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松村圭一郎『くらしのアナキズム』

☆mediopos-2503  2021.9.23

アナキズムは
華厳の世界観に似ている

絶対的な中心をもたず
すべての存在が
他の存在との関係のなかで
みずからの存在を成立させている

アナキズムは無政府主義ではない
そんな政治運動的なものとしてとらえたとき
それはアンチであることで
国家制度をむしろ裏から強化してしまう

どんなアンチも
相手を批判することで
相手を絶対化してしまい
むしろ相手を支えてしまうことにもなるからだ

権力は国家やそれに準ずるもの
だけにあるのではないから
自覚されていない
みずからの内なる権力意志にこそ
注意を向ける必要がある

批判がむしろ相手を支えてしまうことになるのも
批判するという行為が
みずからの内なる権力意志の
無自覚な裏返しになってしまうからだ

批判するという行為は
それが無自覚になされたとき
みずからを絶対化するベクトルをもつことになる

最初から結論が決まっていて
他者がどこにもいない議論も多いが
そのときそれぞれは
ただ相手に「改宗」を迫っているだけだ
「対話」の可能性へと開かれてはいない

じぶんが絶対的な中心ではなく
関係性のなかで変化していく
そんな存在であるととらえたとき
はじめて「対話」は意味を持ち得るが

アナーキーであることは
そんな可能性を実らせるための
花ともなることができる
まさに華厳のような花の曼荼羅

そこにははじめから決められた
ルールや制度や法や組織は存在しない
それらを絶対化して従うことこそ
みずからの内なる花をスポイルすることになる

逆説的にいえば
みずからを絶対化しないことこそが
人が自立的な存在であるための必要条件であるといえる
自立した存在であるためには
開かれたひとりでなくてはならないからだ

■松村圭一郎『くらしのアナキズム』
 ( ミシマ社 2021/9)

「フーコーの権力論の射程は、本書で扱うアナキズム論を大きくこえている。なので、それをすべてふまえて考えていくことは難しい。だが、アナキズムを考えるとき気をつけるべきいくつかの点は確認しておこう。
 つまり、権力による強制は国家という制度だけにみられるわけではないこと。むしろ国家権力への抵抗が国家という制度を内側から支えている側面もある。そして国家体制への抵抗に力点をおきすぎると、より身近な場で抑圧的な権力関係が生じていて、そこに自分もとりこまれている現実から目をそらしかねないこと。こうした危険性を意識することは、アナキズムをたんに国家や政府の否定にとどまらず、あらゆる権力的なものと向き合う方法を考える視点へと拡張させるはずだ。」
「近代の国民国家モデルとは異なる視点から、一人ひとりが自立しつつ、ともに政治や経済の主体となりうる社会のあり方を考える。それは、これまでもこれからも、人類学の中心的な問いでありつづける。」

「現代のアフリカを代表する人類学者のフランシス・ニャムンジョは、人間を「不完全な存在」とみなす伝統こそがアフリカの民衆的想像力の根底にあると指摘した。彼が注目したのは、ナイジェリアの小説家チュツオーラが『やし酒飲み』で描きだした西洋とは対照的な世界認識だ。」
「西洋では、なんでも二元論で切り分けようとする。情動と認識、主体と客体、人間と動物、生者と死者……。でもチュツオーラの世界では、目にみえることとみえないこととが分けられておらず、超自然的な存在と生きている人間との垣根もない。人間が植物になったり、神になったり、精霊になったり、半分男性で半分女性だったり、変幻自在に姿を変える。いろんな「存在」のあり方が可能な世界なのだ。」
「世界は流動的で、つねに変化しつづけている。そこでの「人間」は、いつも不完全な存在にすぎない。でも、不完全だからこそ、同じく不完全な他者との交わりのなかに無限の変化の可能性が生まれる。このアフリカの民衆的想像力についてのニャムンジョの議論は、とてもスケールが壮大だ。でも、ふつうにエチオピアで出会う人の姿とも重なっている。」
「不完全な存在どうしが交わり、相互に依存しあい、折衝・交渉する。ニャムンジョは、そこにある論理を、「コンヴィヴィアリティ(共生的実践)」という言葉でとらえた。この言葉には、さまざまなニュアンスがある。寛容、包摂、相互依存、強調、饗宴など、親密さと疎遠さの緊張関係のなかで、自己と他者への配慮のバランスをとる葛藤をはらんだ状況が含意されている。
 ニャムンジョは、この「コンヴィヴィアリティ」こそが、人間が不完全であることを肯定的に評価し、その不完全な状態を問題だと思わなくなる鍵だと指摘している。西洋近代のように完全であろうとする野心や欲求は妄想を肥大化させる。一方、不完全性の肯定は、その妄想を抑制する。
 コンヴィヴィアルな世界では、「改宗」を迫るのではなく、「対話」をすることが異なるものに対処する方法となる。異質なものをすべて包摂することが、その秩序の根幹をなす。自分とは異なる存在は、脅威ではなく、むしろ魅力的なものとして積極的に受け入れられる。」
「ニョムンジョはいう。「コンヴィビアリティは、異なる人びとや空間、場所を架橋し互いにむすびつける。また互いに思想を豊かにし合い、想像力を刺激し、あらゆる人びとが善き生活を求め確かなものとするための革新的な方法をもたらす」。この方法こそが、グローバルに人びとが流動し、あらたなシティズンシップの枠組みが求められる時代にあって、世界が必要とするものなのだ、と。
 このコンヴィヴィアルな対話が、国家や市場のただなかにアナキズムのスキマをつくりだす起点になる。」

「人間が産業主義と機械の奴隷になり、与えられた商品を消費するだけの存在となる。そして自由や自治が失われる。この生産性を基軸とする産業主義の対極にあるものとして、イリイチは「コンヴィヴィアリティ」を提起した。彼はその意味を人びとが他者や環境とのあいだで「自立的で創造的な交わり」をもつことであり、そこに「人間的な相互依存のうちに実現された個的自由」という倫理的価値が産まれると説明する。その視点は、まさにアナキズム的だ。」

「いまぼくらは自分のためだけにお金を稼いで独立し、どれだけ与えたかではなく、どれだけ手に入れたかを誇りながら生きている。そんな時代の消費社会を「未開」とされた人たちがみたら、よっぽど野蛮だと思うかもしれない。」
「そんな日が来ないように、与えるために働き、与える相手がいることを喜び、いろんな人との関係のなかで生かされていることを楽しんだほうがいい。そうやって人間の経済をまわしていく。」

「現在、地球上で国家の統制や商業の経済から逃れられる場所をみつけるのは不可能に思える。どこにアナキズムの可能性をみいだせるのか。たぶん流れに身をまかせているだけでは、その大きな渦から抜け出すことはできない。ささやかな抵抗の場をみいだし、スキマをこじあけていく。そんな動きが必要になる。」
「くらしのアナキズムは、目の前の苦しい現実をいかに改善していくか、その改善をうながす力が政治家や裁判官、専門家や企業幹部など選ばれた人たちだけでなく、生活者である自分たちのなかにあるという自覚にねざしている。
 よりよいルールに変えるには、ときにその既存のルールを破らないといけない。サボったり、怒りをぶつけたり、逸脱することも重要な手段になる。(・・・)
 いやいや、ちゃんとルールを守らないとダメだ。そういう人もいるかもしれない。アナキズムは、そんな間違った真面目さとぶつかる。「正しさ」は、ときに人間が完全な存在であるかのような錯覚に陥らせる。互いに不完全で、でこぼこがあるからこそ、人と人とが補いあって生きていける。そのために、政治や経済がある。
 正しい理念や理想を掲げて一致団結して進むのではなく、たえずそれぞれの「くらし」に立ちもどりながら、能力に応じて貢献し、必要に応じて与えられる状況をつくること。そのために異なる意見をもつ他者との対話をつづけること。そのコンヴィヴィアルな対話には、向かうべき方向があらかじめ決まっているわけでも、ひとつの正解があるわけでもない。」
「だれかが決めた規則や理念に無批判に従うことと、大きな仕組みや制度に自分たちの生活をゆだねて他人まかせにしてしまうことはつながっている。アナキズムは、そこで立ち止まって考えることを求める。自分たちの暮らしをみつめなおし、内なる声とその外側にある多様な声に耳を傾けてみようとうながす。その対話が身近な人を巻き込んでいく。「私たちそんなことをやるために生きているわけじゃないよね?」と。
 ぼくらはときに真面目であるべき対象をとり違えてしまう。大切な暮らしを守るために、日々の生活でいやなことにはちゃんと不真面目になれる。ルールや「正しさ」や国家のために一人ひとりの暮らしが犠牲にされる。それこそがぼくらの生活を脅かしてきた倒錯だ。
 ひとりで問題に対処できなくなるまえに、一緒に不真面目になってくれる仲間をみつけ、そのささやかなつながりの場や関係を耕していく。それが、くらしのアナキズムへの第一歩だ。」

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