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ハイデガーの技術論〜4つの疑問点の検証〜

前々回の記事で、ハイデガーが述べる技術と国家の深い関係性について、4つの疑問点を挙げていた。そして、その検討の補助線として、ブルデューによるハイデガーの政治性についての分析を前回の記事で紹介した。

今回の記事では、逐一その疑問点について検証してみたい。

疑問点1についての検証

疑問点1.国家が技術を通して動員するという見解は同意できるが、そのことを批判的にとらえるハイデガーがなぜよりによってナチスに加担したのだろうか?

前回記事「ハイデガーの技術論〜技術と国家〜」より

この点は前回記事のブルデューの分析が参考になるであろう。当時の政治状況がハイデガーの思想に反映しているのだ。つまり、ハイデガーは知識人としての既得権益を守ることに汲々として、技術による動員に抗っているだけなのだ。

現代は人びとが巨大IT企業に個人情報を無償で提供する技術の奴隷になっている状況だと指摘する論者が多いが、ハイデガーの射程はそこまで及んでおらず、ブルデューによれば彼は自らの既得権益を守ることしか視野に入っていないわけだ。

ナチスは第三の道として、資本主義や社会主義とは異なる主体性を発揮する可能性をハイデガーによって期待されていたわけだが、ブルデューによればそれは自らの権益の守護者としてナチスに期待しただけであり、国民一般の福利厚生を考慮していなかったわけである。

蛇足だが、ハイデガーは国民一般が社会福祉(Fuersorge)によって福利厚生が得られることに対してネガティブな叙述を残しており、その点もハイデガーの「保守革命」の政治性を裏書きすることとなっている。

当のナチスはアウトバーンの建設で雇用を拡大したり、社会福祉を拡充したりすることで国民の支持を拡大していくわけだが、徐々にナチスがハイデガーの託した希望と異なる路線を歩んでいくことで、彼の心がナチスから離れていったようである。

その点、ハイデガーのナチス関与をめぐる問題は一般に知られるよりも複雑であるが、ハイデガー自身の利己的な政治性は単純明快である。

疑問点2についての検証

疑問点2.技術が人々を動員する一面があるのは、近年のIT企業がSNSや動画を通して人々の意識を形成している点からして同意ができるが、その一方で、『ファクトフルネス』において端的に示されているように、平均寿命や経済的豊かさの点で技術が人々に大きな福利厚生をもたらした一面も無視できないのではないだろうか?

前回記事「ハイデガーの技術論〜技術と国家〜」より

この点は、「技術の民主化」は可能か?という問いが鍵になるであろう。私は現場の技術者として部分的にそれは可能であると考えている。3Dプリンタやドローンに代表されるオープンソースの技術は人びとに製造手段の低廉化をもたらし、『MAKERS 21世紀の産業革命が始まる』に明確に記されているように、部分的には技術の民主化を推進している。

このオープンソースの技術は、サプライチェーンから疎外されている発展途上国であっても、必要なところで必要なだけの量を製造する高度なモノづくりが部分的には可能な状況を創り出している。

つまり、IT技術に対しても、機械学習であればオープンソースから開発されているケースも多いので、それをいかに民主化していくか(「民主化」とはインターフェースのバリアフリー化まで包含してる)、そして人々に教育の機会を創出していくかにリソースをつぎ込むことが重要となる。

技術の暴力からすべての人々を守ることは難しいかもしれないが、自動車という技術に対しても、排ガス規制や安全基準を課してある程度は民主的に制御してきた実績はあるので、それを新しいIT技術についても適用することは可能であろう。この点は疑問点4についても重なるので後述する。

ハイデガーの擁護者は、上掲書の著者もそう論じているように、技術とその背後にあるゲシュテル自然を存在者として対象化して操作可能にする働き自体に陥穽があり、自然、ひいては存在そのものを明らかにする芸術性、とりわけ詩作という根源的なものづくり経験に立ち返る必要を提唱する。

しかし、そのような形而上学的な次元、ハイデガーの言葉を使えば「存在論的差異」に遡行するよりも、技術が適用され機能する現場、そして人々を実際にどのように益するのかを検証する功利主義的、あるいはプラグマティズム的な立脚点も必要であると考える。ブルデューは、その形而上学的な遡行については政治性の空虚さとまで指弾している。

政治は人びとが社会的に交わる場である限り、政治学の一つの基軸である功利主義的、あるいはプラグマティズム的の立場から、技術はいかに民主的に制御すべきであるのかを検証するフィンバーグの技術哲学の論点は重要となる。

上記の論文においてもハイデガーは批判的に分析されているが、この点は第四の疑問点に関わってくるので、その点は後で触れる。

疑問点3についての検証

疑問点3.現代では国家と技術の結びつきよりも、多国籍企業と技術の結びつきの方が深いのではないだろうか?国家が半導体製造の多国籍企業を誘致するために膨大な補助金をつける時代であるし、多国籍企業が地球上に張り巡らせている膨大なサプライチェーンは、個々の国家が制御できないようになってはいないだろうか?

前回記事「ハイデガーの技術論〜技術と国家〜」より

この点については、アントニオ・ネグリとマイケル・ハーツが書いた『帝国』の論点を補助線を引いて検証することが必要であろう。

本書は、インターネットの隆盛によるグローバル企業、とりわけ巨大IT企業の台頭=「帝国」、国民国家の解体、そしてそこから漏れ出したマルチチュードのネットワークがそれに抗うという問題意識で貫かれている。

国家がグローバル企業に飲み込まれているという現象をうまく説明できている理論であるが、その一方で、コロナ禍を大きな契機として、この40年隆盛を誇った新自由主義が終わりを迎え、米中の対立という国家の枠組みが鮮明にもなってきている。巨大企業すらもやはり政治の枠組みは乗り越えられず、国家に従属していると言えるのではないかという疑問も残る。

前回の疑問点で挙げた補助金についても、国家が企業に飲み込まれているというよりは、企業が国家間の経済戦争の駒となっている側面の方が強いのであろう。巨大な多国籍企業といえども、経済活動の自由を全面的に享受できているわけではなく、国家の規制によって販売停止になってしまうことも多々あるからだ。

バグダッドのタハリール広場を埋めるデモの群集 ニューズウィーク誌より

アサンジのウィキリークスやアラブの春の勃興の時に絶賛されたマルチチュードの国境を越えたネットワークについても、中国共産党政府による香港への言論の自由の締め付けを見ると、国際的な世論が香港人民の言論の自由を擁護できているようには見えない。

その一方で、気候変動をめぐる国境を越えた若者たちの運動は、グレタ・トゥーンベリというアイコンを掲げ、世論に大きな影響を与えるなど、多面的にマルチチュードの動きについては検証する必要はある。

『帝国』はハイデガーの技術と国家に関する問題意識、いわゆる技術決定論については議論できていない。政治的立場としては、保守革命を狙ったハイデガーに対して、ネグリ=ハートは革新陣営に属するので、民主的に政治は制御できるという楽観論がベースにあり、しかもそれは国家という枠組みを解体して、多国籍企業との闘いが視野に入っている。

Linus Torvalds Creative Commonsより

マルチチュードが政治を制御できる以上、技術も民主的に制御できるという楽観論に立っていることが想定でき、リナックスのような技術の民主化を積極的に擁護している。先ほど第二の疑問点の検証時にも挙げたオープンソースの製造技術もその延長線上にある。

『帝国』は、ハイデガーとは交わりそうもない政治性が根底に流れているが、その楽観論がハイデガーがとらえきれなかった領域をクリアに映し出している。その点で、ハイデガーの技術=国家論の輪郭を描き出す上で、逆説的に良い補助線として機能していると思われる。

疑問点4についての検証

疑問点4.技術=国家の主体性が個人の主体性よりも優越する立場は「技術決定論」と称されているが、実際の技術開発の現場では消費者の意見や要望は取り入れられており、また公共事業においても基本的人権や環境アセスメントが不十分であるにせよ意識されているケースが見られるのではないだろうか? 

前回記事「ハイデガーの技術論〜技術と国家〜」より

この点については、自動車に関して言えば、宇沢弘文『自動車の社会的費用』に代表される観点により、排ガス規制にとどまらず、安全基準や様々な課税により自動車技術の開発は規制されてきた。

ハイデガー独自の技術決定論は深遠な哲学のように見えて、社会から超絶とした技術の本質があるかのように見えるが、ブルデューの社会学的分析が明らかにしたように、保守革命の道具にしか過ぎない一面がぬぐいがたい。唐突な芸術論も、同時代の保守思想の政治思潮との類似性を見て納得できる面がある。

しかしながら、先にも引用した下記のフィーンバーグの論文において指摘されているように、技術は社会と複絡み合って構成されている以上、技術を民主的に制御することは可能であるし、その事例は枚挙にいとまがない。

確かに、指数関数的な速度で私たちに影響を与えるIT技術については、私たちが自動車について制御できているようにはよく制御できていない。中国共産党が権威的に猛スピードで人民を監視・支配する情報網を見ていると、ハイデガーが指摘するような技術決定論が機能しているように見える。

しかし、フィーンバーグの技術哲学に遡及するまでもなく、現場の技術開発は社会や顧客の要請に応えるために倦むほどのすり合わせが行われて、とても超然とした技術が自己展開するような要素はない。

IT技術が指数関数的に進化しているのも、独自に進化しているというよりは消費者にとって快適なものが加速度的に受け入れられるという面があるのだろう。IT技術は従来技術と比べて、限界費用が極小なので摩擦係数が小さいから進化が速いだけだという見方も可能だ。少なくとも、ハイデガーの技術哲学がIT技術の説明にマッチしていたということはない。

そもそもIT技術に関しても、先ほど例示したリナックスや3Dプリンタのようなオープンソースの事例が見られる。フィーンバーグの古典的な技術哲学はうまくIT技術の民主化やオープンソースについては論じられないので、新しい技術哲学の展開を待つことになる。

ここではそこまで論じられないので、別の機会にその検証を行いたい。

まとめ

ハイデガーの技術論は、唐突に芸術論(とりわけ詩作)に根差した根源的なものづくり体験へと展開しており理解に苦しむ点が見られる。しかし、既得権益の維持とそのための「保守革命」を狙う彼の利己的な政治性という立脚点から透かして見ると、その意図が明晰に見える。

いわゆる技術決定論についても、技術の内実に根差しているのではなく、ハイデガーが技術を換骨奪胎して装飾した政治的存在論に根差している。技術は社会と複雑に絡み合って構成されており、社会から超然とした独自の原理で展開するはずがない。つまり、技術決定論は技術の具体的内実からは乖離している。

また、技術をどの程度民主的に制御できるかどうかは、個々の技術の内実によって異なるとしか言いようがない。もちろん、原発のように政治的にも現場のオペレーション的にも制御が難しい技術もあるし、限界費用が極小であるために進化速度の速いIT技術もまた制御が難しい。

しかし、それと技術決定論は直接関係はない。自動車のように長年政治が民主的に制御しようとしてきた技術もあり、普遍的に技術決定論をすべての技術に適用できるわけではない。

ハイデガー擁護者は存在論的差異という魔法の杖を使って技術をすべて技術決定論の闇の中に葬ろうとするが、それは政治的な意図に根差さないのであれば、ハイデガーの魔術に踊らされているとしか言いようがない。

次回以降の記事では、近年大きな課題となっている気候変動について、エネルギーに関する技術をどのように民主的に制御することが可能なのか、また、気候変動をどの程度民主的に制御することが可能なのか、実践編として検討してみたい。

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