暗転の星空 -上-

「普通」って何。

「常識」の基準は?

誰を基準に判断している?
それらは果たしてこの世の数多の人間の平均なのか?
それっぽいマジョリティに乗っかっているだけではなく?

この世界の中に、本当に「基準」と成り得る人間が存在するのか?

那由多の「普通」と君の「普通」は違う。
那由多の「常識」は君の「常識」から外れているかもしれないが、君の「常識」だってまた別の誰かの「常識」からは外れているかもしれない。


これはネス単独公演「SIN」のアーカイブを観た時の感想だ。
SINについて詳しいことは脚本・演出の加東岳史さんがご自身のnoteに詳しくまとめてくださっているのでそれを参考にしてほしい。ここでSINについても紹介していたら、今回はただでさえ上下に分けるほど長いというのに、論文レベルで長くなる。


先日、ネス単独公演「ザ・ワン」を観に行った。
ネタバレには一切配慮がないのでご注意を。


「おめでとう!君は選ばれた」
 世界を救うたった一人の男、ザ・ワン。
 延々と続きそうなくだらぬ2択問題で彼は誰ともかぶらない答えを出した。
 その結果、選ばれてしまった。

 AIの研究対象に。

人が居なくなった世界でAIは、誰ともかぶることのないたった一人の人間 “The One” を見つけた。AIは彼の記憶、体験、特徴など必要最低限のものを一枚のCD-ROMに収めた。そのCD-ROMこそが「彼」である。肉体が滅びようと、クローンにデータを移せば何度でも蘇る。AIは言う。「生物というものは細胞レベルでは常に変化し続けている」全くその通りだ。1秒前の自分と今の自分が全く同じなんてことはない。

それならば、データが揃っているならば身体が違えど、それは「自分」と言えるのではないだろうか。目に見えないものなど無いと等しい。心臓という臓器はあれど、「心」という臓器はないし、そんな部位はどこにもない。胸で感じることができるのは鼓動であり、物事を考えるのは脳だ。「心」なんてただの妄想に過ぎない。何度生き返されても、「彼」は「彼」であり続ける。当たり前だ。

 貴方なら、何をもって個人を定義する?

個体として同じであれば、人としても同じだろう。亡くした祖父がザ・ワンのような状態で現れたら、那由多は狂喜乱舞するだろう。だってそれは亡くなったはずの大切な人が完全にその人として自分の前に存在しているから。死んででも会いに行きたいと思う程の相手に対して、身体がどうだのデータ移行がどうだの、どうでも良い。少なくとも那由多はそう思う。

逆に、自分がザ・ワンだとしたら、どう受け止めるか。別に絶望もしないし喜びもしない。「ふーん、で?お腹空いたんだけど」くらいだろう。だって、データに余計な改変がなければ、すべて同じ「自分」だから。


舞台で最後の曲が流れる。黒子がベールを取って舞台のスタッフに変わる。バラシが始まって舞台は強制的に終わりを迎える。と思いきや、また明転する。最初のシーンと同じ2択問題が始まる。「今食べるならどっち?ポテトチップスと粉吹き芋!」ザ・ワンは当たり前に同じ回答を選ぶ。「……こふきいもで」
これこそが彼が「同じ」であることの証明になる。
きっと多くの観客は、頼む、ポテチを選んでくれ、と願ったことだろう。だが、もし彼がそこでポテチを選んだら、彼は彼たり得ることができなくなる。それでも、ポテチを選んで欲しいと願う観客の何たる愚かなことか。彼に感情移入した観客は、彼が彼でなくなってしまったとしても、本当に「自分」を失うことになってでも、別の人生を歩んで欲しかったと願えるのだろうか。今の彼より幸せな人生が存在するのかも分からないのに?

ただ、その気持ちは分からなくもない。なぜなら、前半部分のザ・ワンの演技があまりに良かったから。彼側に行きたくなってしまう人が出てくるのも仕方ないだろう。明るいアドリブ多めの前半はただただ楽しくちょっと切ない空間だったから。


AIは言う。「人の人生というものはある意味生命活動を停止するその瞬間まで行われる一人芝居のようなものかもしれないと私は思考する」

ザ・ワンは台本の中から出ることはできない。脚本家から彼に与えられた「設定」こそが彼のアイデンティティである。

“All the world’s a stage, And all the men and women merely players.”

 世界は舞台、人生は演劇、人は役者。

人は、決められた「人生」という台本を生きる。那由多が、これを書くにあたってメモを取るのに、ボールペンの赤ではなく青を選んだことも、まるで那由多自身の意思のように見えるが、台本のト書き、ストーリー、作者の意図に過ぎない。生きる中で、「自分」で何かをしていることなんてないだろう。結局「自分」なんてあるようでないものだ。

「ロミオとジュリエット」の修道士ロレンスは「人知を超えた大きな力が我々のもくろみを阻んだのだ」(松岡和子訳)と言う。人知を超えた力を、「シェイクスピアの台本」「シェイクスピアの意図」と捉えるとしたら、彼らもやはり「ロミオとジュリエット」の中から出ることはできない。ページが捲られる度に、その通りの人生を歩むだけ。ロミオとジュリエットはすれ違い、互いに自決する。あと一歩手紙が届くのが早ければ、あと数秒バルサザーがロミオのもとへ着くのが遅ければ、と願いたくなる。でも、シェイクスピアはそうは描かなかった。ロミオも、ジュリエットも、マキューシオも、ティボルトも死ぬしかなかったのだ。

ザ・ワンも同じように、最初から全てが決められている。だが、台本の中で、芝居の中で、彼は間違いなく「唯一」であったことは確かだ。でもそれが何になろう?

SINでのエンタメショーの構図も似たようなものだ。「自分」なんて元から曖昧で、台本通りに生きていくことだけが望まれている。それを観ているのは神なのか、別の何かなのか、誰にも分からないが、一つ言えるのは、役者同士である限り、誰にも裁く権利などないということだろう。作者はキャラクターの人生を、設定を自由に変えることができ、決定付けることができる。だが、役者である我々にはその力はない。言われた通りに生きるしかない。裁いたつもりでも、それもやはり脚本通りのストーリーと設定に過ぎないのだ。新村を観るぼくたちを観る誰かがどこかにいる。

 そもそも、人殺しが罪なんて誰が決めた?
 そのルールは、普通は、常識は、誰を基準に?
 役者の中で基準なんて取れないのに?

 アイデンティティすら曖昧な中で、何を基準にすることができる?

 生きる意味なんてない?罪とは?

 ザ・ワンが返す。
  「こんなの生きているなんて言えるのかよ!」
  「……俺はもう俺じゃない!」
 AIは言う。「問おう。命の定義とは、何だ?」

 ザ・ワンは、答えることができなかった。

 那由多も、すぐには答えることはできなかった。

 この世界で、こうやって息をしている、生きていること自体が不思議である。
 どうして人間だけが発達しているように見えるのだろう。

 そもそも世界というのは一つなのだろうか。
 全てが疑わしい。


  -下- に続く。


終演後、帰り道に聴いていた曲が、どうしても思い出せない。
感傷に浸りながら大事に両手に掬っていたはずなのに、いつの間にか、水のようにこぼれ落ちてしまったようだ。


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