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『現代思想 2024年1月号』 特集 ビッグクエスチョン/大いなる探求の現在地

☆mediopos3330  2023.12.30

『現代思想』2024年1月号の特集は
「ビッグクエスチョン/大いなる探求の現在地」

「ビッグクエスチョン」とは
問いがあまりにも「大きい」ために
「その前では専門家と素人の区別がほとんど失われてしまい、
あらゆる人が平等とならざるをえ」ず
「等しくあらゆる人々の足元にひそんでいる」問いである

本書で果敢にも論じられているのはこんな問いだ

「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」
「「ある」とはどのようなことか? 」
「なぜ人を殺してはいけないのか?」

「愛するとはどういうことか?」
「美しいとはどういうことか?」
「人は死んだらどうなるのか? 」

「生命とは何か?」
「宇宙はどのように始まり、どのように終わるのか? 」

「歴史とは何か?」
「時間とは何か?」
「空間とは何か? 」
「言語とは何か?」
「真理とは何か?」

「自由であるとはどういうことか? 」
「戦争のない世界は可能か?」

そしてこうした問いはまさに
「等しくあらゆる人々の足元にひそんでい」るものの
問題集の答えのように答えが与えられている問いではない
それぞれが「思考の自由」のもとに
あえて問い続けなければならない問いである

こうした問いは
「専門家」から与えられる「問い」と「答え」としてだけ
所与のものとして受け取るとしたら
「検索」した結果を信仰しているにすぎなくなる
そしてそれはすでに
「ビッグクエスチョン」ではなくなっている

「ビッグクエスチョン」を飽かず問うことこそが
私たちが知らず囚われている世界から
ヴェールを外すきっかけとなり得るのではないか

逆説的にいえばそうした問いを失ったとき
ひとは現実とされる世界に囚われたまま
そこから抜け出すことができなくなる
あるいはその現実を所与のものとしかみなせなくなる

さて特集記事の最初には
永井均の「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?」
という問いが置かれている

そしてその最後に永井均は
「この現実は」「夢よりももっと夢のような
あり方をしているといえるように思う。」とし
それに対して
「これはいったい何なのだろうか。」と
さらなる問いを添えている

この世界はそのまま現実であり
夢は夢にすぎない
そのように単純に考えるひとも多いだろうし
そうしたひとにとっては
この世界はそうした現実であり夢なのだろうし
ほかのひともそうであるはずだ
と信じることもできるだろうが

少し考えてみるだけで
私が現実としていることと
私以外のひとの現実が
まったく同じであるとはいえないことがわかる

また世界がマーヤ(幻)である
そう考えることもできるだろうが
世界への視線そのものが
世界をマーヤとしていると考えることもできる

見方はさまざまだが結局のところ
現実であり夢であるものそのものについて
「これはいったい何なのだろうか。」
と問わざるをえない

こうした「ビッグクエスチョン」を
おりにふれ問いつづけることは
じぶんの「世界」そしてその「現実」に対して
じぶんがどのように対しているのか
その視点を深めていくことになる

たとえば「死」への恐れがあるとして
その恐れとは「いったい何なのだろうか。」と
問いを深めていくことで
あらたな「世界」が開示される契機ともなり得るのである

■『現代思想 2024年1月号』
 特集 ビッグクエスチョン/大いなる探求の現在地
 (青土社 2024/1)

(「編集後記」より)

「*ソクラテスに戻って考えてみる。すると大いなる問いの本質は、それらが少数の選ばれた人以外には挑戦することすらかなわない未解決の疑問である、ということにあるのではない。むしろその本質は、それらがあまりにも「大きい」ということにある。これらの問題はあまりにも大きいので、その前では専門家と素人の区別がほとんど失われてしまい、あらゆる人が平等とならざるをえないかのようだ。頂上へのルートはたえず開拓され、何度も挑戦されているが、未踏峰はいまだ残っている。あるいは、これらの問題は問われることはなくとも、等しくあらゆる人々の足元にひそんでいる。

*しかしだからといって、これらの問題は壁のように私たちの前に立ちはだかったり、重荷となって私たちを苦しめたりするようなものでもない。なぜならこれらの問題はあまりにも大きいので、最初から一人で解決できるようなものではないからである。むしろこれらの問題の途方もない大きさは人々を対話へとうながす。そのようにして作り出される探求の共同体は、既存の社会秩序にもとづいて構成されるものではないために、逆にそれらを批判的に考察し、さらには再編する視座ともなるだろう。

*本当に誰も登頂したことがないのかわからない山もあれば、注目を集めないがゆえに挑戦の対象とならない山もある。山は無数にあるのだ。あなた自身の山を見つけ登ろうとすることは、私たちが思考の自由を取り戻すきっかけになりうるだろう。」

(永井均「この現実が夢でないとはなぜいえないのか?/夢のような何かであるしかないこの現実について」より)

「「この現実が夢でないといえるか」という問いに対する答えは「いえない」であり、それどころかこの現実は、それの内部で見られるあの夢たちの一種ではないにしても、それに似た何かではあり、むしろもっと大規模な本格的な夢であることに疑う余地はないのだ。それにもかかわらず、多くの世界解釈はこの事実を無視して成立している。それらはみな、まったく客観的であるか、平等に主観的であるという意味での主観性を許容しているか、どちらかである。どちらであっても、それらはじつは同じ種類のものである。世界が最初から最後まで実は一主体の体験としてしか存在できないようにできている理由はすこしも説明されず、そういう問題意識の微塵もない。

 だから、私にとってこの現実世界は明らかに夢のようなものなのではあるが、これを読んでいる方々にとってもそうであるかどうかは私にはわからない。しかし、方々がもし実在するのであれば、方々もやはりそういうあり方をしているしかないのではなかろうか。もしそうでなければ、方々は文字通り私のこの夢の中の存在にすぎないことになってしまうからである。そうであっても、私としてはべつにかまわないし、私から見れば、どう転んでも所詮はそうであるしかないのだが、この点でが通常の夢とは大きく違って、私には決して分からぬことながら、皆さま方も————カント風に言えば物自体の世界においては————それぞれ夢見の主体として実在しているのではないか、と私は疑っている。おお、しかし、そうだとすると、皆さま方が夢見の主体である世界は、私のこの世界から(重なって存在しているにもかかわらず)なんと遠いことか。そして、そうだとすれば、この現実は(奇妙な言い方になるが)夢よりももっと夢のようなあり方をしているといえるように思う。
 これはいったい何なのだろうか。」

[目次]

特集*ビッグ・クエスチョン――大いなる探究の現在地


この現実が夢でないとはなぜいえないのか?――夢のような何かであるしかないこの現実について / 永井均
「ある」とはどのようなことか? / 納富信留
それをすべきであることを人類はいかに知ったのか?――自然主義的誤謬という「聖剣」を振り回さない / 青山拓央
人はいずれ死ぬのに、なぜ生きなければならないのか? / 小島和男
なぜ人を殺してはいけないのか? / 小手川正二郎
道徳的であるとはいかなることか?――〈内在性の問題〉への前哨 / 江川隆男


愛するとはどういうことか?――共在・観察・融合 / 濱野ちひろ
美しいとはどういうことか?――世界との適合を改めて内から生きる / 小田部胤久
神の存在は証明できるのか?――野生と野蛮の実在論 / アダム・タカハシ
人は死んだらどうなるのか? / 山内志朗
心と身体はどのような関係にあるのか? / 木島泰三

Interlude
問いを問うを問う / 入不二基義


生命とは何か?――矛盾から生ずるダイナミズム / 中村桂子
人間と動物の境界はどこにあるのか?――人間は時間を止めて文明を作った / 山極寿一
人間は自然をコントロールできるのか? / 加藤尚武
人間社会を科学で理解できるか? / 全卓樹
人はなぜ宇宙を目指すのか? / 関根康人
テクノロジーの進歩は止めるべきか? / 長谷川愛
宇宙はどのように始まり、どのように終わるのか? / 佐藤勝彦


歴史とは何か?――「物語論」の視角から / 野家啓一
時間とは何か?――スケールとアスペクト時間論 / 平井靖史
空間とは何か? / 加藤文元
言語とは何か? / 飯田隆
真理とは何か?――神による永遠真理の自由な創造に関するデカルトの理説をめぐって / 津崎良典


自由であるとはどういうことか? / 橋本努
お金で買えないものはあるのか? / 平川克美
もっとも優れた政治体制とは何か? / 森政稔
戦争のない世界は可能か?――目標を正しく設定するために / 三牧聖子

【新連載●現代日本哲学史試論●第一回】
現代日本哲学史をどう語るか――自己認識を目指す企て / 山口尚

【連載●「戦後知」の超克●第三六回】
見田宗介の「近代」と「現代」 / 成田龍一

【連載●社会は生きている●第一七回】
環境とシステム 3――アフォーダンス / 山下祐介

【研究手帖】
人種カテゴリーの社会的機能を記述する / 有賀ゆうアニース

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