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小野 文・ 粂田 文(編)『言語の中動態、思考の中動態 』

☆mediopos2817  2022.8.4

「中動態」という概念は
國分功一郎『中動態の世界』(二〇一七)以来
ある程度定着している感があるが

それは能動−受動・主体−客体という
言語と主体と認識の枠組みを問い直すための
重要な鍵概念として
思索を促す契機となり得ているからだろう

言語学における中動態概念は
古典ギリシャ語研究のなかで培われてきたが
その研究が本格的になされるようになったのは
一九五〇年にヴァンヴェニストが
「能動vs中動」という対立として
中動態を定義してからのことで

その後一九六〇年代からはバルトやデリダ
そして近年ではアガンベンやラトゥールが
その概念を使った思索を行っている

個人的にいえば「中動態」という言葉を
はじめて目にしたのは木村敏の論文で
それに坂部恵が注目していたことからだったが
ちょうど上記の國分功一郎の著作がでて
ようやくある程度まとまった理解を得ることができた

中動態という概念が魅力的なのは
能動と受動つまりは主体と客体という
二項対立を批判的に問いなおす契機となるからだ

私たちの思考は言葉から導かれる
概念のないものは世界として顕れにくい

「私」であるという主体を問いなおす際にも
私という主体が客体である世界に働きかける
客体である世界は私という主体によって働きかけられる

そうした能動と主体という世界認識の枠組みでは
とらえられない事態がさまざまに存在する

主体−客体・能動−受動という世界認識は
おそらく中動態的な有り様から生まれてきた

中動態が歴史のなかで失われ
能動−受動という態となってきたのは
「私」という主体が「個」として
成立しそれに対応する表現が
求められるようになってきたのだろうが

じっさいのところ「私」という主体はいまだ
そんなに確固としたものではなく「不安定」であり
主体以前の無意識的な有り様をさまざまに呈している

アウグスティヌスが時間について語ったことは
「私」についてもいえることだ
問われないとき「私は私」なのだが
それが問われたとき「私」のことがわからなくなる

「私」とはいったい誰だろう
「私が考える」ときいったい誰が考えているのだろう
「私が行為する」ときいったい誰が行為しているのだろう

中動態という概念は
そうした問いを誘発してやまない

■小野 文・ 粂田 文(編)
 『言語の中動態、思考の中動態 』
 (水声社 2022/2)

(小野 文「はじめに」より)

「言語学における中動態概念は、まずは古典ギリシャ語研究のなかで、その後のラテン語(デポーネント)、さらにはインド=ヨーロッパ諸言語と言われるヨーロッパの諸言語研究(再帰代名詞や中道相、中間構文)のなかで培われてきた。すでに古典ギリシャ語においても受動態にとって代わられようとしていた「虐げられた態」の感が強い「中動」であるが、それを「能動/中動」の対立において捉え直そうとしたのがヴァンヴェニストである(小野)。この中動態はヨーロッパ諸言語に痕跡を残しているが、顕れ方は一様ではないというのが、個別言語研究を通して窺える(北條)。勉強会のなかでは、この「中動態的な言語事象」は、日本語のなかにも見いだせると私たちは考えた。本居春庭の『詞通路』(一八二八)では動詞の自他を論じつつ、自他を二項対立ではなく複層的に捉えようとする考え方がすでに述べられている。この日本語における「自ずから」「然する」という中動態の思考の行方については、本論文集では専門家の研究発表が得られなかったが、東洋と西洋の「思考」と「瞑想」の在り方を考察する際の一つの切り口となりそうである(熊倉)。西洋哲学においては、〈行為が自らの行為を支配し切れない〉(荒金)という中動態的な世界認識は、「主体・客体」という二項対立の捉え直しを可能にし、。近代的自我としての「私」にゆさぶりをかける。一方、ヴァンヴェニストの諸論文に通底する〈ことばにおける主体性の問題〉(小野、郷原)は、言語行為のなかで生起しては変容する「私」という、もう一つの「私」のあり方を提示している。こうした「言語」と「私」の関係をめぐる省察は、当事者性の問題へと繋がり、自閉スペクトラム症など未分化の世界で生きるクライエントの主体生成とそれに対する心理療法のあり方や(藤巻)、想起文学において回想して語る「私」とは誰か、そこから浮かびあがる過去のイメージとは一体誰ののなのか(桑田)といった問題、さらには文学テキストの語りにおける非人称の意味(郷原)を考える際に示唆に富むものとなる。そして、西洋社会が生み出した「私」の幻想をのり越えんとする思考の行き先は、究極、〈私は考えない、ゆえに私は存在しない〉(熊倉)ということなのかもしれない。」

「ヨーロッパの思想界においては、一九六〇年代後半から、バルトやデリダを始めとする、ポストモダンの思想家たちがこの概念に注目し議論の対象としてきたが、近年ではアガンベンやラトゥールが鍵概念として「中動態」を用いている。一方、日本において中動態への注目は二〇一〇年代から徐々に始まっていたが(木村敏「中動態的自己の病理」〔二〇一〇〕、『あいだの生命』〔二〇一四〕所収、森田亜紀『芸術の中動態』〔二〇一三〕)、二〇一七年の國分功一郎『中動態の世界』の出版で一気に認知度が高まり、また議論も盛んになっている。一時は様々な思考や現象に「中動態」という概念を適用してみることは硬派はジャーナリズムの書き手たちの趨向となった感もあった。現在、「中動態」という概念は、日本の思想言論界にある程度の市民権を得た用語となっている。」

(荒金直人「中動態は〈主体・客体〉構造の突破口になるのか?――ラトゥールの「出来事に超過された行為」を手掛かりに」より)

「「中動態」という言葉は、「能動態」と「受動態」のどちらでもない、中間的な「態」が存在するかのような印象を与える。そしてそれは、言語的にどのような「態」を指しているのだろうかという疑問を抱かせるとともに、直ちに、能動と受動の二項対立の裏をかく、批判的な概念としての可能性を感じさせる。我々はしばしば現実を、「能動」と「受動」の対立構造、あるいは能動的な「主体」と受動的な「客体」の対立構造を頼りに理解しているが、もしかするとこのような構造は、何か重要なものを見えなくしてしまっているのかもしれず、中動という概念は、この構造を解体して、我々の視野を広げてくれるかもしれない、というわけである。
 國分功一郎の『中動態の世界』、その中でも特に、中動態について直接的に論じている第一章から第六章までは、この概念にゆいて改めて正面から考えてみる意欲を掻き立ててくれた。そして私は、この概念の批判的射程について、私自身の問題意識の中で整理しておく必要があると感じた。私自身の問題意識とは、ブリュノ・ラトゥールの思想との関係である。ラトゥールは、『近代の〈物神事実〉崇拝について』の中の「いかにして「出来事に超過された」行為を理解するのか」と題された節の中で、中動態について言及しながら、彼の思想の極めて重要な側面について説明している。」

「中動態は、主体の存在を前提にし、その上で、主体が自らの行為の影響を受けることを示す。したがって、そこでは主体の存在は否定されないが、不安定化される、このような主体に不安定化という事態には、主体と客体という対立項を軸にして、両者が担う能動的・受動的関係によって現実を整理し、理解する構図、いわゆる〈主体・客体〉構造を、大きく揺るがす要因が含まれている。それゆえ、この構造を問題視しようとする思想が中動態に注目するのには。充分な理由があると言える。
 能動性と受動性が共に前提とする「支配性」を問題にし、〈主体の行為が主体に反作用するために主体が行為を支配し切れない〉という状態を世界の通常の在り方として一般化するラトゥールの思想は、ヴァンヴェニストによる中動態の定義にそれなりに忠実でありながら中動態というものの言語学的な意味を思想的に展開するものとして、評価できるのではないだろうか・このような方向からであれば、中動態によって〈主体・客体〉構造を脱構築する試みも、有効なのかもしれない。
 ただし、そもそもこの〈主体・客体〉構造が、どの程度まで実際に我々の思考を支配しているのか、あるいは支配しきれていないのか、それはまた別の問題である。少なくともヴァンヴェニストは、能動態と受動態の区別自体が自明なものではなく、むしろ言語体系におけるその必然性を理解することから始めるべきだと述べていた。多少類似した仕方で、我々もまた、〈主体・客体〉構造を自明なものと見做してそれを崩そうとするのではなく、その構造の有効性と必然性をある程度まで認めながらも。それにも拘わらずその構造は最初から完全には成立していなかったということを理解することから始めるべきだろう。
 行為者は自らの行為を支配し切れずに「出来事に超過されている」というラトゥールの中動態的な観点からは、一般論として、〈主体・客体構造という概念的な行為者〉もまた、自らの行為を支配し切れていない、というところまでは言えそうである。その構造の実際の不完全な支配形態と、その支配の度合いに関しては、別の種類のより具体的な考察が必要になるだろう。」

《目次》

はじめに
バンヴェニストにおける中動態――その来し方と行方を辿って
小野文
ドイツ語の再帰的表現と態に関する意味論的再考――身体運動および精神活動の分節表象とその言語化を中心に
北條彰宏
中動態は〈主体・客体〉構造の突破口になるのか?――ラトゥールの「出来事に超過された行為」を手掛かりに
荒金直人
〝もう一つの〟芸術、〝もう一つの〟哲学
熊倉敬聡
中動態と非人称――「書く」は中動態か?
郷原佳以
心理療法と中動態――治療者が参与する主体の変容/生成の過程
藤巻るり
思い出しながら語る、語りながら思い出す――マルセル・バイアー『カルテンブルク』における中動態らしきもの
粂田文
謝辞――「あとがき」に代えて

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