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沓掛良彦『オルフェウス変幻/ヨーロッパ文学にみる変容と変遷』/田口義弘『リルケ―オルフォイスへのソネット』

☆mediopos-3176  2023.7.29

リルケの『オルフォイスへのソネット』を
はじめて読んだのは四五年以上まえのことで
中央公論社の「世界の文学 36 リルケ」の
手塚富雄訳によるものだったが

そのときは詩の理解どころか
オルフォイス/オルフェウスのことも
まるで知らないまま
その門の前で佇むばかりだった

その後オルフェウスのことを知るにつけ
なんとか『オルフォイスへのソネット』に
身を寄せてその門を少しでも開きたいと
おりにふれて複数の訳とその解説に
目を通してみたりもしていた

そして数十年経ってようやく
その扉をひらくきっかけとなったのが
沓掛良彦『オルフェウス変幻』(2021)の刊行である
(そして読み始めて二年以上)

それは沓掛良彦でなければなしえなかった
世界ではじめて
ヨーロッパ文学におけるオルフェウス像の
変容と変遷が綴られた一書

本書は詩人・鷲巣繁男に捧げられている
鷲巣氏の亡くなる少しまえ
氏から「古典学者の立場から
オルフェウスについて本を書いてみませんか」
と言われたのがきっかけだそうだ

ほんらいなら鷲巣氏自身
オルフェウスに関する書を「宿願」
としていたようだが
その後まもなく亡くなったことで
それが沓掛良彦に託されたことになる

鷲巣氏が亡くなったのが昭和五七(一九八三)年
六七歳のときだから
そこから四〇年近く経ったことになる

なお、本書刊行というきっかけもあり
鷲巣繁男という稀有の詩人についても
ようやく少しだけ道がひらけてきたところで
鷲巣繁男についても
いずれとりあげてみたいと思っている

さて本書のなかでリルケは
オルフェウスを歌った近代の詩人の筆頭に
挙げられている
『オルフォイスへのソネット』である

リルケはその晩年の一九二二年
「ほとんど天恵を受けたかのごとく
創造の嵐に見舞われ、
第一部はわずか四日間、第二部は九日間という、
信じがたいほどの短時のうちに」
その五五篇を書きあげたという

本書で示唆されているリルケの
『オルフォイスへのソネット』における
オルフォイス像への理解を広げようとした矢先
その全訳と註解のおさめれらた
田口義弘の『リルケ―オルフォイスへのソネット』に
古書店で出会うことになる
(そこからもほぼ二年経つ)

リルケの築いたオルフェウス像は
「生者と死者の世界を来往して、
自然界の超自然的な力を及ぼす
古代のシャーマン的な面影」を残しながらも

「その歌の力によって、神話的宇宙、
純粋な存在を創り出す歌の神」である

「生と死の世界を自由に来往する者として」
「この地上世界の輝きを
死者の国へまで運んでゆく者」
それがオルフォイス

かつてのオルフォイスの歌さえ
無常のうちに消えてゆくものだとしても
(「オルフォイスのために
記念碑を建てることは無駄である」)
歌(詩)のはたらきそのものは
永遠のものだと詠う

そのように
原初の詩人の死を悼みながらも
「歌というものの遍在と永続、絶えざる再生」が
歌われることによるオルフォイス賛歌
それがリルケの『オルフォイスへのソネット』のようだ

ようやくその主題への理解へと
門がひらかれはじめたことを悦びたい

■沓掛良彦『オルフェウス変幻/ヨーロッパ文学にみる変容と変遷』
 (京都大学学術出版会 2021/1)
■田口義弘『リルケ―オルフォイスへのソネット』(河出書房新社 2001/10)

(沓掛良彦『オルフェウス変幻』〜「序章 オルフェウス像変遷の軌跡————古代から近代までの概観」より)

「「その名も高きオルフェウス」、前六世紀半ばのギリシアの抒情詩人イビュコスが、このわずか一行残った断片でこう讃えて以来、実に二五〇〇年あまりにわたって、オルフェウスはヨーロッパの文学・芸術に巨大な影を落としている。文学・芸術の世界におけるオルフェウスはまさしく不死鳥のごとき存在で、古代から現代にいたるまで、さまざまな形をとり、多彩な様相のもとに再生し続けてきた。今後もおそらくこの現象は続くであろう。リルケは『オルフォイスへのソネット』一九番の中で原初の詩人(Urdichter)であるオルフェウスを、

  変化と移ろいを超えて
  さらに遠く さらに自由に
  なおもおんみの原初の歌がつづいている
  竪琴をもった神よ
  (富士川英郎・『リルケ詩集』3、彌生書房)

と歌っているが、確かに原初の詩人の原初の歌(Vorgesang)は、さまざまな変容をとげながら、時空を超えてヨーロッパ全土の詩の中に、いや微かながらもわが国の詩の中にさえも響いていると言ってよい。欧米の文学・芸術はこの原初の詩人にまつわる神話に深く浸り、それを創造の源としてきた。亡き詩人鷲巣繁男は、文学における不死なる存在としてのオルフェウスと、世界文学におけるその遍在について、こんな卓見を述べている。

  ギリシアの神々、それがいわゆるオリュンポス系であらうがなからうが、現代の世界の人々にとって、もはや過ぎ去った神々であるのに対し、オルペウスのみは国家や民族を超えて、わたしが曽て「彼一人が世界市民権をもつている」と表現したやうに、わが日本の詩人も屢々「オルフェウスよ」などと呼びかけてゐるのである。
(「オルペウスについて」、鷲巣繁男『遺稿集————神聖空間』、春秋社、一九八三年)

 文学、芸術の世界で「世界市民権をもつ」ただ一人の存在、それがオルフェウスである。」

(沓掛良彦『オルフェウス変幻』〜「第六章 ヨーロッパ近代詩に見るオルフェウス像」より)

「オルフェウスを歌った近代の詩人で、その筆頭に置くべきはリルケである。」

「リルケが歌ったオルフェウスの真髄をなすものは、言うまでもなく晩年近くに書かれた『オルフォイスへのソネット』五五篇である。」

「全編がオルフェウス的なものの表現であり、それに充たされているとは言えようが、神話上のオルフェウスそのものをテーマにした詩はさほど多くはなく、とりわけ第二部になると、神話・伝説上の伶人(うたびと)としてのオルフェウスがテーマとなっている詩はほとんど見受けられない。オルフェウスそのものを歌った詩は第一部の冒頭からの九篇として集中的にあらわれ、それらはオルフェウスの歌のはたらきを告げる頌歌であるソネット第一番に始まり、それと呼応する。この楽人・詩人の死と変身を歌った鎮魂歌とも言うべき、第二六番のソネットとは、この詩集における二本の柱であり、アーチであり、通路であって、その間を抜けて全篇にオルフォイスの声が響き渡っているのである。」

リルケがここで築いたオルフェウス像は、生者と死者の世界を来往して、自然界の超自然的な力を及ぼす古代のシャーマン的な面影をとどめながらも、その歌の力によって、神話的宇宙、純粋な存在を創り出す歌の神であり、「オルフォイス的世界」の創造者としてのそれである。その歌の力で、獣たちばかりか山川草木、岩さえも魅惑したという超人的な音楽家としてのオルフェウス神話・伝説を踏まえながらも、この詩においてリルケはその古来の神話・伝説の意味内容を一変させたのだと言ってよい。つまりはこのオルフォイス鑽仰の原理そのものとして提示したのである。これはまさにオルフェウス像の構築と呼ぶに足るものだ。第六番のソネットで、

  彼はこの地上の者だろうか いな 二つの世界から
  彼の広い本性から生まれてきたのだ(一−二行)

と言われ、またソネット第七番では

  彼こそは滅びることのない死者のひとりだ
  死者たちの戸口のなかへ奥深く
  彼は讃うべき果実を盛った皿をささげてゆく(一二−一四行)

と歌われているのが、リルケの創造したオルフォイス像なのである。二つの世界にまたがり、生と死を超越した存在、生と死の世界を自由に来往する者として、「讃うべき果実」つまりはこの地上世界の輝きを死者の国へまで運んでゆく者が、オルフォイスだというのだ。」

「第五番のソネットではオルフォイスのどのような姿、その本質が歌われているのであろうか。先学の口を借りてそれを述べれば、次のようなことになる。

 歌われているのはオルフォイスの歌の、ひいてはそのはたらきによって生まれるすべての歌(詩)の永遠性の問題である。オルフォイスの歌にしても万古不易、この現世にいつまでもとどまっているものではなく、生々流転のうちにあり、常に動態にあって、絶えざる変身(Wandlung)によって生まれ、また消えてゆくものであるということがテーマとなっている。それゆえ、その名をとどめようとして、オルフォイスのために記念碑を建てることは無駄である。なぜなら「歌うものがあるとき/それは必ずオルフォイスだ」(Ein für alle Male/ists es Orpheus wenn wen es singt)。だから記念碑なぞよりは、美しく咲いてははかなく散って行く薔薇の花を咲かせることこそが、オルフォイスにはふさわしいのだよリルケは言う。」

「さて最後に、その歌の力によって、「世界・内部・空間」を生み出し、新たな「オルフォイス的世界」を創成する存在としてのオルフォイス鑽仰の歌であり頌歌であるソネット第一番と呼応する「鎮魂歌」とも言えるソネット第二六番の眼を写して一瞥し、そこに歌われているオルフェウスの姿を窺ってみることとしよう。

(・・・)

 それはオルフォイスの死によって生じた、歌というものの遍在と永続、絶えざる再生を歌った一篇なのである。それは歌の司、原初の詩人の死を悼む鎮魂歌であると同時に、その最終的な勝利を讃える頌歌であり、第一番のソネットと同じく、リルケによって声高く歌い上げられたオルフォイス鑽仰の歌にほかならない。」

(沓掛良彦『オルフェウス変幻』〜「あとがき」より)

「「あんた、古典学者の立場からオルフェウスについて本を書いてみませんか」、詩人は私の眼をのぞき込むようにして静かにそう言われた。一九八二年頃、教えを請うために、私が埼玉の寓居を訪れた時のことである。詩人が白玉楼中の人となられるしばらく前のことであった。鷲巣さんはそれ以前に『饗宴』という高踏的で瀟洒な同人誌に、オルフェウスについてのエッセイを連載しておられ、私もそれを読んでいたので、オルフェウスに関する深い関心と知識をおもちのことは知っていた。当時私はサッフォーを中心にギリシアの叙情詩を勉強していたので、それならばこの男はオルフェウスについても関心があるがずだと思って、そんなことを言われたのだろう。
(・・・)

「これはこの国の古典学者の誰かが書かなければいけない本ですよ、日本の文学者、特に詩人たちがヨーロッパの詩の伝統を理解する上でもね」と詩人は強調したが、それについてのなんの心構えも準備もなかった私は、自分がそんな本を書けるとも思わず、「はあ、いつか機会があったらやってみたいと思います」というような曖昧な答えをしたように記憶している。

 それからしばらくして、鷲巣さんは亡くなられた。オルフェウスについての本を書くことは鷲巣さんご自身の宿願だったようである。だが詩人の早すぎる死によってそれは実現せず、生前に発表された文と、未完のまま遺稿として残された原稿のみが、後に『神聖空間』に収められ、世にでることとなった。詩人の亡き後、残された詩集や著書を読み返すたびに、オルフェウスのことが脳裡に浮かんだ。

(・・・)

 出来映えはともかく、私の知るかぎりでは、刊行された書物としては本書が、古代から現代までの文学におけるオルフェウス像の変遷を追った、世界最初の本ではないかと思う。いかにも大風呂敷で気恥ずかしいが、そういう試みをしたこと自体は無意味ではなかったと思いたい。」

(田口義弘『リルケ―オルフォイスへのソネット』より)

※〈第一部 1)

「すると一本の樹が立ち昇った おお 純粋な超昇!
 おお オルフォイスが歌う! おお 耳のなかの高い樹よ!
 そしてすべては沈黙した。だが その沈黙のなかにすら
 生じたのだ、新しい開始と 合図と 変化とが。

 静寂よりなる動物らが押しよせてきた、澄んだ
 解かれた森のねぐらから 巣から。
 そしてわかった、かれらがそんなにも静かだったのは、
 企みや不安からではなくて

 じっと聴きいっているからだった。唸りも 叫びも 吠え声も
 かれらの心のなかでは小さくおもわれていた。
 そしていまさっきまで これを受けいれるための小屋も、

 暗い欲望からの、戸口の柱が揺れ動く
 隠れ家すらもほとんどなかったところ————そんなかれらの
 聴覚のなかにあなたは神殿を創られた。」

※〈第一部 26)

「しかし神々しい存在よ 最後にいたるまでも鳴り響く者よ、
 しりぞけられたマイナデスの群れに襲われたとき、
 彼女らの叫喚に秩序をもって響きまさったうるわしい存在よ、
 打ち毀す者たちのさなかから あなたの心高める音楽は立ち昇ったのだ。

 あなたの頭と竪琴を打ち毀すことのできる者はいなかった、
 いかに騒ぎ 足掻こうとも。そして彼女らが
 あなたの心臓をねらって投げつけた鋭い石はみな
 あなたに触れると 柔らいでそして聴く力を授かった。

 ついに彼女らはあなたを内下してしまった、復讐の念にいきりたち。
 しかしそれでもあなたの響きは 獅子や岩のなかに
 樹々や鳥たちのなかに留まった。そこでいまなおあなたは歌っている。

 おお 失われた神! 無限の痕跡よ!
 敵意がついにあなたを引き裂いて 遍在させたからこそ、
 私たちはいま 聴く者であり、自然のひとつの口なのだ。」

◎沓掛良彦
1941年長野県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。文学博士。東京外国語大学名誉教授。専門は西洋古典文学。
主な著訳書
『サッフォー―詩と生涯』(平凡社、後に水声社)、『讃酒詩話』、『和泉式部幻想』(以上、岩波書店)、『陶淵明私記―詩酒の世界逍遥』(大修館書店)、『西行弾奏』(中央公論新社)、『エラスムス―人文主義の王者』(岩波現代全書)、『式子内親王私抄―清冽・ほのかな美の歌』、『人間とは何ぞ―酔翁東西古典詩話』(以上、ミネルヴァ書房)、『古代西洋万華鏡―ギリシア・エピグラムにみる人々の生』(法政大学出版局)、『ギリシアの抒惰詩人たち』(京都大学学術出版会)、『ピエリアの薔薇―ギリシア詞華集選』(水声社、後に平凡社ライブラリー)、『ホメーロスの諸神讃歌』(ちくま学芸文庫)、エラスムス『痴愚神礼讃―ラテン語原典訳』 (中公文庫)、オウィデイウス『恋愛指南―アルス・アマトリア』(岩波文庫)、『黄金の竪琴―沓掛良彦訳詩選』 (思潮社、読売文学賞受賞)、『ギリシア詞華集』全4冊(西洋古典叢書、京都大学学術出版会)、など

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