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不惑の余裕~本気で椎名林檎を考えてみる~

椎名林檎が40歳かつデビュー20周年の記念に敢行したツアーがある。

その名も「椎名林檎 (生)林檎博'18 ―不惑の余裕―」
※トップ画像はユニバーサルミュージック、不惑の余裕特設サイトより

ちなみに、公式のYouTubeにも有難いことにいくつかライブの映像がアップされているが、数多あるファンからのコメントの中で最も好きなのは「ライブが生ならCDは焼リンゴなの?」といった趣旨のものだ。素晴らしかった。

そして、今回は惜しくも会場には居合わすことができなかったものの、DVDという一生手元に残せる形で最高のエンターテインメントを提供をしてくれた椎名林檎への溢れんばかりの感謝と、個人的な考察をつれづれなるままに書いてみたいと思いnoteを開いた。3年前のライブだが、引越して通勤時間が伸びたことを機に毎日観ているためこのタイミングで記録に残したいと感じたのである。

私は昔から音楽が大好きだ。ライブハウスにも一人で参加するし、ハイボールを片手に心から楽しめる。また、中学、高校は姉の影響で吹奏楽部に所属しトランペットを吹いたりティンパニーや打楽器を叩いたりしていた。この経験から、椎名林檎の曲、あるいはライブで圧倒的な存在感を醸し出す楽器隊への尊敬の念もとどまることはない。

不惑の余裕のDVDは、もう数え切れないほど繰り返し繰り返し観た。
椎名林檎の美しさ、超プロ集団によるハイグレードで心地の良すぎる演奏、照明や映像と音楽の融和、有意義なダンサーの配置、セットリストの構成、観客目線での演出…と言うまでもなく素晴らしかったが、このような要素が集まっているせいか、本当に何度観ても飽きない。全く飽きない。
私が林檎班(FC)に所属する熱狂的なファンであることを差し置いても飽きることはないと思う。
なぜなら、椎名林檎の人生を表現したノンフィクションな一つの演劇を観ているような感覚だからだ。その脇を固めるのがトップクラスの指揮者に演奏家にダンサーに映像ディレクター。そして、お祝いに訪れた豪華なアーティスト達。こんなに完成されたステージがあるのか、と心底感心した。

次に、何と言っても椎名林檎の美しさだ。
先述した全体的な素晴らしさの裏側には、トップクラスのアーティスト達が椎名林檎のために集結するほどの彼女の魅力や人柄が垣間見える。
以前、番組のインタビューで「自分の思いを曲に反映したことはない、自分が求められていること、立ち位置を理解した上で求められている曲を提供しているだけ」というような趣旨の話を聞いたことがある。さらには、私のような凡人が日々会社で過ごしているように、「依頼や提示された報酬に見合った仕事をしているだけだ」と、才能に溢れる彼女は語っていた。これもまた椎名林檎の魅力の一つである。

外見的な美しさは言うまでもなく、好きなところを書き出すと止まらないほどであるが、思考や観ている世界、自分の考えを表現する方法が他者とは全く異なるのだと強く感じる。個人的な見解であるが、椎名林檎が唯一無二の存在として輝き続けられる理由は、ここに強く有ると思う。故に、ライブの演出や衣装、構成には一際光るものがあって、心から美しく素晴らしい。


あくまでも個人の感想だが、私の心に凄まじい衝撃と野心を与えた「椎名林檎 (生)林檎博'18 ―不惑の余裕―」で感じたことを記録しておきたい。

【1】
まずオープニングの期待感及びエンディングの満足感が凄い。一つのショーとして完結しているので、スタンディングオベーションをしてしまうような、会場が一体となれる輝かしく特別な空気が漂っている。本当に存在しているのか分からない程に美しく妖艶で、しかし、一方では自身の培ってきた感覚やプロの力を惜しみなく放出してくれる椎名林檎がステージに立っているこそ生まれる特別な感情であると考える。
椎名林檎がステージに登場した瞬間、目の前に居ることが信じられないほど"人"の気配はないのだが、歌が始まると"人(椎名林檎)"によって完全に創り出された雰囲気に圧倒されてしまう。この二面性が両立した上で相乗効果を生み出せるの女性が椎名林檎なのだ。

【2】
次に構成と演出。
このライブでは、40歳の記念ということもあり、椎名林檎改め椎名裕美子の生涯をともに振り返る機会を頂いたような感覚に陥る。言うなれば、日頃は拝むことのできない、噂には常々聞いていたとても美しく洗練された重厚な本を、椎名林檎によって読み聞かせてもらっているような感覚である。この日だけの限定で。こんなに嬉しく胸が高鳴ることはない。椎名林檎のファンでない人には大袈裟に聞こえるだろうが、本当にそれほどの破壊力がある。自分の視界が狭かったこと、固定概念に囚われていたこと、まだまだ可能性があること、を優しく高らかに気付かされる。

実際に、このツアーでは、孔子の論語に基づいたツアータイトルがつけられていると推測できるが、更に本意があるような気がして、日頃は絶対に調べないであろう論語を調べてみたりするのである。

ふ‐わく【不惑】
1:[論語子罕]まどわないこと。
2:[論語為政「四十而不惑」]年齢40歳をいう。

椎名林檎は40歳になり不惑の境地に達したということだ。実際にライブで拝める不惑余裕な表情がたまらなく美して尊い。

続けて、この論語はそれ以前の年齢、それ以降の年齢についても言及されており、当時25歳だった私は30歳に纏わる部分を探した。

じ‐りつ【而立】
[論語為政「三十而立」]30歳の称

要するに
”三十歳になって、その学力の基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。”

ツアータイトル一つで、受け手に一種の意欲を搔き立て、学びを提供し、時には感覚や思考まで替えてしまう。これも椎名林檎のプランに含まれているのであれば、とても恐ろしく優しい人だな、とつくづく実感する。私は30歳を目前にして、背筋をしゃんと伸ばすことができたし、そのおかげでやりたいこと、自分にできることに後ろめたさなく向き合うことができた。

【3】
何と言っても、椎名林檎の美しさと、様々な椎名林檎を彩る衣装たち。
あれほど幅広いジャンルの衣装を最高な美しさで着こなし、ワンステージの中でヘアスタイルを5パターン、6パターンと変えても違和感のない表現者は他にないのではないだろうか。本当に心から全て似合っているし曲の世界観にも合っている。セットリストを組む時に、①観客の盛り上がり②使用する楽器や編成③尺④衣装替えの段取り⑤大枠の構成と雰囲気、実際にはこれ以上の要素があるだろうが、全てに配慮してあの形まで持っていくことはどれ程大変なのだろうかと思う。吹奏楽のステージを組むだけでも大変で神経が擦り減っていくというのに。

ただ、同時にその楽しさも分かる。信頼できる仲間、才能がある仲間、新しく手を取った仲間と何かを創りあげることはこの上ない程に楽しく快感である。

椎名林檎の場合、観客からは気付けない仲間、気遣い、努力、工夫、そんなものが山ほど存在すると思う。椎名林檎はいつもダンスだって完璧に妖艶に踊るが、どこにそんな練習する時間があるのだろうと不思議なぐらいだ。
しかし、その見えない部分を最後まで公にせず、こちらの心配や余計な推測までをもプロの力で心地よく封じ込めるのが椎名林檎なのである。
私はいつもまんまと封じ込められ、観れば観るほど、聴けば聴くほど椎名林檎と、彼女が紡ぎ、創り出す世界観に翻弄されていく。そして、さらに欲を言えば、死ぬまでずっと椎名林檎に翻弄され続けていたいと思う。

【4】
死ぬまでずっと、と述べたが、椎名林檎が作る曲はありきたりではないはずなのに自分自身にすぅっと重ねることができてしまう。言わば共感の嵐。
そして、そう感じているのは決して自分だけではなく、どんな人の心にもグサッと刺さるワードやメロディーが盛り込まれているのだ。
故に、10代の頃に共感した椎名林檎、20代になって共感した椎名林檎、この先共感していくであろう椎名林檎はそれぞれの私に影響を及ぼし続け、生きる指針になってくれるのである。

今、とても楽しみなのは、母になった後に聴く椎名林檎は私の心にどう刺さってくるのだろうか、ということである。
「ありきたりな女」「カーネーション」、今は麗しく儚い女性にうっとりと耳を傾けているが、母になった後は自身が主役となり涙を流すのだろうか。また、10代の頃、今、毎日のように聴いている曲たちは30代、40代の私にどう響くのだろうか。椎名林檎はそんな楽しみがずっと続く。これが、死ぬまでずっと、椎名林檎に翻弄されたい所以である。

椎名林檎のように、若さを存分に楽しみ、好むことに注力し、自身の才能に気付き、年齢を重ねることに怯えず、生涯のパートナーと才能を認め合い、かけがえのないものを守り、その中で生まれる葛藤や苦悩までもを活力に変え、他者に影響を与えながら華やかに胸を張って人生の幕を下ろすことができたら、といつも考えている。


椎名林檎と同じ時代に生まれて幸運だと感じる。この先の人生においても、きっと椎名林檎という表現者の虜となり、人生ごと彼女に寄りかかっていくと思うが、この幸運に感謝しつつ、私は今日も椎名林檎を聴く。


皆さん、機会があれば不惑の余裕、観てみてね!

2021.05.08 mimi

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