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子どもを尊重する人でありたい、という話。

私には高校生の長女と、保育園児(二歳)の次女がいます。

幼いころの長女の教育を、後述する事情で私は義母と夫に任せていたのですが、その教育方針を実母がよく「おかしい」と言っていたのを覚えています。


その教育方針は、「自分で考えられる子、生きられる子にする」というもので、どんなに幼くても選択をさせたり、お話で解決しようと試みたり、危なくない範囲で、いたずらは徹底的にさせるし、時間がかかっても意見を無理に捻じ曲げるようなことはせず、いやだということは無理強いしない……といった教育でした。

長女は幼いころから理性と知性が瞳に宿っているような子で、そのため自己の意識の目覚めが人より早かったのですが、この育児法はあまりに彼女にそぐいすぎ、理論と正論を組み立てるのが上手になてしまった、と実母は思ったようでした。

「子どもらしくない」というのが、実母には気になったようです。

実際、西洋占星術でいうところの「風の性質」を長女は持っており、いわゆる「知性の人」なので、「地の性質」の実母とは、価値観がまるで違うのです。何十年も自分の価値観を生きて来て、急に「今まで知らないもの」「異質なもの」が現れて、実母が否定するのもわかるのですが。


実母が私をどう育てたか、少しお話ししましょう。

実母は選択肢を私に与える人ではありませんでした。常に私を心配し、守ることでコントロールをしていた部分があります。ですから、自我が芽生えると誰しも反抗期が訪れますが、その反抗を、「実母が怒りで抑え込む」、という流れでした。

「こんなにやってるのに、言うことを聞かないなんて!」

「大人の言うことは、黙って従うものです!」

たぶんこれは、3,40年前までに生まれたころの方々なら、多少なりとも経験されているのではないでしょうか。

大人の言うことを聞くのが子どもだ。上には逆らうべきじゃない。守られているなら、反抗する権利はない。


その教育なのか、子どもらしい子どもには、私も(兄もいますが、兄も)育ったように思います。ただ、兄の方は割り切るたちなので、早々に家を出て、自由に暮らしましたが、私のほうは割り切れないまま大人になったがために、心の調子を崩してしまいました。(それで長女は義母が育てたのです)

最近になって、実母は私に「あなたをだめにしてしまった」「ごめんなさい」と謝るようになりました。それはとても私に対して失礼なことだと思うのですが、母なりに考えるところがあって、というのは理解できるので、「大丈夫」としか答えられないでいます。


では、母の言う「ダメにしてしまった」は、どこに向いているのかというと、「何もできない人間にしてしまった」というところに終始します。

ですが、「なぜ何もできない人間なのか」というところに、まだ至っていないように思います。

母は「何もさせなかったから」と言っていますが、それだけが原因じゃないと、私は考えています。


じつは、謝られての数週間後になりますが、イヤイヤ期の次女が、服を着替えないでいることが増えたので、「服を選択させる」ことで機嫌よく着替えることに気づき、そうしていると母に話したことがあります。

すると小ばかにしたような言い方で、「そんな小さな子に選ばせたりするから、着替えないようになったのよ」と。

おそらく、義母の育て方を継承していると感じて、なんとなくの嫌悪で言ったのもあるのでしょうが、この言葉に私はショックを受けました。


「子どもにも選ぶ権利はあるし、同意を求める必要がある」

「お互い機嫌よく過ごせるのがベストで、無理強いして、やる気や自我の芽を摘むのが悪手」

と思っている話をしましたが、結局取り合ってもらえませんでした。


私は思うのです。

「小さいころから、自分の意見は尊重されるものだ」

と教えることが、どれほど大人になってからも重要なことか、と。

自分は尊重されて当然だと知っていることが、わがままだと実母は捉えているのですが、実母の考えは、社会を生きる奴隷を作る考え方のようだ、と。


実際、実母の口癖は、「そんなのは社会に通用しない」「あの人は社会経験が少ないから」です。


母の言うような社会が間違っていると、私は思うほうなので、いつもそれには賛同しません。

それでますます、母には「間違った子育てをした」と思っているようです。


どれが正しい、間違っているというお話をしたいのではないのですが、少なくとも「自分の価値」を知らないで育てば、その子どもは利用される人になります。

「生きる勇気」も「巣を飛び出す力」も、つかないでしょう。


今日、私は一つのことに気づきました。

次女に「〇〇しようね」と促しても、「いやだ」と断られるのですが、「いいですか?」と付け加えるだけで、「はい」というのです。

これは、「尊重されている安心感」をもとに、「同意」をしてくれているのだと思うのです。

尊重なくして、人付き合いはできません。子育てもそうです。

とくに、子どもに対しては、その姿勢を教えていくべきなのですから、より慎重でなくてはなりません。

私は、子どもたちに幸せに生きてもらいたいのです。


母は私に落胆しているようですが、私は私が好きです。昔はそんなことも考えたことがないほど、どうしたら母を怒らせずにいられるかばかりを考えていたので、自分からも逃げてばかりでした。

それが改善したのは、私を無条件に愛してくれる夫との出会いであり、占いという問答との出会い、そこからの心理的な葛藤や学びなどがあったからですが、それは割愛します。


最後に、実母が「子どもらしくない」と言っていた、長女のお話に戻りましょう。

長女は全教科オールマイティーにこなすので、この春、進学校に進学しました。

日本人離れした美人ですし(親バカ)文系理系科目問わず好成績、運動神経もよく、歌も絵も上手。ちょっとしたパーフェクトヒューマンのような子です。

一方で、友だち思いで優しいのですが、言ってほしい言葉を瞬時に理解して相手にかけてしまうので、いいように使われやすい気がします。

彼女は芯が強く、努力家で、精神性も高いほうなのですが、教え忘れたことが唯一あると思っています。


それは、「他人と自分の間にひく、境界線」です。

ある程度自尊心が高いと、これは引きやすいのですが、私もこの境界線があやふやのまま大人になってしまったので、長女にもこの性質が引き継がれてしまいました。

彼女ほど優れた人でも、境界線が引けないのには理由があります。


利用されないためには、境界線をしっかり引くことが必要です。

そして、境界線を引くには、揺らぐことのない自尊心が必要です。

この自尊心は、「幼いころから尊重されてきた」という感覚が重要だと、私は考えます。

尊重とは、「同意を求める」「選択肢を与える」「いやだと言うことを認める」ということです。

自分を愛せる人は、他人も愛せます。

自分を尊重する人は、他人を尊重する方法を知ります。


長女は幼いころ、尊重されて育ちましたが、母親不在であったこと、母親が戻ってきても、しばらく不安定で邪険にされていたことなどから、自己肯定感、自尊心が低く育ってしまったようです。

今は、その土台を修復すべく、家族で頑張っています。


さて、母を今回は例に出しましたが、私も含め、周囲にも似た傾向は必ず何かしらあると思います。

私自身、子どもたちの話を聞ける人間でありたいと願っていますが、時折母と会った後などは、感情的になってしまうことがあります。

でもそれでも、何度でも、「子どもを尊重したい」と強く願いますし、そうあろうと努力しています。

どんなにその方針を嗤われても、私はそう願うのです。


子どもを尊重できる人でありたい。人を尊重できる人でありたい。

そんな、お話でした。

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