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また 計算障害の話

コーラスの友人に、
支援学級の先生をやっている方がいる。
私が、計算障害と解る前から、知っていた。
一昨日の秋の公民館まつりの発表の後、
「発達障害の子が・・・ハァ・・・」
と溜め息をもらしていらした。

わざわざは、話すつもりもなかったが、
「実は、2年前に、発達障害の中の学習障害の中の計算障害とわかった」と、
エピソードを、面白くおかしく話した。※「46歳で計算障害とわかる」参照※

「若い頃、随分苦労されたんでしょう。」
「人に恵まれたんだね。友達や、先生に」
「よく自信をなくしたりして、引っこんでしまったりしなかったんだねぇ。」
「公立の高校に行ったんですか?(いや、私立)」
「支援学級には、入らなかったんですか?」
「面白いわぁ。もっと話聞きたいわ。」

私は計算障害で、苦労したり、辛い思いをした覚えはなかった。工夫して生きてきただけだ。

小3の時、筆算の割り算で、居残りさせられ、 とーこが、
言った
「なゆたさんは、やり方は、わかってます。計算が、間違ってるだけです」
このたった一言に、救われたのだ。このたった一言で、自分自身を理解して工夫してやってきた。
その後、小5には、とーこは、親友になり
「あほ」と言われ
明るくなれた。
「あほ」は関西では、褒め言葉です。そして、学級委員長、放送委員長をやってたのだから。
※エッセイポエム「確かに恋だった」〜小学生の時〜「学級委員長・放送委員長1.2」※参照

友達の支援学級の先生は、言う
「計算器も使えないんでしょう」
よくご存知だ。母でさえも、この計算障害とわかったと話した時、最後に言ったのが、
「これからは、計算器、使えばいいね」だった。

(何故、計算機が使えないか、はですね。紙で見た数字をうつせない。その間に忘れる?更に1〜9と0の並んでるボタンの場所を覚えられない。覚える数字は二桁が限界。5年ほど前に4桁は声に出し耳にも聞かせて覚えさせる。必要な数字は覚えますが。

何故できなきいかわからない、ピッキング、段ボールの山から、お客様お問い合わせの品を探し出すのができない。どうしてできないかわからないので工夫しようはがない。これからは障害と話せるからいいけど。)

どちらかというと、頭がいいと思われ、「学校休んでいる間に、隠れて勉強してた。裏切られた」と、いたずらされたりしたが、必ず、側には別の友達もいた。学校に通ってれば、みんなにも、認められていき、友達も増えた。

私は派遣の単発の接客の仕事していました。

計算障害と分かってからは、流石に、お金の使う仕事には、つけなくなり、接客しかできない私は、やれる仕事が減ってしまった。

それでも必ず数字は、つきまとう。報告書を上げなくては、ならないので、
仕事につく前日までには、下調べ、下準備が欠かせません。
書き込むための表を用意したり、カウンターを色違いで、用意したり、事前に、だいたいの計算した表を、用意したり。

ある日近所の店で、仕事をしてきいた。大きく通る声で、トークし続け接客していたら、その先生の友達がきた。また彼女はびっくり‼️めっちゃ働いてる!仕事ができるんだ!と思ったのだろうか。ほらぁ。とカウンターと計算表を見せた。いっぱい買ってってくださった。職場の休憩にみんなで食べると言ってた。語ってくれたのかな。

彼女が、私に気づかせてくれた事に感謝。





ごめんなさい。詩に夢も憧れもありません。できる事をしよう。書き出すしかない。書き出す努力してる。結構苦しい。でも、一生書き出す覚悟はできた。最期までお付き合いいただけますか?