さよなら、私の住んだ町
引っ越しするときの恒例行事は、旧宅から転居先までを自転車で移動すること。
これをすれば、うっかり前の家に帰ってきちゃった、みたいなことが無くなる。
空になった部屋を後にして、日が暮れてから出発した。
思い出したときにだけお参りした神社とか、店の看板が出ていないのに行列ができている焼肉屋とか、通いなれた立派な建物の図書館とかを、横に通り過ぎて行きながら「さよなら、私の住んだ町」と少しだけアンニュイなふりをしながらペダルを回した。
はじめのうちは、いつものサイクリングコースだったことや、友人たちと歩いたことのある道だったこともあり、色々なことを思い出しながら、「今日は天気もいいし、暖かくて、サイクリング日和だな」と走り抜けた。
漕ぎ始めて40分ほど経った。
まだ知っている道だったが、「なんで走り始めちゃったんだろう」と後悔し始めた。
全然サイクリング日和なんかではなかったのだ。
湿気を過分に含んだ生ぬるい風が、身体の表面を舐めあげるように抜けていき、不快に感じるようになってきた。
蒸し暑い。
田町を過ぎて、白金高輪の方に進路を進めた。
道選びを間違えた。
この辺りは高低差が大きいので、体力を無駄に消耗した。
遠回りでも、高輪ゲートウェイの方に抜ければよかった。
五反田を通り過ぎたころには、脚に力が入らなくなってきたので、休憩がてら、温泉に寄り道することにした。
働くようになってから知ったのだけど、東京23区内にも温泉は湧いている。
しかも女湯の方は、混雑しているところに遭遇したことはない。
穴場なのではないだろうか。
柔道場くらいの広さの内湯を、独り占めした。
外湯は何人かいたし、羽虫がたくさん浮かんでいたので、足首まで突っ込んで入るのをやめた。
春だ、と思った。
だだっ広い浴槽の角で、体育座りをしながら浸かった。
これだけ広いと、逆に小さくなりたくなる。
小心者の自分に呆れたので、堂々と入るにはどうしたらいいのだろうと誰かがくるのを待っていたが、一向に誰も来ないのでサウナに入ることにした。
サウナから出て大浴場を見たら、2人ほどいた。
手前の階段の段差に腰かけて、浴槽の両角を陣取っていた。
2人とも、マネの『草上の昼食』の女性と同じポーズを取っていた。
やっぱり、そうなるよね、と通り過ぎた。
お風呂から出て休憩所に向かうと、売店にソフトクリームが売られていたので購入した。正直、温泉より身体に染み渡った。めちゃくちゃに美味しかった。
ソフトクリームを食べながら、スマホで地図アプリを開き、残りの帰路を調べた。全体の3分の2は進んだようだ。あと3分の1もある。重い腰が上がらない。
机に突っ伏してから覚悟を決めて立ち上がり、温泉を出た。
止めてあった自転車に跨った。
思ったより、ペダルは軽かった。
新しい家までもうすぐだ。