

その両者のとらえている「世界」は矛盾しているが
「どちらか」だけというのではなく
「この二つの自己は相補的で、
同時に働く時、身体が現れる」

「世界と一体となった芸術家の自己を、
科学者の自己が捉える瞬間、
身体は新しい輪郭を持って生成される」というのだ

もうひとつの矛盾は「have」と「have not」である

私たちの生きている社会では
「have」つまり「所有」が基本であり
それが「至上の価値」とされているところがあるが
プナンでは個人所有が否定され
所有しないということが基本となっている

そのプナンでは
無所有を軸として二つのモードがあり
ビッグマン(共同体のリーダー)は
「何かを誰かにもらったら、
積極的な形で別の誰かに渡すことを率先してやる」
しかしその反対の極には
生きていくために
「せびりまくる人、ねだりまくる人」がいる

ある意味で私たちの社会とまったく逆で
私たちの社会では権力をもったリーダー的な人物は
飽くことなく所有に所有を重ね
生きていくために働く人たちから搾取を続ける・・・

しかしここからが興味深い論点となる

伊藤雄馬によれば
こうした矛盾を現象させている二元性は
「そこの中だけで考えると煮詰まる。
だから三点目を見つけて、三角形をつくる」

その三点目とは
「have と have not、そしてそれらを成立させている
太陽からの視座のような点」であり

「いろいろな三角形を見出すために
物事には二元性があるのかな」というのである

この視点は非常に重要だろう

「複数の矛盾した自己」にも
「それらを成立させている太陽からの視座のような点」
を見つけて三角形を見いだすこと

二元性の矛盾のなか
片方の極にシフトするのでも
両極を揺れ動き迷い続けるのでもなく
それらをともに支えている視点を見つけること

ある意味ではそうした視点を見いだすためにこそ
二元性は出来しているのだともいえる
「わたし」と「あなた」という
それぞれの「パースペクティヴ」も同様に

それは仏教における「中論」とも
通底しているところがあるようにも思われるが
それが論理の世界においてではなく
文化人類学者や言語学者によって
具体的な視座として示唆されていることは
私たちが日々生きていることと深くつながるだけに
とても興味深い対談・論考となっている

■奥野克巳・伊藤雄馬
 『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』
 (教育評論社 2023/8)

(奥野克巳「他者のパースペクティヴから世界を見る」より)

「他者の観点(パースペクティヴ)に立って、自分たちが見ている世界とは違う観点から世界を捉えることを「パースペクティヴィズム」と呼ぶ。パースペクティヴィズムには、明確に切り分けられないのだけれども、「宇宙論的」なものと「実用的」なものがある。」

「パースペクティヴィズムが現代人類学のテーマとなったのは、エドゥアルト。ヴィヴェイロス・デ・カストロがアメリカ大陸先住民の「宇宙論的」パースペクティヴィズムを取り上げてからのことである(ヴィヴェイロス・デ・カストロ2016)。ヴィヴェイロス・デ・カストロによれば、動物や精霊は自らを人間とみている一方で、われわれ人間のことを非人間的な存在とみている。それらは、自分たちの家や村にいる時には、自らを人間の姿をしていると、アメリカ大陸先住民は把握しているのだという。現代人類学で扱われるのは、こうした「非人間に対する人間による」パースペクティヴィズムである。」

「コーンは、同じくアマゾニアに住むルナのパースペクティヴィズムを取り上げている。コーンにとれば、ルナのパースペクティヴィズムは、「生き延びていくという難問への応答」(コーン2016:170)である。ルナのパースペクティヴィズムは捕食すること、捕食される(捕食されない)ことに「実用的」に関わっている。その意味で、コーンのパースペクティヴィズムは、ヴィヴェイロス・デ・カストロやデスコラによるアメリカ大陸先住民諸社会の抽象モデルではなく、捕食と被捕食に関わる「実用的」パースペクティヴィズムのことを指している(コーン2016)。」

「パースペクティヴィズムは、プナンのように生態的な課題を「実用的」に達成する以外に、私たちの暮らしの中で、応用的に用いることができるのかもしれない。(・・・)
 パースペクティヴィズムはまた、他者のパースペクティヴィズムから世界を見る方法としてより広く応用可能である。」

(伊藤雄馬「ムラブリとして生きるということ」より)

「パースペクティヴィズムとは、ありていに言えば「見る人が違えば、世界も異なる」という立場のことである。「相手の立場に立って考える」ことをどうやって実践していくかを考える時に、このパースペクティヴィズムはそれに関係の深い多自然主義が重要なヒントになるのではないか、と今も自分は考えている。」

「人の数だけ世界があり、動物やミスなど人以外の世界も無数にある。それが多自然主義やパースペクティヴィズムの見る世界だ。そこでいわれていることはとても魅力的だ。一方で、これまでの科学の営みを否定することにも繋がりかねない。
 パースペクティヴィズムを隙間なく適応すると、「相手の立場にはなれない」という先の問題が浮上してくる。相手の立場になれないのだとすれば、客観的事実にはたどり着けない。科学とは客観的事実によって積み上げられていくものだ。客観的事実がないと、共通の基盤がなくなり、これまで科学的と呼ばれてきた議論は意味を成さないかのように感じられる。もし世界が人によって異なるのならば、別々の世界に住むぼくたちがどうやって言語を用いて議論できるだろうか?」

「パースペクティヴィズムの提示する世界を考える時にぼくの中に起こる混乱は、おそらく自己が一つに限られる、という考えから来ているように感じられる。複数の自己の存在を認めることが、この矛盾を乗り越えていく手立てになると考えるからだ。
 ぼくは少なくともまず、「科学者の自己」と「芸術家の自己」の二つの自己を区別することから始める必要があると考えている。」

「科学者の自己として言語化することには慣れているが、芸術家の自己として感覚を言語化することが難しいと感じる人は多い。どの言葉もしっくりこなくなるのだ。何か言葉を当てはめた瞬間に、自分の感覚ではなくなってしまう。そんな気がして言葉にすることができないと感じるようだ。芸術家の自己の世界は主観的な感覚が全てで、感覚は刻一刻と変化する。それを相手に伝えようとした時に、その術のなさに愕然としてしまうほどだ。つまり、芸術家の自己の世界にいる私たちは「世界は無限に異なる」ため、共有が困難であることを突き付けられているのだ。
 一方で、科学者の自己として言語化する時は、そのような迷いはほとんど現れない。(・・・)科学者の自己は誰もが共有している世界があり、客観的な事実があると考えているのだ。その世界の中では、正しいことがあり、間違ったことがある。それは誰もが同意できる形で共有されうる。つまり、科学者の自己にとって「世界は一つ」なのである。
 このように、科学者の自己と芸術家の自己が感じている世界は矛盾している。」

「科学者の自己にとっては真偽が重要になるが、芸術家の自己にとっては真偽よりも、「自分の感覚に誠実かどうか」、いうなれば「誠か嘘か」の「誠嘘」が指標になる。
 芸術家の自己は、無限の異なりを見せる自己の感覚の世界にいる自己だ。そこで表現する時にできることは、その個別の感覚をなるべく損なわずに言語化することのみだ。」

「現代は科学の時代であり、科学者の自己が優勢である。学校教育では科学者の自己で物事を語ることを訓練し、社会生活でも「個人の感想」を言おうとする芸術家の自己は丁寧に排除される。
 大学教育ではそれが顕著だ。」

「本論の「身体」は、科学者の自己と芸術家の自己が同時存在する瞬間に現れるものであり、多自然主義における身体とは異なる。前述したように、多自然主義の身体は芸術家の自己に近い概念だ。

(・・・)

この二つの自己は相補的で、同時に働く時、身体が現れる。「冷たい」と「温かい」の境界の手が輪郭を持つように、世界と一体となった芸術家の自己を、科学者の自己が捉える瞬間、身体は新しい輪郭を持って生成される。それは身体改造に他ならない。」

(「対談❹ habe notの感性にふれる」より)

「奥野/所有するということに関しては、拙著『人類学者K』(亜紀書房、2022)でも書いたのですが、所有しないこと、「無所有」が基本なんです。われわれは個人所有するということが基本なんですが、プナンは個人所有を否定し、所有しないということが基本です。
 プナンには、無所有を軸として二つのモードがあります。所有しないということが真ん中にあって、一方では、何かを誰かにもらったら、積極的な形で別の誰かに渡すことを率先してやる人がいます。結果、何も所有しない。そういう人がビッグマン(共同体のリーダー)になるわけです。共同体のリーダーは何も持たない。
 何も持たないことがよしとされるのであって、そこから逃れていくことはできません。で、どうなるかというと、反対の極にはせびりまくる人、ねだりまくる人がいるんです。
 一方では、徹底的にもらったものをどんどん人々に回していくことによって、寛大であることで尊敬されるような人。もう一方では、無所有が徳目としてあるので、それに対しては、自分は何も持たないんだけれども、生きていくために、ねだってせびりまくって生きていく人。この二つのモードがあるんです。
 プナンのこの部分が、私たちが生きている現代日本社会とは違う。われわれの社会では、何かを持っていることを基本にして、持つ人と持たない人、haveとhave not に分かれるわけです。われわれの社会では、持つことが目指すべき、至上の価値なんです。持つことが目指されてどのように自分が財産を築くか。モノを持つというのも必要なのですが、まず知識を持つことがそれ以上に大事です。知識を持つこと。知識を所有し、それを財産獲得に繋げるということが行われている。そういったロジックを歩んでいく人と、逆に、知識もモノもお金も持たない人ということがいる。持たない人が have not です。われわれの社会では、所有することが社会の原理としてある。このあたりが、プナンとわれわれの社会ではかなり違うんじゃないかと思っています。」

「奥野/プナンでは贈与交換をめぐるモース的な議論を、敢えて持ち出す必要もない。モースの『贈与論』は、そこでは、正しくもあり正しくもない。われわれは学問を経由しているので、「贈与の霊」、ハウみたいなものが、相手に対して負債をつくり出して、相手はそれを返さなければいけないと思うようになるんだと考えてしまうんだけれども、別にそうでもないんです。」

「奥野/プナンであれマオリであれ、モノを循環させる贈与論は、資本の蓄積と投下、そこに付随する貧富の差を生じさせる仕組みを防いでいるんです。富を人々のあいだでつねに循環させることで、平等主義的な社会を維持していくことができているわけです。富が一カ所に集中しないことにより、権力の遍在が生じないようになっている。」

「伊藤/have と have not のところでも話しましたが、そこから自由になるために、奥野さんの言葉を借りれば、すり鉢の外側に行くために役に立つかもしれないと思っているのが、「三角形」なんです。幾何学的に考えてみることが個人的に好きなんですが、例えばhaveとhave notの二元論が世の中の仕組みですが、そこの中だけで考えると煮詰まる。だから三点目を見つけて、三角形をつくる。have と have not、そしてそれらを成立させている太陽からの視座のような点。太陽からの視座にいれば。たまたま自分がhave側であなたがhave not側だけど、別の場合では逆転することも当然あるということを自覚できると思うんです。
 力学的に三角形って一番安定する形ですよね。その三角形が、色々なところ見出せるなと思っています。いろいろな三角形を見出すために物事には二元性があるのかな、と思ったりもするんです。」

「伊藤/『ムラブリ』を書く時にちょっと意識したことがあって、それは「ぼくたち」と書きたくなるところを、「ぼく」と書くということです。油断すると、すぐ「私たち」とか書いている。
 もちろん、「ぼくたち」と書いているところもあるんですけど、なるべく「ぼく」で通せるところはそう書いたんです。というのは、主語が大きくなると、二元性が自分の中に同時存在するということを、あやふやにしちゃう感じがして。
 だって、ぼくは奥野さんのことが分からないし。編集部の清水さんのことが分からないのに、例えば「日本人」と言えば。奥野さんも清水さんもぼくも、お互いに何か共有できているつもりになってしまう。内省が深まらないんです。カテゴリーとしての「ぼくたち」ではなく、身体を持った個人としての「ぼく」の中で起きていることだと限定することによって、ぼくの中にhaveとhave notの感性が両方ともあることが実感できてくる。両方ともあると感じられるなら、その両方が同時に見えている別の視座がぼくの中にあると感じられてきます。複数の矛盾した自己が自分に中に感じられたら、それは何だと考えざるをえない。
 「自分たち」と言っていたら、自分以外の人は当然違う感性をもつのだから、haveもhave notも両方とも存在するだろうと思える。同時に存在することが不思議に思えなくなる。あまりシリアスには羽化取れない。逃げですね。でも自分という個人の中に二つとも、しかも同時にあるんだと気付いた時に。それらを両立させているもう一つの視座が現れざるをえない状況になるのかなと思っています。
  ぼくはそこの視座に向かうために二元性があると今は思っているんです。それがぼくがムラブと合った意味だと思います。奥野さんもそうなのかなと感じています。」

「伊藤/すり鉢の向こう側に行くこと自体は本質的には解決にならないと思います。すり鉢から別のすり鉢に移動しても、形を変えて同じ苦しみがある。今のままの自分でより似合うすり鉢は見つかるかもしれませんけどね。そうではなくて、どのすり鉢も、それを支えているものがあると気付くこと。日本でもムラブリでも、太陽はあるとか。それを実感するために、すり鉢状世界の外側に行く経験は大事だと思います。」

◎奥野克巳
立教大学異文化コミュニケーション学部教授。著作に『一億年の森の思考法』(2022年、教育評論社)、『人類学者K』(2022年、亜紀書房)『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(2023年、新潮文庫)など多数。訳書にティム・インゴルド著『応答、しつづけよ。』(2023年、亜紀書房)など。

◎伊藤雄馬
言語学者、横浜市立大学客員研究員。1986年、島根県生まれ。2016年、京都大学大学院文学研究科研究指導認定退学。日本学術振興会特別研究員(PD)、富山国際大学現代社会学部講師、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究員などを経て、2020年より独立研究に入る。著書として『ムラブリ』(2023年、集英社インターナショナル)がある。

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