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百瀬文「なめらかな人㉒遙かなるゾーニング」(群像 2024年1月号)

☆mediopos3312  2023.12.12

「ゾーニング」という言葉がある

それはもともと
二十世紀初頭のアメリカの都市で
白人たちが南部から移動してきた黒人たちの
居住区域を制限しようと法令化されていったが
その後人種差別的であり憲法違反であるとされた

現在は感染症の病原体による汚染区域と
汚染されていない清潔区域分けすることを意味しているが

その「ゾーニング」という言葉が
「美術館の会場構成の文脈で」
「よく聞かれるようになった」という

たとえば
「この映像の中には虫がでてきます」
という注意書きのように
「鑑賞者に対する配慮」として表示される

「この映像の中には○○が出てきます」

「この構文の無気味さは、
一見鑑賞者に対し見る/見ないの
選択肢を与える配慮をしているようでいて、
自分たちとあきらかに異なる他者や事物を
「事前に承認が必要なもの」として一方的に名指し、
歓迎されざるもののように扱う無邪気さにある。」

その「配慮」がおこなわれるのは
鑑賞者が不快あるいは不安になるかもしれない
といった危惧からのものだろうが
それは白人たちが
「黒人たちを線の向こうに追いやった人々」の
不快あるいは不安
あるいは病原体に汚染されないようにというそれ
と通底してはいないだろうか

そうした不安や不快は
むしろその線引きや看板ゆえに生まれる
あるいは誘導されるものでもあるのではないか

すべての注意書きがそうだというのではないが
とくに日本では「配慮」ということで
さまざまな場所でそうした線引きや看板が
言挙げされる傾向にある

そして言挙げされることで
言挙げされた者は
実際に体験・経験するまえに
意識の刷り込みを受けてしまう

「標語」好きな日本人ゆえに
こうした「ゾーニング」的なものをはじめ
過剰なまでのアナウンスや
注意喚起などに見られるように
それらは慣例化される傾向が強くみられる

そうした「配慮」あるいは「やさしさ」は
教育的配慮ゆえの「空気」を生み出し
その条件づけのなかで呼吸せざるをえなくなる

その言葉どおり
ひとの意識を特定の「ゾーン」に
閉じ込めてしまいかねないのではないか

■百瀬文「なめらかな人㉒遙かなるゾーニング」(連載エッセイ)
 (群像 2024年1月号)

「「この映像の中には虫がでてきます、って注意書きがあって驚いちゃったんですよ」
 最近、美大の講評に呼ばれたよいう友人がそうつぶやいた。
 それはある学生の作品で、昆虫が共食いしているような様子は映った映像作品だったらしいのだが、おそらくは虫が生理的に苦手な人に向けてであろう、そういった丁寧な注意書きが近くに貼ってあったのだという。」

「鑑賞者に対する配慮と呼ばれるものは、わたしたちが学生だった頃とはだいぶ変わってきている。そこには見過ごされていたものがたくさんあったはずで、気づいてよかったことがたくさんあったと思う。でもどこか、その「虫が出てきます」という言葉の響きには、ぼんやりとした線が知らないうちに自分の足元に引かれるような、そこはかとない無気味さが感じられたのだった。
 その文言が注意書きとしてあらわれ、安全とされた場所とそうではない場所が区別されることで、虫というものが誰かに不快感をもたらしうる生き物だということが、さもこの世界の前提であるかのように記述されてしまう。すでに自分たちが、大なり小なり虫たちと同じ生活圏で生きているにもかかわらず。
 わたしはべつにここで、自然と人間の共存みたいなこエコロジー的なことを言いたいのではない。この注意書きが持つ効果それ自体に、かすかなおそろしさを覚えるのだ。
「この映像の中には○○が出てきます」
 この構文の無気味さは、一見鑑賞者に対し見る/見ないの選択肢を与える配慮をしているようでいて、自分たちとあきらかに異なる他者や事物を「事前に承認が必要なもの」として一方的に名指し、歓迎されざるもののように扱う無邪気さにある。
 人々が、虫は見たくないものであると堂々と思っているからそういう注意書きをわざわざ貼ろうとするのか、それとも逆に、そういう注意書きは目に入るから、虫は見たくないものであるという感情が人々の意識の中で育っていくのか。
 いずれにせよ、この○○の中には、原理的にはどんな言葉だって居てることができる。それは遠く離れた戦場で撮られた「血まみれの赤子」だったり、「叫び声をあげて逃げまどう人々」だったりするのかもしれない。わたしはその映像に対し、いったん扉の前で足を止めて、見る/見ないという選択肢を持てる側の人間なのだ。そのことを思うと、私はこの優しさに満ちた世界がとたんにおそろしくなる。」

「「ゾーニング」という言葉はもともと、二十世紀初頭のアメリカの都市で、土地利用の規制を指して使われだした言葉である。より良い労働環境を求める黒人たちの南部からの大移動が始まったことで、白人たちは自分たちの居住環境が彼らに脅かされることをおそれた。そうして、黒人の居住区域を制限しようとする動きがはじまった。各都市でこれらは次々に法令化されていった。土地の管理という大義名分のもとに、白人たちは自分たちにとって好ましくないものたちを堂々と隔離できるようになったのだ。
 その後、この人種差別的な法令が憲法違反であるという判決が裁判所によって下され、長い時間がたったあと、なぜか遠く離れた日本でゾーニングという言葉が再びよく聞かれるようになった。しかも自分が一番馴染み深いはずの、美術館の会場構成の文脈でその話はよく出てきた。」

「線を引き、看板を立てて、見る/見ないの選択肢を与えるもの。それはいったい誰の、何に対する不安なのだろう、と思う。自分たちにとって不都合なもの、好ましくないものは、その立て札が立てられたまさにその瞬間に、その言葉が頭の中で再生された瞬間に、わたしの中に生まれたのではなかったか。
 不安は、常にその不安の根源を排除しようと試みる。だからこそ、この感情をいったん自分のなかに受け入れた上で、それがほんとうに妥当なものであうかどうかを考えなければいけないのだ。かつて、黒人たちを線の向こうに追いやった人々を強く突き動かしていたのも、また不安という感情だったのだから。」

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