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西村章『スポーツウォッシング/なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』

☆mediopos3294  2023.11.24

スポーツウォッシングとは
「為政者に都合の悪い政治や社会の歪みを
スポーツを利用して覆い隠す行為」である

つまり悪事の洗濯(ウォッシング)

スポーツの政治利用は
最近になってはじまったことではない
1936年のベルリンオリンピックが先駆で
それが注目されるようになったのが
東京オリンピック2020で
オリンピックだけではなく
さまざまなスポーツ大会において
「洗濯」が行われてきていることが注視されはじめている

なぜスポーツイベントが利用されやすいのか

スポーツイベントの開催は基本的に
①主催者/運営関係者
②競技者/参加団体
③メディア
④消費者
で構成されているが

それぞれとそれらの関係性において
「類型的で窮屈で旧態依然としたスポーツの捉え方」が
「洗濯行為」を可能にしている

まず問われなければならないのは
「スポーツとは何か」ということだが
個々人がスポーツを楽しむときには
「洗濯行為」は働く余地はない

スポーツの好き嫌いやそれへの関心は別として
スポーツとされる競技を通じて
競い合いながら自他を高めていくことには
それなりの意味・意義はあるだろうが

それが「社会にとって」となると
しかもそれが公共的な組織運営のかたちをとるとき
上記のような4つの構成要素が必要となり
それぞれの立場での利害がそこに関わってくる

学校単位でのスポーツは
競技者個人を超えた学校同士の競い合いとなり
地域単位でのスポーツは
地域同士の競い合いともなり
国単位でのスポーツは
国同士の競い合いともなり
それらはともすれば
「よく落ちる〈洗剤〉として〈政治〉」的に
利用される価値が高まる
特にオリンピックはその「温床」である

本書のなかでもっとも興味深いのは
柔道家でもある山口香の
「スポーツをとりまく旧い考えを変えるべきときがきている」
という話である

表向きはスポーツには政治を持ち込まないのが原則だろうが
スポーツイベントにおける現実はそれとはまったく逆で
政治的な課題につながる人権問題なども
アスリートの姿勢として問われたりもすることも多い

たとえば差別の問題にしても
「差別は政治じゃなくて人権の問題」だが
「差別を人権問題なんだとスポーツ選手が訴えて、
その差別をなくすために何か法律や制度を変えるとなったら、
そこはもう政治」になってしまうことになる

おそらくさまざまな問題において
スポーツ=政治となると
そこでスポーツが「よく落ちる〈洗剤〉」として
利用されやすくなるのである

国威発揚のために国がお金をだして
金メダルをたくさん獲得させようともするのが実際だが
そうすると「国のために戦う」というように
国家とスポーツが切り離せなくなってしまう

「スポーツウォッシング」から自由になるためには
スポーツほんらいの目的(があるとすれば)に立ち返り
「国家同士の争い」のようなものから離れ
選手たちも観戦するひとたちも成熟することが求められる

「選手の側も国威発揚の戦略に乗らないように、
勝ったら素直に喜ぶ、負けても潔く相手を称える。
ウォッシングの道具に利用されないように、
スポーツの世界をつくっていくしかない」

「スポーツウォッシングを仕掛けようとしたんだけど、
アスリートや観戦している人たちのほうが
ずっと成熟しているから、全然乗ってこないじゃないか」
という状態になっていくのが理想」だという

現状はその理想とはほど遠く
メディアは「勇気と感動」といった常套句を垂れ流し
観客もその「物語」をこそ享受しようとするがゆえに
それを根拠としてスポンサードも行われ
それを都合よく使った「ウォッシング」が行われる

とくに東京オリンピック2020以降
スポーツに限らずさまざまな事件なども含め
あまりにも露骨なまでの「ウォッシング」が起こっているが
そのことへの気づきを契機として
「成熟」へと向かえばいいのだが・・・

■西村章『スポーツウォッシング/なぜ〈勇気と感動〉は利用されるのか』
 (集英社新書 2023/11)

(「はじめに」より)

「スポーツウォッシングという行為は一般に、「為政者などに都合の悪い社会の歪みや矛盾を、スポーツを使うことで人々の気をそらせて覆い隠す行為」と理解されています。これは稚拙な陰謀論や為にする批判のための批判などではなく、自分自身がスポーツの現場で長年取材してきた経験と照らし合わせてみても、実際に世界のあちらこちらで発生していることです。

 では、スポーツウォッシングというものはどういうメカニズムで作用し、誰が誰に対してどのように働きかけ、これによっていったい誰にどんな弊害が生じるのか。また、スポーツの世界に関わる当事者たちは、この問題をどう捉え、どうすればどの程度どんなふうに是正していくことができると考えているのか。考え始めれば次々と湧いてくるさまざまな疑問を、スポーツ界に関わりが深く、スポーツと社会に関する深い知見を持つ人々に訊ね、また、自らの取材経験などをもとにして考察を進めてゆきました。

 取材を進めてゆくにしたがい、現代社会とスポーツが接するところに生じるさまざまな問題点が、少しずつはっきりよした像を結んできました。

 スポーツに政治を持ち込んではならない、と人々が言うときの〈政治〉とは、何を指しているのか。国家的プロパガンダや偏狭なナショナリズムの圧力から距離をおき、自由と可能性の象徴であるはずのスポーツが、平等な人権を求める声を政治的発言と見なして抑圧するようになっていったのはなぜなのか。行動するアスリートたちは、どうして何も発言しようとしないのか。彼ら彼女らをそうさせている、すなわち「ひたすらスポーツに集中する」ことを求めているのはいったい誰なのか。

 そこには、誰の目にもわかりやすい絶対的な巨悪が隠れているわけではありません。大きな問題から人々の気をそらし洗い流そうとする〈社会的洗濯行為(ウォッシング)〉のツールとして、爽快で愉快で痛快なスポーツが利用されるのは、スポーツに対する我々の理解が、洗濯行為をしようとする人々にとって都合のよいものになっているからです。つまり、スポーツイベントを開催する運営組織やそこで競技をするアスリートたち、それを報道するメディア、そして競技会場や家庭でスポーツを観戦する我々の、類型的で窮屈で旧態依然としたスポーツの捉え方こそがこのような洗濯行為を可能にしている、というわけです。

 なぜ、そんなことになってしまうのか。では、どうすればいいのか。」

(「第一部 スポーツウォッシングとは何か/第一章 身近に潜むスポーツウォッシング」より)

「人々の興奮と共感と感動を集める大規模スポーツ大会がソフトパワーをテコにして、開催地に都合の環売り事実をヴェールの下へ覆い隠してしまおうとする行為には、おしなべてスポーツウォッシングという指摘があてはまるだろう。これに利用されるスポーツ大会は、ゴルフや競馬からモータースポーツ、サッカー、そしてオリンピックまでじつに多岐にわたる。また、スポーツウォッシングを使って自らに都合の悪い事実を洗い流そうとする国家や政権は、独裁国家や権威主義的体制に限ったことではない。」

「批判の対象とされるスポーツウォッシング行為は、近年になっていきなり発生したわけではない。当然ながら、行為そのものは用語がこの世に登場するはるか以前から存在していた。」

(「第一部 スポーツウォッシングとは何か/第二章 スポーツウォッシングの歴史」より)

「スポーツの政治利用は、なにも近年になって始まったことではない。ことスポーツウォッシングに関する限り、その先駆とされるのが1936年のベルリンオリンピックであることは、広く指摘されている。」

「一般的には、日本のアスリートたちがスポーツ以外の「世界の様相」に対して発言し、コミットしていくことを歓迎しない風潮は今も根強い。新聞のスポーツ面やスポーツコーナーは、試合やレースの「感動」と「興奮」にのみ特化して。世の中で起きている出来事をそこから遮断し、まるで無菌室か密閉空間のようにスポーツを扱う姿勢は昨日も今日も変わらない。そしてそれは、たぶん明日も続いている。

 しかし、健全な批判精神や叛骨心をないがしろにして、あまりにも無垢でナイーブなスポーツの偶像化にのみ集中する態度は、スポーツを使って人々の心や気持ちを〈洗濯〉しようとする行為に対して、あまりに無力だ。それどころか、むしろそのウォッシング行為を利することにすらなってしまう場合もあるだろう。

 では、このスポーツウォッシングという行為は、いったいどのような機序で人々に作用をこたらしてゆくのか。」

(「第一部 スポーツウォッシングとは何か/第三章 主催者・競技者・メディア・ファン 四者の作用によるスポーツウォッシングのメカニズム」より)

「スポーツイベントを構成する要素は、以下のように大きく区分できるだろう。
①主催者/運営関係者(・・・)
②競技者/参加団体(・・・)
③メディア(・・・)
④消費者(・・・)」

「このウォッシング行為の主体をとりまく各構成要素の①〜④も、それぞれに影響を与え合う利害関係がある。「①主催者/運営関係者」と「②競技者/参加団体」は、参加登録と出場権の付与という関係。「②競技者/参加団体」と「③メディア」は、取材行為と、それによって発生する物語の提供。「③メディア」と「④消費者」は、情報の提供と購読・視聴による経済活動の支持。「④消費者」と「①主催者/運営関係者」は、競技大会(娯楽)の提供とその認知による競技人気の下支えと正当性承認、等々。」

「スポーツが持つ筋書きのないドラマ性や、人々の心を震わせる感動的場面の下に潜む作為が露骨に見えるのなら、ファンであることをやめるのは簡単だ。しかし、それらの〈洗濯行為〉を見抜くのが難しいからこそ、あるいは、洗濯行為であることをなんとなく感じながらもスポーツの魅力にどうしても引き寄せられてしまうからこそ、現代のスポーツウォッシングは厄介なのだ。しかも、そんな厄介さを感じさせない顔をして、スポーツウォッシングは我々の近くにさりげなく存在している。

 だからこそスポーツイベントと社会、競技者、スポーツファンの〈健康的〉な関係はどうあるべきか、ということが問われている。」

(「第二部 スポーツウォッシングについて考える/第四章 「社会にとってスポーツとは何か?」を問い直す必要がある ──平尾剛氏に訊く」より)

「「アスリートは、自分が社会に対して影響力を持っていることを自覚しているはずです。だって、子供たちに夢を与えるとか人々に感動を与えるとか言っているわけですから。自分の存在や発言は社会に対して何かしらの影響力がある、yとわかっているにもかかわらず、その社会に向けた発言だけが、なぜかいつも空洞のようにポコンと抜けている。それにずっと違和感があります。
 いちように言葉が軽く、『感動を与える』『勇気をもらう』という常套句や定型表現に乗っかってしまうことがすごく多くて、取材するメディアの側もその定型句でくくってしまう。スポーツって本当はもっと豊かなものなのに、そこが切り捨てられてしまって、うまく伝わっていかない。
 だから、スポーツに対する薄っぺらなイメージが作られて、誰も踏み込んだことを言わないし批判もしないし、『なんだかんだいっても皆が感動するしね』と政治利用されるんです。
 要するに『汚れがよく落ちる洗剤だな』っていうことですよ(笑)」」

「「スポーツとは何だろう、社会にとってスポーツとはどういう存在なんだろう、ということを我々は問い直さなければなりません。そうしなければ、スポーツはいつまでも、よく落ちる〈洗剤〉として〈政治〉に利用されっぱなしです。
 でも、そこにスポーツウォッシングという補助線を引くことができれば、アスリートや競技関係者たちが都合よく利用されていると気づけるだろうし、その認識ができれば防衛策を練ることもできる。『社会の中でスポーツの役割って何だろう。スポーツの価値を高めていくために、自分たちは何をしていけばいいのだろう』という議論にも進んでいくことができるという気がします」」

(「第二部 スポーツウォッシングについて考える/第五章 「国家によるスポーツの目的外使用」その最たるオリンピックのあり方を考える時期 ──二宮清純氏に訊く」より)

「「現在、私は中国5県の広島、山口、島根、鳥取で活動するさまざまな競技のクラブを支えるプラットフォーム〈スポーツ・コラボレーション5〉のプロジェクトマネージャーをしているのですが、企業に支援をお願いすると、『広告費に見合う費用対効果はありますか』と必ず聞かれます。
 それぞれのクラブは、老若男女が〈する〉〈見る〉〈支える〉という役割を分担し、入れ替わりながら、地域のコミュニティの核になることを目指している。この活動を通じて皆が健康になって親子の会話が弾むかもしれないし、地域の活性化を通じて観光資源になるかもしれない。だから、『費用対効果はやってみなければわからないけれども、一緒に子供を育てるような考え方で、そのために皆が少しずつマンパワーやお金などを出し合うパートナーになっていただけるのであれば非常にありがたい』という説明をするようにしています。
 スポーツは元々、公共財という側面が大きいので、そこに出資する企業にとっても元が取れるか取れないかという費用対効果以上に、これからはその公共財をともに育てるという発想や役割が重要になってくるのではないかと思います。」

(「第二部 スポーツウォッシングについて考える/第六章 サッカーワールドカップ・カタール大会とスポーツウォッシング」より)

「活字メディアの動向を見渡してみると、「政治的」な問題に注目が集まったサッカーワールドカップ・カタール大会は、日本でもスポーツウォッシングについて多少なりとも議論を広げる効果があったようだ。
 しかし、放送メディア、特に地上波テレビ放送は総じてこの問題を取り扱わない。腫れ物に触るどころか、むしろ「君子危うきに近寄らず」とでもいうような沈黙が続いている。
 なぜテレビはスポーツウォッシングの問題から目をそらし、距離をおき続けるのか。」

(「第二部 スポーツウォッシングについて考える/第七章 テレビがスポーツウォッシングを絶対に報道しない理由 ──本間龍氏に訊く」より)

「日本のテレビ放送は徹底して無色透明なスポーツ中継に終始した。視聴者の話題が、日本代表チームの試合内容に集中するのは当然とはいえ、波風を立てず当たり障りのない中継をよしとするメディアや企業の姿勢は、スポーツを鑑賞するファン/視聴者の態度の合わせ鏡でもある。
 つまり、「スポーツに政治を持ち込まない」という大義名分の傘の下で社会に無関心であり続ける姿は、日本のメディアや企業姿勢の問題であると同時に、アスリートたちや、そしてそれを支えている我々自身の問題でもある。
「スポーツに政治を持ち込まない」ことはオリンピック憲章にも記されている。だが、はたしてそれは、アスリートたちが世情に背を向け黙っていることと同義なのか。」

(「第二部 スポーツウォッシングについて考える/第八章 植民地主義的オリンピックはすでに<オワコン>である ──山本敦久氏に訊く」より)

「「政治」と「人権」の境界はどこにあるのだろう。そこに線を引いて区別することははたして可能なのか。そもそも、なぜ人々はスポーツの舞台に「無菌室」であることを求め、アスリートが沈黙することを容認するのか。」

「「スポーツには社会変容を促す力があると私は信じていますが、ずっと将来の目から振り返ると、1968年のメキシコオリンピックや2021年の東京オリンピックがターニングポイントとして見えてくるかもしれないですね」
 大学の講義で話をしていても、今の大学生や大学院生たちはオリンピックに対して冷静で醒めた受けとめ方をしているという。
「授業では、もしかしたらオリンピックのことが大好きな人たちもいるかもしれないから嫌がるかもしれないな、と思いながらも話すんですが、あまり反発はないですよ。それだけ、今の若い子たちにとってはオリンピックなんてどうでもいいコンテンツなのかもしれません。むしろ、ディズニーランド批判やアイドル批判をしたほうが怒られるでしょうね。そっちのほうが、彼ら彼女らにとってははるかにセンシティブな問題だから(笑)」」

(「第二部 スポーツウォッシングについて考える/第九章 スポーツをとりまく旧い考えを変えるべきときがきている ──山口香氏との一問一答」より)

「山口/「差別は政治じゃなくて人権の問題なんだ」というのは、私も確かにそのとおりだと思います。でも、その差別を解消するために法律や制度を変え、決めていくのは、いったいどこなんですか、ということでもありますよね。
 差別を人権問題なんだとスポーツ選手が訴えて、その差別をなくすために何か法律や制度を変えるとなったら、そこはもう政治じゃないですか。「政治」という言葉を使わないところに意味があるとは思うけれども、でも、結局は政治のシステムに行きつくような気がします。
(・・・)
 山口/私は、スポーツというものは何か大きな荒波を一気に起こすようなものではなく、たぶん小さなさざ波を起こり続けていって、それが少しずつ広がっていく、そういうことだったらできるんじゃないかと思っているんです。おそらく、スポーツ選手たち自身もそう考えていると思う。」

「山口/なぜ国がスポーツに対して強化費を使うのかといえば、お金をかけることによって競技を強くして、それを通じて国家のプレゼンスを向上させるという目的が一部にはあるからですよね。だから、東京オリンピックでも、金メダルを何個獲りました、お金をかけた意義がありました、という話になる、
 でも、「もうそろそそ、そうじゃなくてもいいんじゃないか」という考え方も一方では広がりつつあります。日本人を勝たせて日本の名前を上げようとするから国もお金も投入するし、そうなれば国家とスポーツを切り離せないことになってしまう。」

「山口/私もずっと戦ってきた人間だから、金メダルだ銅メダルだと、こだわりたくなる気持ちもわかるんですが、人間同士の競い合いをもっと広い心で眺めることができるようになれば、国同士のメダル争いだって、「何か意味ありますか?」というふうにだんだんなっていくんじゃないか。
 スポーツって、本来はそういうものなんですよ。好敵手に巡り合うと、その人と戦いことで自分自身がさらに高まる。その人がいなければ、自分はここまでくることができなかった。競技を通じてそういった謙虚さや感謝の気持ちが伝播していけば、世界の人々ともっと高め合っていける。その考えをスポーツを通じて体現していくためには、「もう国家同士の争いじゃないでしょ?」ということを、いち速く私たちは見せていかなければならない。」

「山口/オリンピックって、元々は貴族のアマチュアスポーツから始まっていますから、やっぱり貴族の遊びなんですよ。ノブレス・オブリージュの精神で、自分たちが得たものを分け与える、というふうには一応なっていますけれども・・・・・・。
 ————彼らが去った後はぺんぺん草も生えないですよね。」

「山口/スポーツってほんとうはもっと自由で伸びやかなものなのに、先ほどのトランスジェンダーの問題もそうだけど、どんどん窮屈で小さくなってしまっているように見えます。排除するのではなく、どうすれば受け入れることができるのか、と考えるところからコミュニケーションも生まれてきます。」

「————選手たちも、より成熟することが求められる・
 山口/そうです。選手の側も国威発揚の戦略に乗らないように、勝ったら素直に喜ぶ、負けても潔く相手を称える。ウォッシングの道具に利用されないように、スポーツの世界をつくっていくしかないんですよ。「スポーツウォッシングを仕掛けようとしたんだけど、アスリートや観戦している人たちのほうがずっと成熟しているから、全然乗ってこないじゃないか」という状態になっていくのが理想ですね。
 ————スポーツを取材する我々や日本のメディアも、「スポーツと〈政治〉を切り離す」という常套句で思考停止をするのではなく、その言葉が意味する中身についてもっと深く考察し、検証していく必要があるのでしょうね。それが、山口さんの言う「世の中に対してスポーツが小さなさざ波を起こし続けていく」ことの一環にもなるのだと思います。」

○目次

はじめに

第一部 スポーツウォッシングとは何か

第一章 身近に潜むスポーツウォッシング
第二章 スポーツウォッシングの歴史
第三章 主催者・競技者・メディア・ファン 四者の作用によるスポーツウォッシングのメカニズム

第二部 スポーツウォッシングについて考える

第四章 「社会にとってスポーツとは何か?」を問い直す必要がある ──平尾剛氏に訊く
第五章 「国家によるスポーツの目的外使用」その最たるオリンピックのあり方を考える時期 ──二宮清純氏に訊く
第六章 サッカーワールドカップ・カタール大会とスポーツウォッシング
第七章 テレビがスポーツウォッシングを絶対に報道しない理由 ──本間龍氏に訊く
第八章 植民地主義的オリンピックはすでに<オワコン>である ──山本敦久氏に訊く
第九章 スポーツをとりまく旧い考えを変えるべきときがきている ──山口香氏との一問一答

おわりに
引用・主要参考文献

□西村 章(にしむら あきら)
1964年、兵庫県生まれ。
大阪大学卒業後、雑誌編集者を経て、1990年代から二輪ロードレースの取材を始め、2002年、MotoGPへ。
2010年、第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞。
2011年、第22回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。
著書に『MotoGP 最速ライダーの肖像』(集英社新書)、『再起せよ スズキMotoGPの一七五二日』『MotoGPでメシを喰う』(三栄)など。

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