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19 歩くということ

前回18で歩くということに関する体験が思い出されてきた。巡礼に必要不可欠なことなのでここにまとめておきたい。

エピソード1

それはカミーノ・フランシスをサンチャゴへと歩いている途中のことだった。まだ700キロの巡礼路の半ばまで来ていないところだったと思う。

遠く向こうの方から誰かが近づいて来た。

あれ〜と思った。こんな農道を人が歩いている。こりゃもしかしたらサンチャゴから折り返して帰ってくる巡礼者かも。

正解だった。

彼の歩きは独特で、まるでゴム風船のように重さがない体でふわふわ、ふわふわっと歩いているように見えた。ちょっとお化けっぽかった。お化けはみたことがないが。バックパックの重さや、長いを距離を歩いているわれわれ巡礼者に特有の体を引きずるような重さが感じられないのが不思議だった。

ちょっとわれわれよりも天国に近い人。そんな印象を感じた。

エピソード2

毎日、夜明け前に起きて、夜明け前に一人で巡礼をはじめていたそんなある日。明け方の薄暗い凸凹な林道を歩いていると、何かそれまでと道の様子が違った。ここを昔のキリスト教徒がサンチャゴへと歩いていたのだとちょっと感動しながら歩いた。いつもなら比較的ゴツゴツした感じを足裏からうけるものだが、その朝は何だか道が柔らかく感じた。薄いウレタンクッションの上を歩いているようなそんな感じだった。

これに近い歩行体験を2回ほどしたことがある。一つは2001年ごろミャンマーの森林僧院で歩行瞑想をしていたとき。もう一つは数年前、タイのバンコクの道でである。

エピソード3

サンチャゴ・デ・コンポステーラを参詣した後、休む間もなくフィニステーラを目指した。その途中、マン・オブ・アイルというイギリスの横にちょこんとある島から来たという男性と一緒になった。彼の歩きはとても速くて、はじめは一緒に歩き始めてもすぐにあっという間にはるか向こうに消えていく。路傍で休んでいる彼をみつけてどうしてそんなに早いのかと聞くと、歩き出すとすぐにどうもある種の瞑想状態に入るのだと言う。そして、心が無の状態になったときの歩きが彼の俊足なのだと話してくれた。

エピソード4

彼の歩き方は、小さな体で重たい荷物を担いでいたオーストラリアの女性に、ティック・ナット・ハンの呼吸をリズミカルにする歩行瞑想を教えたら、数分もしないうちに身につけて、ものすごい速度で歩き去っていったあの巡礼スタイルを思い出せるものだ。

エピソード5

つぎの話は、カミーノ・フランシスを2回目に歩いたときの記憶だと思う。サンチャゴのあるガリシア州で、大きな川を越えるとポルト・マリンという街がある。そこから最終地サンチャゴまでの距離が約90キロらしい。

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毎日だったかは覚えていないが、そのあたりから、歩くと急にいきなり視界がひらけたようにみえて、しかも、それまではここは以前通った町だとか村だとか過去の巡礼記憶を思い出しながら歩いていた。それが、そのあたりからガラッと変わり、眼前の景色がまったく見知らぬ初めて訪ねる地のようにうつりはじめた。ものすごく新鮮な感じがする。そして、バックパックやそれまで引きずるようにしていた体の重さがなくなっていった。道を風がそよそよと吹き抜けるように、滑るように歩けた。それは、以前に巡礼路でサンチャゴから折り返してくる巡礼者のそれに似ていた。

こんなことを書いていると、江戸時代の飛脚や駕籠かきの話を思い出す。例えば、「飛脚」は江戸~大阪間700キロを3日間で走り抜けたそうだ。また、「駕籠かき」二人は、お客と籠で約100キロを担ぐことが当たり前で、1日20キロメートルほど走ったという。両者とも、現代人のわれわれが想像できないような身体性を有していたことが想像される。

まとめ

水や食料を含めてもぼくのバックパックは10キロぐらいの重さだろうと思う。そして、毎日歩く距離も30キロを超えることは珍しい。ポールは持たない。そんな条件下での歩きに関する感想を記しておきたい。800キロほどの距離を2回歩いたので、これはある程度煮詰まった知見でもある。

・まず歩きやすい防水の靴を用意したい
・バックパックも背中にピタッと吸い付き歩きを邪魔しないものを選びたい
・手には何も持たず前後上下左右にぷらぷらと自由に振れた方が良い
・巡礼に即した無駄のない楽な歩き方があるのだろう
・呼吸法と密接に関わっている
・心が鎮まり通常の思考が消え、体や荷物の重みも感覚的に消えていく
・目は前を見ているというより前の景色が見えているという受け身なものとなる

つづく