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脱線日記「近所のお店は18時開店25時閉店がいい」

・今住んでいるのは商店街の横である。内見のときは「お店が近くにいろいろあってめちゃくちゃいいじゃん」と思っていたが、住んでみてわかった。正社員にとって家の横の商店街は意味がない。
商店街を通るのは朝家を出た時と夜家に帰るときだ。その間、商店街のお店は開いていないのである。自分がいないときはおそらく開店しているか閉店していて、自分が現れたときはすべて閉店している。この観測不可能な感じ、まるで量子力学の不確定性原理の如し。もちろん量子力学のことはよくわかっていない。よくわかっていないもので例えてもいいのである。所詮日記だから。

・そもそもこの街は独身会社員向けにデザインされてなさすぎる。役所や銀行は平日の日中にしか開いていない。長期休みのタイミングはすべての場所が混んでいる。普段暮らしているオフィス街は人間の住む心地よさはなく、お昼に食べに行くようなお店の数は人間の数に見合っていない。人間が求めた豊かな生活はこんなものなのか、と憤りが拭えない。それとも"安定した雇われ人"という甘い選択肢を選んでしまったツケなのだろうか。
だからこそ24時間開かれているコンビニとちょこざっぷは優しくて尊い。いや、24時間開いてなくていいので、せめて「18時開店25時閉店」みたいなお店が住宅地にもっと増えてくれてもいいのではと思う(お酒と大勢の人が苦手なので居酒屋はNGで)。そしたら喜んで崇拝します。

・最近1つの「枷」から自由になった。それは「そろばん」である。小学生のとき、算数でそろばんの使い方を教わる時期にちょうど高熱を出してまるまる欠席してしまったことがある。本来義務教育で知っておくべき「そろばんの使い方」を知らないまま20年を過ごしてしまった。その間ずっと「使い方を知っておかないと」という枷がうっすら脳を圧迫していたのである。
それを先日ようやく解消した。ふと思い立って、そろばんと小学生向けのそろばんドリルを購入し、足し算・引き算のやり方を一通りマスターしたのだ。巻末の10級のテストを合格したことで、枷がカシャンと外れる音がした。
それにしても、普通の小学生は小学生のうちからこんな一癖あるそろばんの使い方をマスターしていたのか、と思うと、小学生を見る目が変わってくる。マスターしたとは言ったものの、やっぱり途中で悩みながら珠をはじかなければできない。暗算などもっての外だ。でもそれができる小学生たちがいるんだから尊敬に値する。師匠と呼ばせてください。

・そろばんをやってみて、「最初わけわかんなかたのが反復学習でだんだんできるようになってくる」という体験を久しぶりにしたような気がする。自己肯定感を良好に保つためにもこういう行為をコンスタントにやる必要があるなと思った。次はタッチタイピングでも練習しようか。

・「わからなかったら聞こうよ」は、状況によってはエスパーでしか為し得ないチクチク言葉だな、と思った。
普段ものすごく苦労してやっていた作業が、先輩の助言によって実は1アクションでものすごく楽にできることが判明したときに先輩に「わからなかったら聞こうよ」と言われたのだが、それは「1アクションでものすごく楽にできる手法がある」ことを推論できないと聞きようがないのである。わからなかったことすら気付いていないのである。だからこの指摘はとても飛躍した指摘であり、あんまり効用がないなと思った。自分は未来の後輩にこういう指摘はしないように気をつけよう。

・「何かのために作られていない営み」への興味関心が最近になってより強くなってきている。それは今まで「今後のための営み」をし過ぎていたという自分への猛省もある。箔をつけなきゃ、という忌まわしい欲求に振り回され続けていた自負がある。もっと自己目的的であっても良いのかもしれない。何かのためと考えた途端、どんなものも純粋さが失われて卑しくなってしまう。

・そういう意味で、最近「コマ」にはまっている。あやつらは究極に自己目的的なおもちゃだ。だれのための行いでもなく、慣性の赴くまま、せっせと自転しているのが無性に愛おしい。家でコマを回しまくっている。回しまくっている自分もまた、その間の時間は、自己目的的でいられるのだ。

・ちなみにそろばんを始められたのも、その考えがあったからである。「計算が速くなりたい」と思っているうちは億劫でとても始められない。「そろばんに接近して戯れたい」と思ったからできたことである。

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