農民作家山下惣一の苦闘と農政の失敗

今朝のNHKの番組は「農業のない国は亡びる」とセンセーショナルな番組でした。山下氏は唐津市の零細農家と零細漁師の町で氏は中学生の頃、肥桶を担いで一般家庭からし尿を集めて畑や田んぼの肥料にしていた。当時の日本の農家では当たり前であったが臭いが酷いし尿桶を担ぐ様を人には見られたくなかった。そんな農業に見切りをつけて家出をするも舞い戻ってしまった。その頃、高度成長期に差し掛かり、農水省は儲からないコメ作りを止めて商品作物(例えば🍊)作りに転換することを推奨した。山下氏は結婚日の翌日から新婦(19歳)を伴って、近くの山に行ってミカン畑を開拓した。鍬や鎌などを使って人力で開拓した。然し🍊の木は植えてから10年しないと実が付かないらしく収穫を楽しみにしていたが、多くの農家がミカン栽培に手を出していたので価格が暴落してしまった。暴落する前は農家の嫁の10本の指に指輪が光っているとマスコミが持て囃していたらしい。
コメ作りは「死米」が多くなり、土壌を調査すると微生物の数が少なくなっており、腐ったにおいまでしたらしい。山下さんの父親は稲わらなどを田んぼにすき込んで土壌の劣化を防いでいたが、手間のかかる作業は敬遠されていた。JAの営農指導は①機械化、②多種多様な化学肥料や農薬の使用、③大量栽培、④規格品づくり等で日本の国土に見合った農業は時代遅れと切り捨ててしまった。
山下さんらは農水省にミカン農家の窮状を訴えるも「みかんを作り過ぎたのは農家の判断の誤りでしょう」と冷たく突き放した。よくある話ですが。
その後追い打ちをかけたのは米国との貿易摩擦解消でオレンジやコメの輸入拡大が決まり、山下さんは🍊の木を伐採してしまった。その代わりに奥さんや親たちが野菜や魚の直売場を始めた。最初は農村に野菜の直売場なんて気が狂ったのでは?」と冷ややか目で見る人が多かったが様々な工夫で乗り切った。山下さんは女性や高齢者の力おそるべしと感じたらしい。
気を取り直して前から関心があったタイの農業の実態を調査に行くと、タイも化学肥料まみれの農業によって、借金のかたに農地を取り上げられる農家が続出していた。肥料や農薬を減らす農法を指導し、直売場経営を提唱したらしい。山下さんは『小農(家族規模の農業)』こそが明日の日本を支えるの業であると確信して、昨年87歳の生涯を閉じられた。
わが国は工業製品を大量生産することで高度成長を果たした成功体験を農業まで応用したが、見事に失敗した。今、若い人達が身の丈に合った農業、有機栽培に取り組んでいるのが山下さんにとって、「理想的な日本の農業だ」と言えるでしょう。

思い出話です


愛知県弥富市にある水耕栽培システムを売りにしている会社で社長から「日本の温室・水耕栽培のキッカケは朝鮮動乱です」と聞かされました。朝鮮半島に野菜を送るために日本の畑を見た米軍は「こんな非衛生な野菜作りはだめだ」と怒り、温室・水耕栽培を農家に命令した。当然、し尿の施肥は厳禁でしたね。平成23年に同社を訪れたのは植物工場が次の農業に活かせると考えて訪問しました。


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