見出し画像

赤羽史亮さん・地主麻衣子さん・天野祐子さん ― VOCA展2023@上野の森美術館で印象的だった3作品

赤羽史亮さん《Night echoes》

赤羽さんの作品には、両手を後ろにつけ、放心するかのように口を半ば開けている人が描かれていて、その口から外の"胞子"を吸い込んでしまったかのように、身体のあちこちには空洞ができ、その中に蒼ざめた卵のようなものを着床させている。右腕からは茸のような白く長いものが2本生え伸びていて、その内の一本は、”頭”を、近くの腎臓みたいなものに差し入れており、臍下の辺りから緒の如くうねる白い管は、大きな肝臓みたいものと繋がっている。臍下より少し上、おなかの辺りからも白い管が出ているけれど、それは宙、というよりもドロドロ、ゴロゴロとしたスープじみた周囲の空間へ溶け込んでいて、右足の甲からも、右腕から出ていたり、人体の周囲を回遊していたりする”茸”がもっと育って、太く硬くなったようなものが突き刺さるように飛び出している。”左腕”はもはや繊維の束で、色味も薄白くなり、指の先も、”茸”みたいになっており、全身もよく見ると希薄な印象で、ところどころ糸を引いている。輪郭、内と外すら実はあいまいで、臍下とおなかから伸びる管を逆に辿ると合流していて、その黒い束は身体の中とも表面ともつかないところを通って、腰辺りから突き抜けそのままフレームアウトしていて、そこから枝分かれした流れは、”両腕”へと合流している。

…という具合に、人間が描かれていると、どうしてもそこから描写したくなるし、逆に周りから描写していったとしても、その行き着く先に”重要”なものとして人間が控えているような書き方になってしまう気がする (もし、サンゴがこの作品を何かしら描写できるとしたら、人体のおなかの辺りに、まさしくコーラルレッドで描かれた線の集まりから語り始めるのだろうか)。しかし赤羽さんの作品では、むしろ人間が、向かって右側に描かれた、巨大な肺みたいな何か(臓器で例えてしまうことも、その臓器を持っていることに由来している気がする)をはじめ、その周囲に無数に漂っているものたちが織りなすスープのような空間に寄生しているようで、盛り上がった絵の具、その鳥の巣みたいなくぼみに寄する卵みたいなもの(ビーズワックス?)と近しいし、鬱蒼とした緑の中に走る、人ひとりやっと通れるほどの道を行く時の、ここでは私、人間が一番ではないのだという確信とも通ずる気がする (単に私が苦手なだけかも知れないけれど)。

人間を中心に据えないことは、人体というモチーフの扱い方だけでなく、絵の具の扱い方自体にも表れていると思う。巌の如く厚塗りされていることや、砂や蜜蝋・繊維などが塗りこめられていることは、絵を思うまま描くために作られた絵の具を、色の付いた粘性の高い混合液、それこそ泥や血といったもののひとつとして扱っているみたいで、絵の具が、虫の卵めいた蜜蝋を貼り付けられるほどの粘性の高さで、キャンバスにへばりついて絵を成していることを、身も蓋もなく突きつけるよう。

地主麻衣子さん《フォトン》

迫り来るその画面を目でクライミングするような赤羽さんの作品に対して、地主さんの作品、その輪郭が綻びにじみと化した視界は霧の中へ分けいる心地。モニターの黒い枠で区切られつつも、乳白色がかった画面は、照明の光によって薄暗がりを丸くおぼろに払われた壁とも近しくて、ふるふると震える水滴を、木洩れ日の下で眺めているよう。…などと考えていると「液晶」という言葉がふと浮かんで、調べてみると、固体と液体の中間の状態を示しているらしく、にじんだ被写体だけでなく、それを映し出しているモニター自体も、液体の方へ暫し近づいて潤んでいるみたいに見える。

その映像と共に流れている吉﨑有希絵さんの語りは、”霧”に煙る向こうにどんな景色が広がっていたのかを言葉に置き換えていくだけでなく、例えば、列を成し、(おそらく)帰路を急ぐ車のヘッドライトが、目を光らせて走る動物に見えたりと、その光景を眼に映した時に吉﨑さんの心がどんな連想をし、それによってどう動かされたのかを、丹念に、でもやわらかく描写していて、見えたものと視えた (観えた?) ものとを行き来するそれはまさに一篇の小説。吉﨑さんの『Pinoko book』が、”実話”だからエッセイ、なんて通り一遍の区分けを軽々超えるような、小説的な手触り(それが何かは分からないけれど、読んでいる内に、著者の物の捉え方、感じ方とひととき同期する感覚のような気がして、「物語的」とはまた違うものだと思う)を持っていたように、五感で感じ取れるものを突き詰めていくと、ある時ふいに詩的な領域に差し掛かるようなところは、地主さんの作品と近しい気がする。

その語りの多くは、2週間近く経った今ではほとんど忘れてしまっている(コンサートに行っても、舞台に行っても、音はすぐに薄れてしまう)けれど、ガラスや、何かの表面に反射する光のうつろいについて、その動きを愛でるように描写していたことや、最後の方で、色の名前をはじめは訥々と、段々勢いづいて(「紫」の前後で、テンポが一瞬速まったような気がして、それが妙に印象的だった)列挙して、光の細部に名前を与えていった果てに、「綺麗」と漏れたことなんかは多分あった気がして、その”忘れやすさ”や”たよりなさ”も、小説を読んでいる時に浮かんだ光景は、割といつまでもうすぼんやり浮かぶけれど、文章自体は覚えていなくて、人にも自分にもそれがどんなシーンだったか説明できない、そんな感覚と通じると思う。

天野祐子さん《同時に存在するということ》

小説的な感覚は、天野さんの作品にも感じられて、曼陀羅の如く、あるいは、旅行先で ”お店を広げた” かのように留められた写真たちは、何らかの関係性に基づいてゆるく区分けされたり、破線や糸で結びつけられたりしていて、小さな写真に塗られた琥珀のようなカシュー塗料が縁でふっくりと、そしてその先から伸びた糸にも雫のように溜まっている。その濡れたような表面にはどこか遠さがあって、写真と写真の関係、何故それらが隣り合っていたり、線で結ばれているのかを何となくしか把握できないこととあいまって、人の旅行話を聴くときの、その人の楽しさ、嬉しさに共振しつつも、どこか霞がかって夢のように思えるのと近しい気がする。

そしてこの感覚は、この2月に拝見した△ sankaku (天野さん・小出彩子さん・杉浦藍さんによるコレクティブ)の「この川の前の名と今の名を」(@second 2.) で、お三方が遊水池を探索された際の記録/記憶を、展示空間上のインスタレーションと、zineとしてまとめられた写真群とを行き来しつつ追体験する心地とも通ずる一方で、展示空間を歩き回ることとも、本を順繰りにめくっていくこととも違う、平面上を目で泳ぐ、自由でもあり、どこから見て、どう進んでいけばよいのか一瞬たじろぐような感じが、地図を広げてあちらこちらと机上旅行でもしているよう。

そうやって目を遊ばせることと、天野さんが、心惹かれたものを写真に収めていくとの視線の動きとが重なりつつ、視線の動きにはもうひとつあって、それは、四方からこちらを窺うような猛禽の眼で、撮られっぱなしではなく、向こうも”こちら”を天然のカメラで切り取っているよう。そう思うと、四隅をはじめ、いたるところに散りばめられた天体も目のように見えてきて、”observer” と称された猛禽ですらカメラに撮られているように、見ることと見られることが表裏一体であること、お互いに関係しあっていて、その関係の網の外には出られないことを、この作品は静かに示しているのかも知れない。

写真が模造紙にピン留めされていることや、継ぎ足された紙が庇のように半ば折れて影を落としていることも、この作品が”一時的”なもので、時が来れば写真は取り外され、”庇”も折りたたまれ、丸められるようなこと (実際は分からないにしろ) を想像させて、旅に終わりがあることをも、この作品は含んでいる気がする。そしてそれは展覧会そのものとも通じていて、会期が終われば作品は方々に散っていってしまうけれど、それらが束の間一堂に会していたことは、紙の上に点在する針の跡の如く、記録にも記憶にも残っていく。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?