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【短編】或る男の或る1日

2023年、暑さでゆらゆら見える、コンビニエンスストアーでのことだ。


曲がり角からやってきたその男は、まるで狩りの前の獣のように揺れながら歩いていた。手に持った心許ないビニール袋が、かえって男の弱い部分を浮き彫りにしているようだった(ただ、中身が何なのかは僕からは見えなかった。それか、何も入っていなかった可能性もある)。


「おい、何をやっているんだ」
彼は水平線のように細めたまなこをこちらに向けながら、そう言った。「何をやってる」


僕は立ち上がりながら、なんと言うべきか思案した。右の額から流れる汗は、拭うと今度は示し合わせたかのように左から垂れてくる。こう言う時、いつも汗をかく。暑いからか、この状況がそうさせているのかのどちらかだと思った。
「ああ、はい。歩いてたらチャリが、自転車が倒れてて。それで、直すべきだと思った」
僕は彼の目を見た。「だから、直してた」


その男は丁度僕が立て直した自転車越しに「何を言っているんだ」という顔を作った。
「お前が倒したんだろう」
否定をすることは出来ない、そう思った。もし僕が、自分の自転車が倒れていて、他の誰かがそれを立てているのを見たら、それはつまるところ“その人の仕業”だろうと結論を出すだろう。「嘘をつくな」
「いえ、僕はただ、ここをたまたま通っただけなんです」


「本当にそうなのか」
僕は短く3回頷いた。「そう、本当に」


彼は、少し気まずそうな顔をした(少なくとも、僕にはそう見えた)。他にも倒れている自転車はあるから、それを起こすことにした。偶然なのだろうけど、立て直した自転車のそのどれもがバッテリー付きで、少し羨ましいと思いながら彼の言葉を待った。


「次から気をつけろよ」
僕は、思わず顔を上げた。逡巡しゅんじゅんののち、僕は自然と口を開いていた。
「次からと言うのは、どういうこと」


彼は険しい顔をした。嫌いな食べ物が出た子どものように見えた。
「次からと言うのは次からということだ」彼は、僕が起こした自転車に当たり前のように乗りペダルに足をかけた。「もういい」
そう言って、彼はいなくなった。


僕はただ、コンビニエンスストアーの前で佇むしかなかった。まるで受験番号がなかった浪人生のように、ただ立ち尽くすだけだったのだ。体に走る汗は、胸元を見るとTシャツをペラペラな胸板にベッタリとくっつけていた。僕は無意識に、呟いた。「暑いな」







無気力というのは、こういう時に使う言葉だと初めて思った。もちろん、この行動が僕の生活を、仕事を、人生をどうにかするかと言われたらそれはどうだろう。それでも、たった今、この瞬間はとにかく自分という存在そのものがとてつもなくいやらしく、そして稚拙に感じるのだ。そうだ、僕は、ポークカツの衣を、まるで初夜の夫婦のように丁寧に剥いだのである。

ポークカツは竜巻のように、ぱっとやってきた。それは僕にはどうしようもないし、きっとあと100回同じことをしても、僕の目の前にはポークカツがくるだろう。とにかく腹が減っていた僕は、『とんかつ河本』という縦看板を見て、競泳選手のように店に飛び込んだ。水を飲みながらメニューを見ると、そこには“ポークカツ定食 890円”と書いてあった。

「それはそれ、これはこれ」である。地球は地球だし、UFOはUFOだし、当然、ポークカツはポークカツである。
ここが『とんかつ河本』である事実を誰も責めないだろうし、『とんかつ河本』自身も(あるいは店主も、であるが)客である僕を責めないだろう。それでも僕は、「ポークカツ定食を下さい」と言い出すことにどうしても躊躇いを感じた。
「すみません」僕は、メニューを指差しながら言った。「これ、一つ下さい」



完璧なポークカツはおそらく無い。完璧な美人が僕の周りにはいないのと同じように。それでも、僕のポークカツはほぼ完璧だったと言っていい。ホンドキツネのように、やや薄茶色みがかった衣は、フレディ・マーキュリーの胸毛のように説得力があり、程よい厚みの肉は僕を空腹の向こう側へ連れて行った。「いただきます」








「———それで、衣を残したってわけ」
僕は下を向いた。電話越しなのに、深く下げた。「ああ、うん。そういうことになるね」

電波に乗っても、彼女の声はよく通る。「そんなことあるんだ、とんかつ頼んで衣剥がして食べる人って」
僕は思わず口を挟んだ。
「ち、違う」僕は、引っかかりそうになった唾を飲み込んだ。「違うんだよ」

「ただ」
「ただ?」

「ただ、3切れ目からきつかったんだ、たとえば、大トロだって一口目はいいけど、それが続くわけじゃない。そういうこともあるってことだよ」

僕は、狭いキッチンの換気扇かんきせんを見ながら、彼女の声を待った。換気扇の油汚れと妙な臭いに気付く。

「なるほど」彼女は、そう言った。「結局のところ、そうなのね」
彼女のいうことはもっともだった。



電話を切ると、冷蔵庫に向かった。卵の賞味期限は、昨日。こうなることは一昨日から理解していたが、もしかしたら別の可能性を信じていたのかもしれない。ソール・ライターの「無題」たちを見るように、役割が定義されていない卵を両手に掴む。

卵、塩、砂糖、マヨネーズ。自分だけの秘密の材料なんてものはなく、至極平凡で僕という男を概念に帰して卵焼きとして生まれ変わるのならば、まさにこんな光景になるのだと思う。一気にかき混ぜて、卵焼き器に流し込む。恋愛も、こんなふうに雪崩なだれ込んだかと思ったらすぐ安定してくれたら楽なのだろう。奥から菜箸を差し込むと、めくれるところと破れるところが出てきた。居酒屋に行って鶏皮ポン酢がなかった時のようなガッカリ感が———ある程度予想していたが———あった。

僕にとって、卵焼きはわざわざヘラを取り出して巻くものではない。材料をかき混ぜたその箸で焼く、その程度の存在だ。卵焼きに対してそれ以上もないし、同様にそれ以下もない。今この瞬間、名前のない衝動に駆られて卵焼きを作っただけだ。ひょっとしたら、母親の味と似ているのかもしれない。けれど、そんなこともどうでもいいのだ。ただ、そういうことを誰かと一緒にやりたいと思う。たとえば、彼女の隣とかで。

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