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人間には合理化というものが備わっているらしい。障害児を持って初めて知る価値観


 一昔前、医師の松永正訓氏の著書「運命の子 トリソミー」を読んで、松永氏の「障害児を持った家族は、新しい価値観を持ち、その子を受け入れながら生きている」というような言葉を聞いて、今、自分を俯瞰してみると、まったくもってそうだなと感じている。

 人間には合理化という本能が備わっているという話しを聞いて、それもまったくそうだなと思った。自分の言い方は悪いが、都合のいいように自分を納得させ、新しい価値観を作って、生きていく。それが回りから見たら、イタいなぁとか、かわいそうだなぁとか、ひかれるような価値観であっても、それは本人が生きていくために見つけ出した合理的な価値観であり、誰も否定することは許されるものではない。犯罪レベルになるとまったくもって別の話だが。

 私自身も当初は、なんでやねん!!なんでうちの子やねん!って強く思った。いまでも、ふとした瞬間になんで、って思う気持ちはまるで、雨後のたけの子のように、ダークサイドに陥ると、次から次へでてきて、もぐらたたきように次から次へと打ち消してもなかなかゲームは終わってくれない。

 でも、強制終了させるすべ、というのは、障害児の親、4年半で少しは身についてきたように思われる。まだまだそのすべは試行錯誤の段階なのだが。

 とりあえず、酒飲んで、しゃべる。同じ境遇の悩みを持つかーちゃんたちと。仕事してるときと一緒やな。酒飲んで憂さ晴らし。

という話は余談で。結局、常に合理化をしていっているんだなと思う。発達の遅れという側面も幼いというものにすり替わり、かわいげがあるという風にだ。

 合理化とともに、もぐらたたきゲームは徐々にスピードが落ちて行っているわけなのだが。なかなか、向こうからはおわってくれず、いつも強制終了だな。

 親になって4年。今まで、人生を自分を俯瞰してみることなんてなかったけど、特殊な人生を歩み始めると、俯瞰して見ざるを得ないというか。そうしないと、自分が潰れるというか。合理化は防衛機能のひとつでもあるので。そういうことなのだ。

 最近、心理士さんから提案された認知行動療法というのも効果あるのかなと思っている。

 あるがままに、自分の悩みを受け入れ、なぜ、私は悩んでいるのか、悩みに対して、問いを問いかける。悩みから逃げるのではなく、立ち向かう。最初はめっちゃしんどいが、しばらくすると、そうすると、なんで、わたし、こんなことで悩んでるんや。あほらし。と思ってくるのだ。

こころのおもむくままに、レットイットビーである。

レットイットビーで煩悩をある程度、捨て切れたら、また、新しい価値観とともに、子どもと楽しく過ごせるのである。



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