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阿部公彦『文章は「形」から読む/ことばの魔術と出会うために』

☆mediopos3418  2024.3.27

ことばを読むためには
その「内容」だけではなく
「形」もあわせて読む必要がある

高等学校学習指導要領改訂にあたって
国語の科目が「論理国語」と「文学国語」に
分けられていることに対し

阿部公彦は
「国語教育で意識すべきは
文学か非文学かといった区別ではない」という

あえて区別するとすれば
「既存の形式に縛られることばの領域」と
「形式をつねに更新することが求められることばの領域」
ではないかと

前者の典型は「役所の文書など
フォーマットが明確に定まっているもの」だが
そうした「有無を言わせぬ形で「書き方」が強制され」た
フォーマットを疑いなく覚えて
それを「実用」として使えるようになればいいかというと
決してそうではない

「その向こうに隠れたメカニズムを読み取」ることで
「こうした言葉を組み込んだ制度や組織の持つ意味を理解」
することが重要となる

ある内容を効果的に伝え
ときに拘束力をもたせたりもするのは
内容以前に文章の「形」だからである

その「形」がどうして採られているのか
それをあわせて理解することで
なにを伝えようとしているのかがわかる

たとえば平成30年に告示された
『高等学校学習指導要領 解説 国語編』の文章は
「透明そうで明晰そうではあっても、
必ずしもほんとうに透明で明晰とは限らない。」
「含意としてあるのは「この文章は透明で明晰なのだから、
文句を言うな。おとなしく従え」という
メッセージなのかもしれ」ないのである

「文章の「形」に注目すると、
文章の背後にある意図や構えが見えてくる。
また、私たちが知らず知らずに
どんなふうに文章に反応するかもわかってくる。」

その意味では「論理国語という科目を導入した人々の言う
「実社会において必要となる」文章をきちんと読むためには、
文学作品を読むことで鍛えられるような
「形」への意識がやはり必要だということにもな」る

そうでなければ決められた文章の表面的な意味と
それが求めている理解なり行動なりを
そのまま受け取るだけの機械的な能力しか身につかない

ちなみに阿部公彦は
「形に意識を向け、その働きを知る」にあたって
「形の機能が濃厚に発揮されている」のは
「何と言っても詩」だという

とはいえ詩や小説を読まなければならないというのではなく
「たとえば事務文書をまるで文学作品を読むようにして
読んでみればいい」という
重要なのはそこで働いていることば・文章の形と内容を
多視点的に読み取ることだからである

本書の副題に「ことばの魔術と出会うために」とあるが
ことばをただの一義的な記号のようにとらえるのではく
まさにその「魔術」的な性格をいかに出会えるかが重要となる

学習指導要領の解説に使われているような
「思考力」「判断力」「論理的」といったことばが
「いかにも論理的風情を漂わせているように見える」としたら
その「論理的風情を漂わせている」「形」の力こそが
「魔術」そのものでもあるのである

それが「魔術」であることをいかに読み取れるかどうか・・・
あらゆることば・文章を「魔術」として見ると
ことばの景色はずいぶんと変わってくるのではないだろうか

■阿部公彦『文章は「形」から読む/ことばの魔術と出会うために』
 (集英社新書 2024/3)

**(「はじめに」より)

「ことばはときに感情をかき立て、理性を奪います。合理性からかけ離れた行動に私たちを駆り立てることもあります。ことばは物事を整理し、理解するのを助けてくれますが、ときに私たちを混乱させ、迷走させ、渾沌に追い込む、思考の土台を揺るがし、冥界や神秘の世界に引き込むことさえあります。その作用はさながら魔術のようです。いったいなぜ、そんなことになるのでしょう。実に不思議です。

 その秘密は「形」にある、というのが本書の答えです。ことばは決して抽象的な意味からのみ成っているわけではありません。音があり文字があり、硬さややわらかさがあり、長さや短さや、不安定さや儚さもある。ニコニコしたかと思うと、むすっとしたり、居丈高になったり。そうしたさまざまな要素がからんで、私たちの感情や生理に影響を与えるのです。

 こうした作用は、魔術の世界からはかけ離れた場にまで及びます。たとえば駐車場の契約書や、新型コロナワクチン接種の注意書きや、学習指導要領や、料理本など私たちがごく理性的に接していると思いがちな文書でも、形の作用が効果を持ちます。これらの文書は形の力を借りることによってこそ、持ち味を発揮するのです。」

**(「第1章 学習指導要領を読む」より)

*「二〇一八年から二〇一九年にかけて、高等学校学習指導要領改訂に向けた流れを背景に大きな論争が起こります。焦点となったのは「論理国語」という科目の導入です。これは「社会に出たときに接するような文章」を大胆に国語教育に取り入れるべく設けられた科目で、「論理的な文章」や「実用的な文章」を中心に据え、文学周辺の文章を排除することを趣旨としていたため、生徒たちが文学作品に接する機会が減るのではないかと危惧する意見が出てくることになります。そのあたりを意識してか、「論理国語」とセットになる形で「文学国語」という科目も作られましたが、科目の構成上、この「論理国語」を選択し、「文学国語」を選択しない学校が増えるものとも考えられています。

 そもそも文章を「論理的なもの」と「文学的なもの」とに截然と分けられるのかというのが批判する側の大きな懸念でしたが、これに対し、批判された行政の側は「何をそんなに気にするのかわからない」「そこまでフィ各考えたわけではない」といった対応で、両者の間にはかなり認識のずれがあったのが印象的です。

 おそらく読者の方々には「論理国語」と「文学国語」に分けてどこがいかないの?と思う方もおられるでしょう。(・・・)

 私たちはつい、以下のように考えがちなのです。すなわち、日常生活で接する文章は、文学作品に出てくるような小難しくもったいぶった表現とはあまり関係がなく、たいてい「透明」に書かれている。学校で学ぶべきはこうした文章、つまり「社会に出たときに接するような文章」ではないか、と。こういうものは、論理的に読む力さえ身につけばすっと頭に入ってくるはずで、そこに特化して教育を行うことが必要だ、と。

 しかし、果たしてこうした認識は正しいのでしょうか。読むという行為は実に複雑なものです。とくに透明に見える文章こそ要注意。落とし穴があったり、亀裂や矛盾があったりする。私たちが社会に出て文章とうまくつき合うためには、そうした部分にこそ敏感になる必要があるのではないでしょうか。」

*(『高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編』一六頁)
「共通必履修科目により育成された資質・能力を基盤とし、主として「思考力・判断力・表現力等」の創造的・論理的思考の側面の力を育成する科目として、実社会において必要となり、論理的に書いたり批判的に読んだりする資質・能力の育成を重視して新設した選択科目である。」

*「たしかにこの文章はいかにも透明そうで、明晰そうな佇まいをしているかもしれませんが、果たしてほんとうにこれは透明で明晰でしょうか。透明そうで明晰そうではあっても、必ずしもほんとうに透明で明晰とは限らない。別の言い方をすると、この文章はそれ自体から「これは透明で明晰な文章なのだ」という主張を発信しようとしているにすぎないのではないでしょうか。さらに言えば、含意としてあるのは「この文章は透明で明晰なのだから、文句を言うな。おとなしく従え」というメッセージなのかもしれません。」

「実は右記のような含意がくみ取れるのは、引用箇所の「形」を通してそのようなメッセージが滲み出てくるからでもありあす。文章のニュアンスや含みや意味というものは、文章がどのように語られるかという表現の形式に影響を受けるのです。私たちはつい、文章には確固たる「内容」があり、あとはそれをどう伝えるかの問題にすぎないと考えがちですが、実際にはどのように表現し、どのように語るかという「形」が、ときんは私たちが受け取る「内容」そも変えてしまうのです。」

「ここでも列挙や並列的な書き方を通して、権威が生み出されていることは確実です。どこか不親切な感じがするのは、少なくとも日本語では丁寧に書けば書くほど権威が減衰し、読み手が「つけあがる」ことが予想されるからでしょう。指導要領を出した側としては、別に議論をするつもりはないのです。文句んど言われたくない。ただ従ってもらいたい。だから弱腰に見えるような態度はとりたくない。」

「論理風で明晰風の単語をつらねれば、論理的で明晰になるというのも幻想です。「思考力」「判断力」「論理的」といったことばは、いかにも論理的風情を漂わせているように見えるかもしれませんが、こうした語彙を用いさえすれば明晰な、あるいは論理的な議論ができるとは限りません。(・・・)

 つまり、残念ながら学習指導要領では「君臨の論理」が先に立ちすぎ、「説明の論理」や「伝達の論理」がややおざなりにされてしまったということです。」

*「文章の「形」に注目すると、文章の背後にある意図や構えが見えてくる。また、私たちが知らず知らずにどんなふうに文章に反応するかもわかってくる。そこであらためて思うのは、書き、読むという行為が単なる「内容」の投げ合いではないということです。書き手は相手にことばを届けることで影響を与えたり、反応させたり、何らかの行動をとってもらいたいという狙いをもっています。だから、読み手としては「内容」をきちんと受け取れるよう努力する一方で、その内容がどんな形で伝えられているか、そのことを通して書き手がどのような構えをとり、また自分はそれに対してどのように反応するのかといったことも考えることになります。」

「およそ文学とは縁がないように見える学習指導要領のような文章であっても、文学作品を読むときと同じくらい「どのように語られているか」という「形」に注目することでいろんなことが見えてくることがわかりました。しかし。どうすると論理国語という科目を導入した人々の言う「実社会において必要となる」文章をきちんと読むためには、文学作品を読むことで鍛えられるような「形」への意識がやはり必要だということにもなります。」

**(「第3章 広告を読む」より)

*「広告は過剰なまでに注意を引いて人々の目に留まり、読まれようとする。形の上でも特徴的で、短く、端的で、意図が明確である。」

*「「誰が」「誰に」「何を」といった具体的な関係性を欠いたことばのほうが、かえって強制力を働かせやすい。コンテクストかた宙に浮いたような行き場のないおさまりの悪い文言は、私たちに強烈な呪縛の力を及ぼしてくることがある。(例:落書き、出所不明の引用など)。日本の商業広告は、この「『宙吊り』の呪縛性」を見事に利用している。」

**(「第4章 断片を読む」より)

*「情報は短く断片的であるだけで、注目に値するものであると感じられることがある。ことばは、多くを語らないことでこそ、むしろ多くを語る。」

*「ことばが記憶に残るかどうかは、「形」によって決まる。」

*「私たちは、物事を理解したり再構築したりするとき、まずは小さな断片と出会い、それから「より大きなもの」をぼんやりちょ想像し、把握する。この二つのステップを踏むと、心の中で自発的に興味が湧き膨らみ、「おもしろさ」や「奥行き」を感じて興奮を覚える。文学は、ことばのこうした「断片性」を巧みに用いることで、奥行きや面白さを生み出す。」

**(「第5章 注意書きを読む」より)

*「「注釈」は、その短さ(断片性)ゆえに冷たく問答無用で断定的な風情を漂わせ、情報としての信頼感が高いかのように見える。加えて、本文とは異なるレベルに立っていることで、読者に対して異なる価値観、いわば「もう一つの目」を提供する。」

*「短く鋭いことばであるからこそ、世界全体を説明してしまうことがある。」

**(「第7章 契約書を読む(1)」より)

*「契約書の文言は、ことば自体が効力を発揮することによって、有無を言わさず未来の現実を力づくで既定しようとしてくる(=現実を動かそうとする)点に特徴がある。」

*「特殊な力を持つ契約書の文章は、通常のものに比べると明らかに不自然で、特殊なことばの使い方に依存している。「形」に着目すると、「〜する」という終止形(基本形)の語尾が目立つ。」

*「終止形を用いると、ことさらに「今」という感覚が強調される。」

「「今」の感覚を強調することで、契約書は呪術的な匂いさえも帯びる。「今、この場で私は宣言するのだよ」と強調することで、書面そのものに魔法のような力が付与される。」

**(「第9章 小説を読む」より)

*「他のジャンルの文書を「文学化」するには、もともと置かれていた「場」から取り出し、「孤立」させてコンテクストを抹消すればいい。そうすることで「用途」が不明になり。ミステリアスな雰囲気が漂い始め、まるで文学作品のように見えてくる。ジャンルや場というコンテクストから切り離された文章は、「真剣に読むべき対象」へと格上げされる。結果、読者は「文学につきものの解釈活動」へと誘われる。そのように「読む」という行為を意識的に行わせることが、「文学の誕生」につながる。」

*「小説を読むという行為は、知らないものと出会うというフィクションを経験することでもある。そしれ、これはことばの「形」のレベルでも体験される。すぐれた作品ほど、何度読んでも、何度でもそうした疑問を体験させてくれるし、作品の中で何度でもこちらの期待を裏切ってくれる。」

**(「第10章 詩を読む」より)

*「「文学作品、とりわけ詩のことばは特別だ」と思われることが多い。しかし、詩は決して特別なものではなく、私たちの日常のことばに根ざしている。名づける、数える。恥ずかしがる、といったふだん私たちがことばを使って行うごくありふれた行為にも、すでに詩のエッセンスがつまっている。」

*「詩においては「形」が決定的に重要だ。なかでも、他の文章ではあまり見られない「行分け」と「繰り返し」に、その表現の特徴がある。」

「改行を通して切り離されたことばは、散文的なつらなりの中では見えにくい佇まいをあらためて見せ始める。詩のことばは、散文的な流れを失うことでスムーズな内容の理解を阻む。しかし他方では。小さな違和感や異物感が差し挟まれることで、音声らしさが際立ってくる。」

「さらに、改行のおかげで私たちはことばの中に潜む「他者性」と出会う。その結果、言うつもりでなかったことを言ってしまったり、偶然の要素が紛れ込んだりして、ことばが思いもかけない展開を見せる。」

「詩にはこのように、通常結びつかないものをつなぐ機能があり、ときには驚きとともに世界の見え方を変えてしまうこともある。詩がそうした魔法のような力を持っているのは、見知らぬイメージと一つ一つ、まるで偶然のような緊張感とともに、読者を出会わせてくれるからだ。詩を生かしているのは「出会いの威力」だと言える。そして、この出会いを生み出しているのが改行なのである。」

**(「おわりに」より)

*「本書を最後まで読んでいただくと、国語教育で意識すべきは文学か非文学かといった区別ではないということがおわかりいただけると思います。実用文を学ぶことの意義を訴えている人が掲げるべきは、「既存の形式に縛られることばの領域」と「形式をつねに更新することが求められることばの領域」という区分となるでしょう。前者は、役所の文書などフォーマットが明確に定まっているものがあてはまります。そこでは有無を言わせぬ形で「書き方」が強制されるのですが、そうであればこそ、その向こうに隠れたメカニズムを読み取ることには意味があります。その部分を読み取らずして、こうした言葉を組み込んだ制度や組織の持つ意味を理解することはできないでしょう。

 後者の「形式をつねに更新することが求められることばの領域」の筆頭は文学作品です。しかし、文学作品だけではありません。手紙や挨拶文など比較的プライベートな文章をはじめ、エッセイや解説など、いろいろなジャンルでたえず形の更新は求められます。もちろん、つねに更新されるからといって形のルールと縁がないわけではありません。むしろ、そうした文章でこそ、形の縛りには敏感にならざるをえないでしょう。」

*「形に意識を向け、その働きを知るためには、形の機能が濃厚に発揮されているものを読みながら。どうやってことばの形を受け止めるかを学ぶ必要があると私は思います。そういう目的のために私が強くおすすめするのは、何と言っても詩です。詩はあらゆる言語活動の中でももっとも強烈に形を意識させてくれます。詩を読む訓練を受けた先生につけば、さまざまなことばの形へと目を向ける手伝いをしてくれることでしょう。しかし、かならずしも詩や小説を読む必要はありません。たとえば事務文書をまるで文学作品を読むようにして読んでみればいいのです。そうすると、ことばの豊穣な世界が一気に目の前に開けてくるでしょう。私が本書で目指したのもまさにそのようなことでした。」

【目次】

はじめに
第1章 学習指導要領を読む
第2章 料理本を読む
第3章 広告を読む
第4章 断片を読む
第5章 注意書きを読む
第6章 挨拶を読む
第7章 契約書を読む(1)
第8章 契約書を読む(2)
第9章 小説を読む
第10章 詩を読む
おわりに

○阿部公彦(あべ まさひこ)
1966年生まれ。東京大学文学部教授。専門は英米文学。東京大学大学院修士課程修了、ケンブリッジ大学大学院博士号取得。訳書に『フランク・オコナー短篇集』(岩波文庫)、共著に『ことばの危機』(集英社新書)、著書に『事務に踊る人々』(講談社)『名作をいじる』(立東舎)『小説的思考のススメ』(東京大学出版会)『英詩のわかり方』(研究社)『病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉』(青土社)など。

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