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【インタビュー】森田真生「計算から修復へ/小さな庭から始まる新しい思考の可能性」 聞き手=丸山隆一(現代思想 2023年7月号 特集=〈計算〉の世界)

☆mediopos-3149  2023.7.2

現代思想(2023年7月号)で
「〈計算〉の世界」が特集されている

現代はまさに「計算」が
「大きなナラティヴ」になっている

アルゴリズムもずいぶん幅をきかせ
ChatGPTという対話による文章生成さえ
それなりに可能となっている

今後もそうした傾向は進展していくだろうし
そこにはそれなりのポジティブヴ側面もあれば
それにともなったネガティヴな側面もある

これまでの歴史のなかでも
機械は人間のさまざまな側面を
代替・凌駕してきたが
現代そして近未来のAIは
これまでとは質的に異なった
「思考」をシミュレーションするようなところまでも
代替・凌駕していくだろう

わたしたちはそうした点においても
「計算」にかかわる世界から
まったく離れてしまうことはできないだろうが

重要なのは
「計算」というナラティヴに呑み込まれ
ただその影響下におかれてしまうのではなく
そうした「計算」には
決して回収されえないものに目を向けることだろう

それは決して隠されているのではなく
目をふさいだまま気づけずにいる

森田氏がインタビューのなかで
「「開かれているのに隠れている」自然を前にして、
驚き続けている」と語っているように

「計算という一つの概念ではとても汲み尽くせない世界が
目の前に広がり、展開して」いることに気づくこと
「目の前で、完全に開かれているのに、
それでも僕の目には見えていなかった」ことに気づくことだ

「計算」するのは機械である
機械の素材は「自然」の物質を使ってはいるが
機械は生命ではない
感覚や感情や思考が存在しているわけでもない

そうしたものが感じられるとしたら
そう感じられるように
アルゴリズムによってシミュレーションされているだけだ

哲学のはじまりは驚きだというが
たとえAIが驚いたような表現をしたとしても
その驚きは人間のそれではない

世界を見渡してみると
戦争に悪巧みにとウンザリさせられることも多いが
それも人間ならではの
人間にしかできない稚拙なまでのマネーやパワーの争いだ

AIを使った策略はあるだろうが
AIが策略するわけではない
馬鹿と鋏は使いようである
くれぐれも馬鹿にも鋏にも使われてしまわないように

大切な事は
「自分の小さな庭のように足元にある環境から始めて
そこで自分の手を動かしながら
考え、感じ、生きていく」ことだ
そこには「計算」には回収されない豊かな世界がある

■【インタビュー】森田真生
 「計算から修復へ/小さな庭から始まる新しい思考の可能性」
 聞き手=丸山隆一
 (現代思想 2023年7月号 特集=〈計算〉の世界)

(「計算をめぐる旅と、そのゆくえ」より)

「森田/少し前まで誰も世界を計算として見ていなかったのに、いまはそう見えるのがとても自然なことになってきている。とすれば、さらなる未来において、樹が風に揺れているのを見たときに、僕たちは「計算」とはまた別の言葉で「樹が○○している」と思うようになっているかもしれない。計算概念を基盤として、これからさらに実り豊かな概念形成も行われていくと思いますが、いずれにしても一つの概念だけで、自然をすべて汲み尽くせるかというと、そうではないと思います。
 二人の息子たちが生まれてから、僕は庭で植物や虫を見て過ごす時間が増えました。すると、目の前にある事物を、自分がこれまでいかに見えていなかったかと思い知らされて愕然とすることがしばしばです。自然は僕から隠れようとしているわけではありません。目の前で、完全に開かれているのに、それでも僕の目には見えていなかったのです。」

「では自分が語れる言葉とは何だろうと考えたとき、それは庭仕事をしている時間や、子どもたちと過ごす時間など、すごく具体的で近いところに少しずつあるものでしかない。
(・・・)
 では、自分は手を動かしながら考えていること、語れることはどういうことかと自問していくと、僕は、子どもたちとともに日々、「開かれているのに隠れている」自然を前にして、驚き続けているのです。自然の無尽蔵さ、生命の過剰さ、一つの概念で「本質」を摑もうとしたところで、そこから溢れ出していくこの世界の豊かさと複雑さに、僕はいつも心を動かされているのです。
 計算という概念の歴史を書き、それを探求の対象として一冊の本を書いていく一方で、計算という一つの概念ではとても汲み尽くせない世界が目の前に広がり、展開していく。より深く自然の本質に迫る概念を見つけたいという思いはいつしか、「一つの本質」というあり方の外へと溢れ出していく自然のあり方を探求していきたいという願いへ変容していきました。これは間違いなく子どもたちの影響が大きいのですが、本を書く前と後で、僕自身がかなり生まれ変わってしまった、あるいは「変態」してしまったという感覚があります。」

(「〝わかる〟ことの修復的アプローチへ」より)

「森田/修復的アプローチは、すでにあるものと対話をしながらそれをより良くしていくことです。それはとても時間がかかる。しかし現代の世界では、「時間をかける」ことはどうしても避けられてしまいはちですよね。少しでも早くわかりたい————実験、修復を待つよりも一からつくってしまうほうが、ずっと早い場合が少なくないと思います。
 すでに生えている木々のことを尊重しながら地道に庭づくりをしていくよりも、更地にしてしまう方が早い。ですが、そういう乱暴な開発ばかりを無闇に続けていると、生態系の健全な機能が蝕まれていく。少しでも早くわかりたい、というのは差異を欲望する人間にとって自然な要求なのかもしれませんが、その「速さ」にはコストが伴う。そのコストにあまり無自覚なのはとても危ういと思います。」

「————〝わかる〟ことにはコストがかかるのですね。

森田/コストというのは難しくて、経済学者の宇沢弘文さんが『自動車の社会的費用』(岩波新書、一九七四年)で論じていたように、自動車一台つくるためのコストを————環境への負荷や、子どもがのびのびと遊べる場所を奪っていることなども含めて————すべて計上するとなると莫大な額になって。誰も自動車など使えなくなってしまう。だからそのコストをないことにして前に進んでいるわけですが、人工知能にせよなんにせよ、あらゆるテクノロジーにはそういう目に見えないコストがかかっているということは自覚しておくべきです。「つくる」ことが「わかる」ための非常に実りある行為だとしても、同時にいまある生命を修復していくことができないとすれば、「わかる」ためのコストが高くつきすぎてしまう。「わかる」というは純粋無垢なことではなく、小石を動かすとか、紙に文字を書くとかでさえそうなのですが、少なからず環境を改変し、動かすことです。自分の生きている間に少しでもより多くをわかろうということを猛烈に追求するなた、それは環境に対して非現実的なまでに負荷の高い活動になっていく可能性があります。
 修復的アプローチでは、「わかる」ことが同時に他の生命を育むことにもなっていく。これまで僕たちは未だないものをつくり出すことこそがクリエーションであると信じてきたけれど、すでにあるものを生かし、より生き生きとさせていくことも非常に創造的なことです。時にはその過程のなかで、ゼロから何かを生み出すこと以上にわかることもある。このことに僕は希望を感じています。」

(「「計算」というナラティヴを超えて」より)

「————例えばいま世を席巻しているChatGPTなどの大規模言語モデルは、言語の運用という人間固有と思われていた能力を膨大な計算力で実現したように見えます。こうした「計算」の威力が私たちを大いに驚かせています。

森田/いまのAIブームもそうですが、僕たちはこの世界のどこかに注目すべき一つの「大きな流れ」を見出し。そこに意識を集めていこうとする傾向があります。しかし生命の趨勢はとてつもなく複雑ですし、それほど単純に、誰にとっても重要な流れに世界の全体が収束していくということはあり得ないと思います。この世界では常に、渾沌としたいろいろなことがあまりのも多様に起きている。
 先ほど手を動かす話をしましたが、下西風澄さんという在野の哲学者が、『生成と消滅の精神史————終わらない心を生きる』(文藝春秋、二〇二二年)という本のなかで、知覚と行為に関するウンベルト・カルティエらの面白い実験を紹介しています。
 この研究によると、人は目の前にある対象を摑もうとして手を伸ばすろき、指の拡がりであらかじめ調整しているそうです。実際、たとえば目の前のサクランボを摑もうとするときには、指の広がる幅は、リンゴを摑もうとするとくよりも狭くなる。このときの手の拡がりは、無意識のうちに自動で調整されるのですが、面白いのは、サクランボの近くにリンゴを置いておくと、それだけでサクランボだけを摑もうとしたときよりも指の拡がりの感覚が広くなるというのです。
 知覚と行為はカップリングしていて、サクランボを摑むという行為は同時に、視界の片隅にある対象を繊細に感じることを伴っている。
(・・・)
 これほど精密に制御できるだけでなく、環境からの繊細な情報を知覚することもできる僕たちの「手」をはじめとする生身の身体は、いまのところどれほどお金をかけてもこれほどの完成度でつくり出すことはできません。
(・・・)
 思考という流れは、決して人間だけの間を行き交っているのではないと思います。僕たちは思った以上に自分だけでは思考できないもので、例えばいまこうして話しているときにも、窓の外で樹が揺れている。それは僕にとってとても大事なことで、あの動きがいまの自分の思考を少なからず左右している。よりよく考えるために、僕たちは環境を変えていく。窓を開けることや、おしゃべりをするときにおいしいものを食べることもそうです。思考は自分の内側から勝手に湧き出すものではなく、しっかりと通り道をつくったときに初めて流れ出していくものだと思います。」

「————いまのChatGPTには、クリスチャンセンとチェイターが『言語はこうして生まれる————「即興する脳」とジェスチャーゲーム』(塩原通緒訳、新潮社、二〇二二年)で言うところの「ジェスチャーゲーム」的に私たちとともに意味をつくり出すことはできそうもありません。この技術がもたらし大攪乱は果たして言語の発展を助けてくれるものでしょうか。

森田/僕自身はChatGPTと話していると、刺激されて新しいことを考えるきっかけをもらうこともあります。ただ、そのように人間の言語ゲームに合わせてチューニングされていること自体に疑問を持つべきなのかもしれません。多様な言語があり得るなかで、人間のそれだけにチューニングする必要はない。ハチたちはなにをやりとりしているのか、地中の菌糸たちや樹の根と根の間でどんなコミュニケーションをしているのか。そうした人間のまだ知らない言語の世界に人工知能が参画できるようになって、それを僕たちにまた翻訳してくれる時代がきたら面白いと思います。
 その先にあるのはおそらく。自分が「人間(human)」であるという感覚の希薄化、あるいは喪失です。自分たちが「自然(nature)」から切り離された独立の「人間」という主体であるというのは、近代になってつくられた見方です。僕自身はすでに自分が人間であるという感覚を少しずつ失いはじめているのですが、それは、自分を自分でないものから清潔に切り分けようとする発想そのものが維持困難になっているからです。この傾向はテクノロジーの力でますます強まっていくでしょう。
(・・・)
 僕はすでに「人間」を読者として想定すること、あるいは、読者がこれからも「自分は人間である」と感じているであろうと信じて文章を書くことが、難しくなってきていると感じています。もしかすると僕たちは、自分も読者も人間だと想定して文章を書けていた最後の世代になるかもしれません。」

「森田/人工知能がもたらすとされる「危機」に対しても、日本はどちらかというと冷めているというか、冷静なところがありますよね。

————そう感じます。欧米では人工知能の進化が世界の破滅をもたらすもののように論じられていますね。

森田/日本ではそのような危機感を内面化できないひとが多いのかもしれません。しかしそれは必ずしも日本が「遅れている」ということではなくて、人間と自然、人間と機械の関係について、僕たちが違うモデルを持っているということかもしれない。」

「————自分なりのわかり方をつくるのと同様に、大きなナラティヴに回収されない、〝自分なりの驚き〟を見つけることも重要ということでしょうか。

森田/誰かから見たらとるにたらないかもしてないけれど、自分なりの驚き、自分が本当に心動かされるものを追求して生きていく。そういう生き方が、以前よりもしやすい時代になってきていると思います。かつてはマスメディアなどを通して大きなナラティヴに参画することなしには他者とつながることができなかったかもしれないけれど、いまの僕たちは、他者と容易に接続できるテクノロジーを使って、とりにたらないささやかな行為の一つ一つを通じてつながり合うことができる。
 一からつくるだけでなく、修復や再生に希望を感じ、それをおもしろいと感じるひともこれからどんどん増えていくと、そこにひととモノの新しい流れができます。そうするとここに、経済が成立する。何かを新たに生産することによってしか経済が動かなかった時代から、修復や再生によって経済が動く時代になっていくかもしれない。
 自分の小さな庭のように足元にある環境から始めてそこで自分の手を動かしながら考え、感じ、生きていく。そういうことが可能な時代が始まっているというのは、とても面白いことだと思います。」

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